董卓への出仕と長安襲撃クーデター.
賈詡の出自。
宮仕えから病を得ての退官。帰郷。
董卓への出仕と、彼の暗殺後、
報復の為の長安襲撃クーデター作戦まで。
賈詡文和。
私は三国志の登場人物の中で、この人が一番好きな人物なのだが、
しかし世間的にはやはり、
この人は生涯に仕える主人を何度も変えて、
それで非常に狡猾で、処世術に長けた明哲保身の野心家だといった風に、
現代でも見られがちで、
その点、非常に残念に思えてならない。
ただこの人の場合は魏延などと違い、三国志演義と史実とで
キャラクターが大きく変わることはなく、
殆どそのままの人なのだが、(笑)
しかしこの人の場合も見方を一つ変えるだけで、
実に意外と思える、面白い側面が見えてきたりもするのだ。
【賈詡の出自】
先ず彼の年齢。
賈詡は147年(建和元年)生まれで、
曹操と孫堅が同い歳で155年(永寿元年)生まれ。※孫堅は異説あり。
そして劉備が161年(延熹4年)の生まれと、
後世一般に老人キャラとしてのイメージの強い呉の張昭でも、
彼は実は156年(永寿2年)の生まれで、
詰まり賈詡は彼ら、三国志演義に登場する他の主役級登場人物達と比べて、
かなりの年長者であることがわかる。
因み魏の程イクの生まれが141年(永和6年)なので、
張昭どころか程イクのほうが余程の老人キャラだったりする。
それと賈詡の出身地は涼州武威郡姑臧県。
姑臧は武威郡の郡治所で、
また涼州刺史の在中する州治所でもあった。
元は匈奴王・休屠の領地で、昔は匈奴のことを、蓋蔵と言っていたらしく、
姑臧とは即ち蓋蔵の言葉から来ているとのこと。
ただ霊帝の中平年間以降から建安年間の末までは、同じ涼州内の、
漢陽郡の冀県へと、
涼州刺史の州治が移されたりもしていたという。
(涼州周辺地図)
他に姑臧郡の出身者としては、
後に賈詡が仕えることとなる張繍や段煨。
それと当時、長年に渡り北方の鮮卑族や西方の羌族などの異民族討伐に
多大な戦果を挙げ、
最高で三公の一つである太尉にまで昇った、
段熲という人がいる。
この段ケイという人の異民族討伐の活躍振りは凄まじく
“威震西土”と表現される程の働きで、
広く涼州内の異民族達の間で威名が轟いていた。
それで実は賈詡が、彼のキャリアの初め頃、
賈詡は一度、孝廉に選ばれ郎へと就任するのだが、程なく病を得て辞職。
しかしその帰郷の途中で、氐族の叛乱に遭遇し、
賈詡は同行者数十人と共に皆、捕らえられてしまう。
しかしそこで賈詡が、当時異民族に恐れられていた上述の
段ケイの名前を持ち出して、
自分は彼の親族だと偽り、遠回しに賊徒達に対して脅しを掛けると、
するとそれを聞いた賊徒達は驚いて、賈詡を解放したという。
早速見事な処世術エピソードだが、
ただこの時は結局、賈詡一人だけが助かって、
彼と一緒にいた他の者達は全て殺されてしまったという。
そのため、確かに知恵は凄いのだが、
しかしながら反面、“何だ自分だけか”といった、
この辺りがどうも、賈詡という人に付きまとうブラックなイメージへと、
繋がって行ってしまっているようだ。
だがこのエピソードにしても、
果たして賈詡は本当に自分だけが助かろうとしたのか?
或いは、彼の思惑では全員が解放されることを狙ってやったものの、
所がその意に反し、氐族側の連中のほうが、
賈詡だけ一人助ければいいやと思って、
結果として一人だけが助かってしまったと、
そう考えることもできる。
長い目で彼の人生を見渡した時に、そのような見方が出てくるのだが、
続いて彼の履歴を追っていくと・・・、
【董卓への出仕と長安襲撃クーデター】
彼は一度郷里へと戻った後、どのような経緯かは不明だが、
董卓の配下となる。
因みに賈クは都で病を得て引き返したとなっているが、
袁紹軍の配下だった田豊のエピソードに、
田豊が初め茂才に推挙されて中央へと出仕してみると、
そこでは宦官達の専横により、優れた人物達が迫害を受けていたため、
田豊は故郷へと引き返したといったような話があり、
だから賈クなどにしてもこれは、
余りに酷い朝廷の状況に、とてもいれらなかったのかもしれない。
※(三国志「袁紹伝」注、先賢行状)
「初辟太尉府,举茂才,迁待御史。阉宦擅朝,英贤被害,丰乃弃官归家。
(初めて太尉の幕府に辟招を受けて、茂才と推挙され、侍御史へと昇進。
しかし去勢した宦官達が朝廷を欲しいままにして、
英賢の者達が迫害を被っていたため、
田豊は官を棄てて郷里の家へと帰った。)」
そして賈クはその後、
既にその頃、宮中の支配者となっていた董卓の部下となるのだが、
賈詡は太尉となった董卓付けの掾属(正官が掾で、副官が属)、
24人居たらしいがその一人となる太尉掾として任命を受け、
さらに後、太尉掾のまま平津都尉に任命され、そして討虜校尉へと昇進を重ねた。
しかし賈詡と董卓の繋がりはいつ頃できたのか?
