賈詡の軍才
賈詡の軍才と物事に対しての彼の見方。
【河陽津の戦い】
これはまだ賈詡が、都で董卓に仕えていたころ。
そのとき賈詡は董卓から、太尉掾のまま平津都尉として任命を受けていた。
※(『三国志 賈詡伝』)
「董卓之入洛阳,诩以太尉掾为平津都尉,迁讨虏校尉。
(董卓が洛陽に入ると、賈詡は太尉掾のまま平津都尉となり、
討虜校尉へと昇進した。)」
太尉とは漢王朝の主要三大臣である「三公(司徒、司空、太尉)」の一つで、
太尉は軍事担当大臣。
掾はその補佐役の役人で、
掾属ともいい、掾が正官で、属が副官になるとのこと。
太尉府の掾属は、合わせて24人ほどいたらしい。
賈詡はその一人ということになる。
職務で言えば、賈詡は太尉・董卓の軍事顧問、ブレーンのような役目を
担っていたのではないか。
そして賈詡はその太尉付けの掾の身分のまま、平津都尉の官職に
任命されることとなる。
都尉も軍事担当官。
平津都尉とは、平津を守る都尉のこと。
平津は小平津ともいい、津とは船の渡し場で、
平津なら平県にある渡し場ということ。
平県は司隷河南尹の一県。
平津はかつて184年(中平元年)、
太平道の張角による黄巾の乱が勃発した際、
その討伐司令官として大将軍に任命された何進が、首都洛陽の防衛のために、
洛陽周辺に築いた関・砦郡の一つで、
函谷、広城、伊闕、大谷、轘轅、旋門、小平津、孟津と、全部で八つあり、
何進はその八つの関にそれぞれ都尉を置き、「八関都尉」などと呼ばれた。
※(『後漢書 霊帝紀』)
「中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱『黃天』,其部帥有三十六方,皆著黃巾,同日反叛。
安平、甘陵人各執其王以應之。
三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。」
そして190年(初平元年)、
山東で袁紹、袁術、張邈、張超、臧洪、曹操らの手によって
反董卓連合が結成されたとき、
河南尹の小平津で、
一つの戦いが行われることとなる。
それが「河陽津の戦い」。
小平津(平津)は洛陽の都城のすぐ上、平県内の黄河の南岸に面した場所にあり、
その渡し場を押さえることで、
対岸からの渡河を防ぐような仕組みになっている。
河陽津とは平県の対岸、司隷河内郡河陽県内にある、黄河の北岸に面した
場所にある渡し場のことで、
そこには反董卓連合軍側の将、河内郡太守の王匡が駐屯していた。
詰まり黄河を挟んで、反董卓連合軍の王匡と、董卓軍とが、
北岸の河陽津と南岸の小平津に陣取って向かい合っていた。
先に董卓軍のほうが仕掛ける。
董卓は疑兵を使って、平県よりも西方上流にある河南尹平陰県のほうから、
北に向かって黄河を渡るような素振りを見せて、敵の注意をそちら側に引き付け、
そしてその隙に一気に、小平津から渡って河陽津の北岸へと上陸。
そこから迂回して王匡軍の背後へと回り込み、
散々に撃ち破った。
※(『三国志 董卓伝』)
「河内太守王匡,遣泰山兵屯河阳津,将以图卓。
卓遣疑兵若将於平阴渡者,潜遣锐众从小平北渡,绕击其后,大破之津北,
死者略尽。
河内太守の王匡は、泰山兵(王匡は泰山郡出身)を河陽(阳)津に派遣し、董卓を襲撃しようと図った。
董卓は疑兵を派遣して、平陰(阴)から黄河を渡ろうと見せかけ、
一方でひそかに精鋭の軍勢を小平から北へと渡らせ、
その背後(后)へと回り込ませて攻撃(击)し、河陽津の北で大いに破り、
死者は略され尽くした。」
【賈詡の軍才】
戦争が行われた場所は小平津で、
董卓軍の指揮はどうも董卓本人が執っていたような感じだが、
しかしこの戦いの作戦を立案したのは、
恐らく平津都尉の賈詡だろう。
戦い方が非常に独特で、とても素人に考え付くような作戦ではない。
他に特に目立った軍才も待たず、武張った将の多く見られる董卓軍の中で、
ここまで鮮やかな作戦を立案、実行できるほどの人物となれば、
もう賈詡しか考えられない。
賈詡は政治、外交、謀略、戦争と、多岐に渡ってマルチな能力を発揮する
才人だが、
その中でも特に際立っているのが、
彼の軍才。
前に賈詡は墨子の集団と、何かつながりがあるのではないかと考察したが、
墨子とは軍事技術の専門集団だ。
しかしかといって、賈詡はその自分の得意な兵法で、
ゴリ押しするようなこともしない。
賈詡と似たタイプを日本人に求めれば、
黒田如水。
“水の如く”というように、
賈詡もまた、物事の対応に臨機応変で、柔軟で、全てに無理がない。
賈詡は曹操の死後、文帝として即位した曹丕から太尉に任命される。
曹丕は“文帝”などといいながら、
彼は存命中、呉への大きな対外遠征を3度、積極的に行い続けたが、
余り芳しい結果は得られなかった。
これはおそらく呉蜀を意識しての対外パフォーマンスという意味合いが
強かったものと思われるが、
しかし戦争というのは決して自分達の都合ばかりでなく、
勝つためには、勝つために必要な条件が出揃って、そしてそれが上手く
合致したときにしか、
思うような成果は得られない。
※(『三国志 賈詡』)
「文帝即位,以诩为太尉,
〔魏略曰:文帝得诩之对太祖,故即位首登上司。
荀勖别传曰:晋司徒阙,武帝问其人於勖。
答曰:“三公具瞻所归,不可用非其人。昔魏文帝用贾诩为三公,孙权笑之。”〕
进爵魏寿乡侯,增邑三百,并前八百户。又分邑二百,封小子访为列侯。
以长子穆为驸马都尉。
帝问诩曰:“吾欲伐不从命以一天下,吴、蜀何先?”
