「会話が下手」と振られた俺に、話したいことができました
「ゲームしてるときは、普通に喋るのにね」
美帆に言われて、俺はテーブルの下でスマホを伏せた。
メモ帳には、今日話そうと思っていたことが三つ並んでいた。もう全部、聞いた。
返ってきた答えに何を言えばいいかまでは、考えていなかった。
「一緒にいても、私ばっかり喋ってる」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないんだけど」
美帆は水の入ったグラスを両手で持った。
「何か聞くと、何でもいいか、どっちでもいい。今日も、私が選んだことばっかりだよね」
この店は俺が予約した、と言いかけて、やめた。
先月、美帆が行ってみたいと言って送ってくれた店だった。
「会話が下手なんだよね、航って」
頷くと、彼女は小さく首を振った。
「面白いこと言ってって意味じゃないよ。私、何を聞いたら、あなたの話が聞けるの?」
食器の重なる音がした。
隣の席の皿を、店員が下げていた。
「今日、何か楽しかった?」
「楽しかったよ」
「何が?」
会えたこと。
そう答えようとして、それだけでは足りない気がした。映画も見ていない。買い物もしていない。待ち合わせて、この店に来ただけだった。
迷っている間に、美帆がグラスを置いた。
「もう、こういうの疲れた」
*
知り合ったのは、オンラインゲームだった。
友人のグループにいた美帆と、週に何度か一緒に遊ぶようになった。
画面の中なら、話すことには困らなかった。
『航、そっち行ったら死ぬ』
『もう行った』
『何で?』
『確認不足です』
美帆はよく笑った。
ほかのメンバーが抜けてからも二人で残り、仕事の愚痴を聞いたり、夕飯の話をしたりした。
半年ほど経って初めて会うことになった日は、待ち合わせの三十分前に駅へ着いた。
写真で知っている顔を見つけても、すぐには声をかけられなかった。
「え、航くん? さっきからいたの?」
「違う人だったら、まずいと思って」
「写真送ったじゃん」
「写真の人って、本当にいるんだなと思って」
「いるよ。何だと思ってたの」
あのときも、笑ってくれた。
ゲームの話をしているうちに緊張も解けて、帰りには次に会う日が決まっていた。
三度目に会った日に、俺から告白した。
「やっと言った」
そう言ってくれた人が、今、向かいに座っている。
付き合って一年が経っていた。
初めは映画を見たり、ゲームの催しへ行ったりしていた。予定が合わず、食事だけの日が増えたころから、会話が少なくなった。
美帆に言われて話題を探すようになり、俺はますます、話す前に考えるようになった。
これは前にした話じゃないか。
仕事のことなんて、聞いても面白くないだろう。
さっきから美帆が喋っていない。何か、聞かなくては。
「会えたから」
遅れて出た俺の言葉に、美帆が顔を上げた。
「今日、楽しかったこと。美帆に会えたから」
彼女は口元を緩めかけて、やめた。
「……うん」
バッグの持ち手に指をかける。
「それ、聞けば言ってくれるんだよね」
俺はまた、何も返せなかった。
美帆はバッグを膝に置いた。
「別れよう」
俺は膝の上で手を握った。
返事ができないまま、美帆が椅子を引く音を聞いた。
*
月曜日の昼休み、俺は会社の休憩室で、水族館のチケットを二枚持て余していた。
日曜日の日付が入っている。
美帆と相談して買った電子チケットだ。購入画面へ戻っても、都合による払い戻しはできないと書いてあった。
「何、その顔。振られた?」
同い年の同期、大庭奈央が向かいの椅子を引いた。
弁当袋を置きながら俺を見て、動きを止める。
「……本当に?」
「何で分かったの」
「いや、適当に言った。ごめん」
大庭は座りかけた姿勢のまま、俺と隣の空いているテーブルを見比べた。
「ここ、座っていい?」
「いいよ」
「そういう話、したくなかったらしなくていいから」
俺はスマホを伏せた。