賈クは“太尉の段ケイが~”と語っていたが、
段ケイが太尉になったのは二度。173年(熹平二年)と179年(光和二年)。
まだ黄巾の乱発生以前で、
董卓は184年(中平元年)に、その黄巾の乱討伐のため、
都に東中郎将として呼ばれるまでは、
広武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉、并州刺史・河東太守と、
主に并州方面に勤務。
因みに董卓は并州刺史時代の段ケイから中央に推挙され、
司徒・袁隗の掾となったことがある。
賈クも同じ太尉・董卓の掾と・・・、
この辺りの関係だろうか。
并州刺史時代くらいの董卓から、既に彼の登用リストの中に
入れられていたのかもしれない。
だから刺史として董卓は何れ、賈クを中央へ推挙しようとしていたが、
ほどなく自分が太尉にまでなってしまったので、
もう直接、自分の掾属として賈クを辟召したとか。
が、その董卓もすぐ王允・呂布のクーデターにより殺害。
そのとき、賈詡は董卓の女婿で中郎将の牛輔と共に、
都の東方、司隷弘農郡陝の地に駐屯していた。
このとき、牛輔の下には賈詡以外にも李傕・郭汜・張済といった将達も
一緒に従っていた。
彼らにはまた別に陳留郡、潁川郡方面の諸県を攻略させることが目的だった。
荀彧伝のほうには、彼の地元である潁川郡が李カクの襲撃を受けて
殺されたり、さらわれたり、
略奪を受けたりしたなどと書かれている。
(洛陽、長安周辺地図)
しかしその内に董卓が殺され、次いで牛輔も部下の裏切りに遭って
殺されてしまう。
残された李傕・郭汜・張済らは、間道から郷里に帰ろうとしたが、
しかしそこを賈詡が逆に、
「今、長安では涼州人を尽く誅殺しようとしているといった情報が
聞こえてきている。
ここで諸君らがバラバラに離れて別々に逃げたとしても、
どうせ直ぐに捕まってしまうだけだから、
殺されたくなければ逆に兵を集めて長安にまで攻め込むしかない。
もしそれで上手く行かずとも、同じ逃げるにしてもそれからのほうがいい」と、
そのように説得し、
そこからは一気に電光石火、
長安を襲って王允を滅ぼし、呂布を追い出して献帝を奉じて長安を占拠した。
※(『三国志賈詡伝』)
「卓败,辅又死,众恐惧,校尉李傕、郭汜、张济等欲解散,间行归乡里。
诩曰:“闻长安中议欲尽诛凉州人,而诸君弃众单行,即一亭长能束君矣。
不如率众而西,所在收兵,以攻长安,为董公报仇,幸而事济,
奉国家以征天下,若不济,走未后也。”
众以为然。
傕乃西攻长安。语在卓传。
(董卓が敗れ、牛輔が死に、衆(众)は恐惧している。
校尉の李傕、郭汜、張済等らは解散し、
間道より郷里へと帰(归)って行くことを欲したが、
賈詡は「聞けば長安では今、凉州人を誅し尽くそうと謀議(议)している
最中だとのこと。
もし諸君らが衆を棄(弃)てて単独で行けば、
直ぐに一亭長にも諸君らは拘束されてしまうだろう。
しかしもし衆を率いて西へ向かって、道々在所の兵士達を収集し、
以って長安を攻めれば、
董公の仇に報い、天下を制して国家を奉じて行くこともできる。
もし失敗をしても、逃げるのはそれかでも遅くはない)」
そして襲撃が成功し、都へ入ると、
賈詡は李傕らに推されて左馮翊となった。
【裴松之の批評】
が、しかし賈詡の生涯の事歴の中で、この長安襲撃の一件が最も評判が悪い。
特に正史の『三国志』に注釈を付けた裴松之は手厳しく、
「臣松之以为传称“仁人之言,其利溥哉”!然则不仁之言,理必反是。
夫仁功难著,而乱源易成,是故有祸机一发而殃流百世者矣。
当是时,元恶既枭,天地始开,致使厉阶重结,大梗殷流,邦国遘殄悴之哀,黎民婴周馀之酷,
岂不由贾诩片言乎?诩之罪也,一何大哉!