对曰:“攻取者先兵权,建本者尚德化。陛下应期受禅,抚临率土,
若绥之以文德而俟其变,
则平之不难矣。吴、蜀虽蕞尔小国,依阻山水,刘备有雄才,诸葛亮善治国,
孙权识虚实,陆议见兵势,据险守要,汎舟江湖,皆难卒谋也。
用兵之道,先胜后战,量敌论将,故举无遗策。
臣窃料群臣,无备、权对,虽以天威临之,未见万全之势也。
昔舜舞干戚而有苗服,臣以为当今宜先文后武。”
文帝不纳。后兴江陵之役,士卒多死。
诩年七十七,薨,谥曰肃侯。子穆嗣,历位郡守。穆薨,子模嗣。
(文帝(曹丕)は即位すると、賈詡を太尉とした。
〔魏略に曰く:文帝(曹丕)は太祖(曹操)が、自分のことを魏の皇帝に
勧めたというやり取りを聞いていたため、
故に自分が即位すると第一に賈詡を上司として登用した。
荀勗別伝に曰く:晋の司徒に欠員が生じたとき、
武帝は新任には誰がいいかと荀勗に聞いた。
荀勗は答えて曰った:“三公は人々が仰ぎ見て心を一つに寄せる人物でなければ、
そうではない人を用いるべきではありません。
昔、魏の文帝が賈詡を三公に登用したとき、呉の孫権(孙权)は
これを笑いました。”〕
文帝(曹丕)は賈詡の爵位を魏の寿乡(郷)侯に進(进)め、
食邑を三百増やし、前のとあわせて八百戸とした。
また二百の食邑を分けて、賈詡の子の賈訪に封じ列侯と為した。
賈詡の長子の賈穆は駙馬都尉とした。
帝(曹丕)は賈詡に聞いて言った:
“私は命令に従わない者達を討伐して天下を一つにしたいが、
呉と蜀の、どちらを先にしたらよいだろうか?”と。
それに対して賈詡が言った:“攻取をこととする者は兵権を先にし、
建本をこととする者は德化を尊びます。
陛下は期に応じて禅譲をお受けになり、地の果てまで臨撫されております。
もしこれを文徳で安んじつつ、その変を待てば、
天下を平定することも難(难)しいことではないでしょう。
呉と蜀は小国といえども、山水の阻に依り、劉備(刘备)には雄才が有り、諸葛亮が国を善く治めています。
孫権(孙权)は嘘と偽りのない事実を見極める知識を持ち、
陸議(陸遜のこと)が兵勢を見ております。
蜀は天险に占拠して要地を守り、呉は江湖に船を浮かべ、
皆、にわかに謀るのは難しいでしょう。
用兵の道は、先に勝(胜)ち後(后)に戦い、戦いを量り将を論じ、
それ故、挙兵に失策が無いのです。
わたくしがひそかに魏の群臣を見わたしますに、
劉備や孫権に対するほどの者はおりません。
天威を以ってこれに臨まれましたとしても、未だ万全の情勢とは見えません。
昔、舜が干戚の舞い(たてとまさかりを手にした武舞)を舞うと、
有苗族は帰服致しました。
わたくしは今は、文を先に、武を後(后)にすべきときだと思います。”と。
しかし文帝(曹丕)は納得せず、その後、江陵の戦役を起こし、
士卒の多くが死んだ。
賈詡は年七十七歳にして死去し、粛侯とおくりなされた。
子の賈穆が嗣を継ぎ、郡守を歴任した。
賈穆が亡くなると、子の賈嗣が嗣を継いだ。)」




