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破滅を存立に

最終話、まとめ。

【曹操から曹丕へ、新たな魏の命脈を繋げる】


賈詡のこれまでしてきたことといえば、

追い詰められ、そのままでは殺されてしまうだとか、

あるいは破滅の危機に置かれたような者達に対し、

そこから上手く救い出してみせることだったが、

彼が曹操に仕えるようになって後、

新たに王国を興して魏王となった曹操の後継者問題に関して、

跡取りの指名に悩む曹操に対し、

賈詡はまた一つ、重要なアドバイスを行うこととなる。



※(『三国志 賈詡伝』)

「是时,文帝为五官将,而临菑侯植才名方盛,各有党与,有夺宗之议。

文帝使人问诩自固之术,

诩曰:“原将军恢崇德度,躬素士之业,朝夕孜孜,不违子道。如此而已。”

文帝从之,深自砥砺。

太祖又尝屏除左右问诩,诩嘿然不对。太祖曰:“与卿言而不答,何也?”

诩曰:“属適有所思,故不即对耳。”

太祖曰:“何思?” 诩曰:“思袁本初、刘景升父子也。”

太祖大笑,於是太子遂定。

诩自以非太祖旧臣,而策谋深长,惧见猜疑,阖门自守,退无私交,

男女嫁娶,不结高门,天下之论智计者归之。


この時、文帝(曹丕)は五官将に対し、彼の弟で臨菑侯・曹植の才名が

盛んだった。

それぞれ党が有り、宗主権を奪(夺)おうと議(议)論を重ねていた。

文帝(曹丕)は人をやって、賈詡に自分の地位を固めるための術(术)を聞いた。

すると賈詡は:“将軍はひろく徳を崇める態度をお持ちになり、

自ら質素で謙虚な行いを実践し、朝夕にたゆまぬ努力を惜しまず、

子の道に違(违)えず、

ひたすらこのようになさってください。”と答えた。

文帝(曹丕)はこれに従い、自ら深く砥砺した。

太祖(曹操)また、左右の者達を除いて、

ひそかに賈詡に(後継者問題について)聞いた。

ところが賈詡は何も答えず、ずっと黙ったままだった。

太祖(曹操)は言った:“どうして卿は何も答えないのか?”と。

賈詡は:“今ちょうど考えごとをいたしておりましたので、

すぐにはお答えすることができなかったのです。”と答えた。

太祖(曹操)は:“何を思っていたのか?”と聞いた。

すると賈詡は:“袁紹本初、劉表景升の父子について思いを

巡らせておりました”とだけ答えた。

するとそれを聞いた太祖(曹操)は大笑いして、

是に於いて遂に太子は定められた。

賈詡は自分が太祖(曹操)の旧くからの臣下ではなく、

また深い謀略に通じていることから、

人から猜疑心の目で見られることを懼れ、

自ら門を閉ざしてつつしみ、朝廷から退出した後でも私的な交際もせず、

自分の息子や娘達の嫁や婿の婚姻にも、相手を家柄で選ばなかったので、

天下の知恵者達は彼に心を寄せた。」



曹操は自分の王国を継がせる後継者を、兄の曹丕と弟の曹植の

どちらかにするかで悩んでいた。

しかし賈詡の与えた忠告が決定的となり、

曹操は遂に、曹丕を自分の後継と決める。


曹丕は曹操を継いで二代目の魏王となり、

そして漢王朝からの禅譲を受けて、初代魏王朝の皇帝となった。


家の宗主が後継者をハッキリと決めないまま放って置くと、

やがて対立候補毎に派閥が形成されて、

そこから身内の仲間同士での激しい内紛、内乱へと突入していってしまう。


孫権がそれで、後に「二宮の変」という泥沼の政争を引き起こし、

国内に多大な損害と疲弊を自ら招き寄せてしまう。


この場合、本人が悩み続けて時間を重ねれば重ねるほど、

派閥もまた成長を遂げてどんどんと大きくなり、

最後には国を分断してしまうような政争を引き起こす

ガンとなっていってしまう。


曹操もかなり、時間を掛け過ぎた。


だが本音で言えば、

曹操は曹丕と曹植のどちらとも、気に入らなかったに違いない。


もし赤壁の戦いの直前に亡くなった曹沖がずっと生きていれば、

曹操は迷わずこの子に国を譲り渡していただろう。