自古兆乱,未有如此之甚。
(わたくし裴松之が思いますに、“仁者の言は、その利がひろい”などと
称え伝えられておりますが、
然れども不仁者の言の理は必ずこれに反する。
それ仁者の功は著われ難(难)く、騒乱の源は成立し易い。
それ故、禍(祸)の機(机)会が一度、發(发)っせられれば、
その災(殃)いは百世の者にまで伝わり広がっていってしまう。
まさにこの時(时)、元悪(董卓)は既に梟首され、天地が開(开)き始めたのに、
災(厉)いの階(阶)を結び重ね、
邦国を滅び痩せ衰える悲しみに逅いまみえさせ、
黎民を周末の酷い目に遭わせたのは、
賈詡の片言のせいではないか?賈詡の罪の何と大きなことか!
古え自り乱の兆しとなったもので、
これほど甚だしいものは未だかつてあったことがない)」(三国志賈詡伝注)
・・・などと、
まったく容赦がない。
裴松之はまた、これとは別の一件でも賈詡の言動に
痛烈な批判を加えているのだが、
しかしこれは客観的立場からいっても、
それら一連の、裴松之の賈詡に対しての批評というのは総じてナンセンス。
とにかく相手を批判したいだけ。
だから先ず初めにもう、“相手のことが大嫌い。気に入らない”からと、
そのような目で相手の事歴を通して見るため、
全てがネガティブなマイナス評価で繋がり、
最後には合理的判断まで失って、
発言がメチャクチャなことになってしまっている。
そのことは後でまた見ていくが、
しかしこの、長安襲撃の件に関しても、
裴松之は“董卓が死んで、せっかく世の中が再び良くなり始めていたのに”
などと言っているが、
しかしそもそも漢王朝が滅んだのは漢王朝自身の犯した失政による、
自分達自身の責任だ。
放って置いても自滅する程の致命的な失敗を何度も何度も繰り返し、
またそれを正す機会も、警告をする者達もたくさんいたのに、
決して活かされることはなかった。
その果ての滅亡なのだから。
大体これまでだって、
誰か優れた政治家が出て、世の中を正常な状態に直しても、
それをまた皇帝や宦官、及び外戚達が、
元の木阿弥に引き戻してしまっていたのだから、
延々同じことの繰り返し。
だからかつての黄巾党の大乱も、一度は鎮圧したものの、
それからたった3~4ヶ月程の後、
壊れた洛陽の宮殿等の修復の為などといった理由を名目に、
天下の田に対し、一畝に付き十銭を課すという、
新たな大増税が行われた。
さらにまた何と、宦官達は賊乱の平定に功績のあった者達の功績をチャラにし、
官爵を奪い取ってしまった。
そうしてその一方で皇帝は皇太后と共に売官をして、
それでまたせっせと銅臭政治にいそしむわけだから、
幾ら助けても、とてもこんな連中を野放しになどしては置けないだろう。
裴松之は董卓が殺されたという、たったその一事を以って、
それで漢末の世を覆う政治問題の全てが解決されたとでも思っているのか。
政事が悪くなれば世の中が乱れる。
そして彼らはその乱世の、非常に治安の定まらぬ危険で物騒な世の中を
生き抜いて行かなければならなくなってしまう。
時に王朝の害悪は豺狼よりも甚だしいなどと言われたりするが、
因みに前漢の十代・元帝の時代に、
大司農(国家財政)の扱う予算が年間40億銭だったのに対し、
少府(皇室財政)の扱う予算が43億銭と、
何と等価だった。
如何に王朝という存在が金の掛かるシロモノだったか窺われるところだが、
人民にとっては堪らないだろう。
賈詡が何故、長安への襲撃を決意したかといえば、
それはそうしていなければ、単純に自分達のほうが殺されていたからである。
それは彼が入京後、李傕から左馮翊ではなくもっと高い地位を勧められても、
彼は「此救命之计,何功之有(これは命を救う為の計で、
何の功が有ろうか)」と、
固辞して受けなかったときの言葉に良く表されている。