大庭とは入社時の研修で同じ班だった。今もたまに同期何人かで食事をするが、部署が違うので、二人で話す機会はあまりない。
弁当のふたを開けた大庭が、露骨に顔をしかめた。
「何?」
「昨日、弁当作った自分を褒めたんだけど」
見せられた弁当箱には、ご飯と、細長い肉巻きが三本入っていた。
「全部、中身が分からない」
「自分で作ったんだろ」
「アスパラと、いんげんと、ごぼう。別々に置いたのに、朝まとめて詰めちゃった」
「食べれば分かるよ」
「ごぼうの気分でアスパラ食べるの、嫌じゃない?」
「そこまでごぼうに期待したことない」
大庭が箸を止めて、俺を見た。
それから笑った。
「まあ、そうか」
俺も少し笑った。
大庭は一本目をかじり、「いんげんか」と言った。
俺はパンの袋を開けた。
「……今週、水族館に行くはずだったんだよね」
言ってから、大庭の顔を見た。
彼女は口の中のものを飲み込み、頷いた。
「彼女と?」
「うん。チケット、払い戻せなくて」
「誰か誘って行くとか」
「そんな気にもなれなくて」
「そっか」
大庭はそれ以上、誰かの名前を挙げなかった。
「会話が下手だって、言われた」
「彼女に?」
「うん」
口にすると、土曜日の声をもう一度聞いた気がした。
「俺、そんなに話してないかな」
「私に聞く?」
大庭が眉を上げた。
「三橋の彼女だったことないから、分かんないよ」
「ああ……そうだよな」
「同期で集まるときも、私、だいたい酒飲んでるし」
「この前、ずっと喋ってたもんな」
「何の話してた?」
「自動で開くごみ箱を買ったら、通るたびに開くから電源抜いたって」
大庭が箸を置いた。
「何で、それ覚えてるの」
「面白かったから」
「そのとき笑ってよ」
「笑ってたよ」
「全然覚えてない。私、自分で喋って自分で笑ってたと思ってた」
大庭は少し考え、それから俺のパンを指した。
「それだけで足りる?」
「もう一個ある」
「じゃあ、先に食べな。私が喋ると長いから」
俺は袋の口を広げた。
食べながら聞く話があるのは、助かった。
*
翌朝、廊下の向こうから大庭が歩いてきた。
昨日のことを思い出して、俺は手元の書類に目を落とした。
彼女に振られた話までしてしまった。
同情されたかもしれない。今度、同期で集まったときにも気を使わせるだろうか。
そのまますれ違おうとしたところで、靴音が止まった。
「三橋」
顔を上げた。
「おはよう」
「……おはよう」
大庭は半歩離れたところに立っていた。
「昨日、何か嫌なこと言った?」
「え?」
「目、そらすから」
「いや、違う」
大庭が黙って待った。
俺は書類の端をそろえた。
「昨日、変な話したなと思って」
「別れた話?」
「うん。昼飯食べてただけなのに、急に」
「ああ」
彼女は短く息を吐いた。
「聞いたの、私じゃん」
「でも、気を使わせたし」
「それは多少使うよ。振られたって聞いて、よかったねとは言わないでしょ」
「うん」
「でも、今日挨拶していいか迷うほどではなかった」
俺はようやく、書類から手を離した。
「ごめん」
「うん」
大庭は壁の時計を見た。
「じゃ、朝礼あるから」
歩き出しかけた彼女に、俺は声をかけた。
「ごぼう、どれだった?」
大庭が振り返った。
「何?」
「昨日の弁当」
「ああ。最後。冷めると一番硬かった」
「今日も?」
「今日は焼きそば。中身、全部見えるやつ」
俺が笑うと、大庭も笑った。
そのまま角を曲がっていく。
背中が見えなくなってから、俺はスマホを出した。
大庭との個別の連絡は、半年前の飲み会の集合場所で止まっていた。
文字を打って、読み返す。
『昼、一緒に食べない?』
忙しいかもしれない。
昨日たまたま同じ席だっただけで、毎日一緒に食べたいわけではないだろう。
断られたら、そのときだ。
俺は送信ボタンを押した。
朝礼が終わるころ、大庭から返事が来た。
『今日は経理の人と外で食べる約束してる』
俺は画面を閉じかけた。
続けて、もう一通届いた。
『明日ならいいよ』