いい意味で曹沖は曹操と全く似ておらず、人格才質その他、全てにおいて傑出し、

そして完璧だった。


曹沖は彼がもし若死にしていなければ、

歴世の聖賢にも劣らぬ名君として名前を連ねていたことだろう。


逆に曹丕と曹植の二人は、曹沖に比べれば悪い意味で曹操と似ていた。


曹丕は曹操の、主に陰質で執着心の強く酷薄な、影の部分の性格を受け継ぎ、

また曹操もそれが自分自身の内面に抱える欠点なだけに、

余り気分良く、曹丕を見つめることができなかったに違いない。


一方、曹植のほうは曹操の明るい面のほうの資質を豊富に受け継ぎ、

放胆で才気煥発。

ただ才能面ではまだしも、一国を取りまとめる君主としての器量でいった場合、

とても破滅的で危うかった。


為政者としてのトータルのバランスで言えば、

曹丕と曹植で、果たしてどちらのほうが資質として適正を持っているか、

内心では曹操もわかっていたはずだ。


しかしそれでも中々、自分の中で収まりのつかない、

感情のしがらみが拭いきれずにでもいたのか、

決断は遅かった。


かつて袁紹もハッキリと自分の後継者を指名しないままにこの世を去り、

それが後の袁譚と袁尚、二人の兄弟同族対立を生む元となった。

そのとき沮授は袁紹にこう忠告をしていた。



※(『三国志 袁紹伝』注、九州春秋)

「九州春秋载授谏辞曰:“世称一兔走衢,万人逐之,一人获之,贪者悉止,分定故也。

且年均以贤,德均则卜,古之制也。原上惟先代成败之戒,下思逐兔分定之义。”

绍曰:“孤欲令四兒各据一州,以观其能。”

授出曰:“祸其始此乎!”

(九州春秋に記載される、沮授の袁紹に諌めて言った言葉:“世間では、

一匹の兎が街路を走ると、万人がこれを追うが、

一人がこれを捕[获]らえると、貪欲な者でも追うのを止めると。

持ち主が定まったからです。

また(後継者を決める場合)、年齢が均しい場合には賢明な者を選び、

人徳が均しい場合には占いをもって決めるというのが、古の制度でした。

どうか、上は先代の成敗の戒めをよくよくお考えなさり、

下は兎によって定まる云々の義[义]をお思いくださいますよう。”

それに対して袁紹は言った“私は四人の子を各々一州に据えさせて、

その能力を見たいのだ。”と。

沮授は退出していった:“禍はここから始まるのか!”と。)」



儒教の基本は長子相続だ。

曹丕は曹植よりも年齢が上で、徳行の面でも勝っていた。


だから賈詡も曹丕に相談を持ち掛けられて、もっと自分自身を透明にして、

慎ましく公明正大を心掛けるようにしていればそれで良いと、

そんなふうに答えていた。

才智などの問題ではないと。


もし曹操が曹植を後継に選んでいたとして、

これはやはり揉めたろう。


例えばそれが古くからの決まりだとか、慣例だとか、

それならばまあ、やむを得ぬかと、引っ込みもつきやすいが、

しかしこれが才覚や器量の面でといった場合、

余ほど相手と圧倒的大差でもない限り、

負けたほうでも中々、納得はしないだろう。


特に本来なら長子相続のほうが基本なのだから、

仮に曹植が後を継いだとして、曹丕側の取り巻き連中はとても収まりがつかない。


まして未だ、呉と蜀、二つの大きな敵対勢力を残し、

自国内で内乱が巻き起これば、

すぐさま牙を剥いて襲い掛かってきて、領土は侵食されてしまう。


しかし最終的に曹操が曹丕を後継にしたことで、

それで3代目の君主が曹叡になったことも、

結果として魏を存命させる上で、大きな意味を持つこととなった。


もし曹叡でなければ、諸葛孔明の北伐だって、

もしかして大ピンチに追い込まれていた危険性も高かった。


賈詡はそういった意味でも、

彼はまた、単に曹操の参謀というだけでなく、

一つの王朝そのものの存立に、

深く関わって大きな役割を果たしたといえるだろう。


「破滅から存立へ」という、


非常に彼らしい、命を繋ぐ、生きた仕事だった。




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