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第一話 最悪な日

あたしがこの世で最も嫌いなもの―――それは、蜘蛛でも、ゴキブリでも、ましてや鼠でもない。




それは、あたしの現彼氏、魅月晴。






そんなあたしと、大っ嫌いなアイツとなぜあたしが付き合わなくちゃならなくなったのか……。



それは、あの暑い夏の初めの出来事から始まった。




* * *




はぁ、間に合った。

あたしが、安心して胸を撫で下ろしたのと同時に背後でぷしゅうという音がした。そして、電車の重いドアがホームからその空間を切り離す。

完全にドアが閉まってほとんど間もなく、電車がせわしなく動きだした。



はぁ、なんとか間に合ったはいいものの、この寿司詰め状態。勘弁してよ。こっちとら朝からこんな糞暑い中走って来たってのに……。



あたし、江藤冬華は最近就職口をなくした、所謂リストラの被害者の一人ってやつ。


 それが、今日新たな仕事の面接だってのに、こんな日に限って、寝坊……。



身だしなみをチェックする時間なんてなく、ギリギリセーフでこの電車に駆け込み電車。



ま、この分だったら、ちゃんと整えたところでもみくちゃにされてただろうから、大した違いはないだろうけど。




…それにしても、さっきっからなんか、目の前にいるサラリーマン風の男の体が、必要以上に胸に押しつけられてる気がしてたまらないんだけど―――混んでるし、やっぱ気のせいかな。


だけど、これが大間違い。

この変態リーマン、こっちが黙ってるのをいいことに、手をあたしの後ろに回してお尻を触ってきやがった。

これは、間違いなく……痴漢。




ちくしょー、普段こんな混んでる電車なんか乗らないからなぁ。前の会社じゃ、出勤はバスだったし。こんなことなら、こないだ買った雑誌の痴漢撃退法のページよく読んでおくんだった……。



そんなことを考えていると、あたしが恐くて動けなくなっていると思って付け上がったのか、その手はだんだん下に下がってく――。



冗談じゃない。本気でピンチだ。


肘鉄を食らわしてやろうにも、身動きができない。




そのときだった。


「痛っ」


突然、あたしのお尻から手が離れていった。


な、何?!何が起こったの?



あたしは、その痴漢男の方に視線を向けると、奴の顔はひどく何かに耐えているかのように歪んでいる。


ふと足元を見た。それでやっと合点がいった。痴漢男のその黒い革靴の上から思いっきり、まだ新しそうなスニーカーが踏み付けていたのだ。


そのスニーカーからどんどん上に視線を辿らせて見ると、隣にいたぱっと見大人っぽい雰囲気を漂わせた男性と目が合った。すると、その瞬間、彼は外見とは似つかない、人懐っこそうな笑みを浮かべこちらにむかってにこっと微笑んだ。


あたしは、この時、この笑顔にくらっときた。


そう、この時、は。


電車到着のブザーが鳴り、ドアが開くと同時に人がまるで栓を抜いた湯槽のお湯のように次々と電車の外へと押し流されていく。


あたしは、その人込みの中からさっきの人を捜し出そうと必死で目を懲らした。だが、どれだけ見渡しても人だらけのホームでたその内の一人を見付け出すことはできなかった。




あんなかっこいい人に助けてもらえるなんて――。

今日は朝から最悪だったけど、さっきの笑顔だけでなぜかそんな嫌な気分が吹っ飛んだ。



お礼言えなかったなぁ。

まぁ、あっちはあたしのことなんか覚えてないだろうから、いっか。


あたしはふと腕に巻きつく皮製のベルトにつく、1から12までの数字を刻む平盤を見た。


「やばっ」


時計はもう九時を指していた。面接の時間まで、あと半時もない。せっかく朝から走ってきた意味がなくなっては困ると、急いで駅から賑わいだした街へと踏み出していった。










う〜。


なあにが、「君、定職に向かないんじゃない?」だよ。自分の意見を精一杯アピールした結果が、これだ。


まぁ、確かに、面接官の間違いを指摘したのが悪かったけど。


「きっと上司とうまくやってけないでしょ?」


・・・そんなこと無かったけど。いや、そんなことあったから、会社のリストラリストに載たんだっけ。結局うまくやれてると思ってたのはあたしだけだったかも。


そんなこんなで、今日の面接、きっと落選決定。通知が来る必要も無く、馬鹿でもわかる。


はぁ、朝から痴漢に遭うわ、面接は最悪だわ、やっぱり今日はツイてない。友達の皐月から飲もうメールきてたけど、ついてない日は、家にじっとしてるのが一番。皐月には悪いけど、断りのメールを電車の中で打つ。



しかし、ケータイをポケットにしまったとたん急激な眠気に襲われた。


まだまだ、降りる駅まであるし、少しくらいいっか。


そう思ったあたし、瞼の重みには逆らわず、ゆっくりと穏やかな眠りへと落ちていった。

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