今度は、待たせずに返した。
『じゃあ明日。俺も弁当持ってくる』
『急に張り合わないで』
『冷凍食品だから勝負にはならない』
『卵焼きだけ交換希望』
俺は冷凍庫の中身を思い出した。
唐揚げと、焼売と、ほうれん草。
卵焼きはない。
帰りに卵を買っていこうと思ってから、先に返信した。
『失敗したら唐揚げで』
『そっちのほうがうれしいかも』
まだ朝なのに、明日の昼の予定が決まった。
*
卵焼きは、三回巻くはずが二回で終わった。
一回目を巻いた時点で太すぎた。残りの卵液を流し込むと端から漏れ、慌てて寄せたら、折り畳んだ雑巾みたいになった。
切ればどうにかなるかと思ったが、切っても断面が変なだけだった。
朝の台所で一つ食べた。味は普通だった。
残りを弁当箱に詰め、約束どおり唐揚げも入れた。
「本当に作ったの?」
昼、向かいに座った大庭は、俺の弁当を見るなり言った。
「卵焼きだけね」
「見せて」
ふたを少し持ち上げる。
大庭が身を乗り出した。
「何で隠すの」
「形が」
「あ、本当だ」
「そこは何かあるだろ」
「味は?」
「普通」
「じゃあ、いいじゃん」
俺が唐揚げを一つ、小さな弁当箱のふたに載せると、大庭は首を傾げた。
「卵焼きは?」
「失敗したから唐揚げ」
「失敗したらって、味の話かと思ってた」
少し迷ってから、卵焼きも一つ載せた。
大庭は代わりに肉巻きを置いた。
「ごぼう入ってないよな」
「今日はいんげんだけ。朝、確認した」
大庭は卵焼きを口に運び、何度か噛んだ。
「しょっぱいやつなんだ」
「甘いほうがよかった?」
「うちは甘いから。こっちもおいしい」
俺も肉巻きを食べた。
いんげんだった。
「どう?」
「おいしい」
「それ、本当に?」
箸を止める。
大庭は自分でも肉巻きをかじってから、弁当箱を覗き込んだ。
「今日の、ちょっと味薄くない?」
「いや、俺はこのくらいでいい」
「そっか。濃くすると、ご飯足りなくなるんだよね」
彼女はそう言って、鮭の骨を取り始めた。
「昨日、何食べた?」
俺が聞くと、大庭は顔を上げた。
「昨日?」
「経理の人と」
「ああ。駅の向こうの中華。知ってる? 赤い看板の」
「知ってるけど、入ったことない」
「おいしかったよ。酢豚定食」
大庭がスマホを取り出した。
差し出された画面には、大皿に盛られた酢豚と、ご飯と、ラーメンが写っていた。
「定食にラーメン?」
「小さいのがつくって書いてあったのに、普通に一杯来た」
「食べたの?」
「食べたけど、午後、眠くて。来客なかったから助かった」
俺は写真をもう一度見た。
「あ、そうだ。水族館、どうした?」
「まだ何も」
「そっか」
箸が弁当箱に触れる音がした。
「もし、行きたいなら」
自分の声が聞こえた。
大庭が顔を上げる。
「チケット、二枚あるから。友達とかと使ってくれれば」
「え、三橋は?」
「俺は別に」
大庭はすぐには返事をしなかった。
「私、日曜日は妹と約束あるんだよね」
「ああ、ごめん。じゃあ、いい」
「それに、もらっていいのか困る」
彼女は俺のスマホを見た。
「一緒に行く話なら、まだ分かるけど」
俺は顔を上げた。
大庭はすでに鮭に箸を伸ばしていた。
「二人分もらって、私だけ遊びに行くの、何か悪いじゃん」
「……そうか」
誘ったわけではなかった。
でも、誘うより先に、自分の分まで差し出したことが、急に恥ずかしくなった。
「日曜日、暇にはなったんだよ」
「うん」
「家にいるのも嫌で」
大庭は箸を持ったまま、俺を見た。
「だったら、行ってきたら?」
「一人で?」
「一人で行くか、誰か誘うか」
それから少し笑った。
「少なくとも、私に二枚とも渡すよりは楽しそうだけど」
*
日曜日、水族館の入口で、大人一名と表示された画面を係員に見せた。
残りの一枚は使わなかった。
美帆とは、昼前に着いて、近くで海鮮丼を食べようと話していた。
俺は朝一番に入った。
大水槽の前は、まだ人が少なかった。
魚の群れを見上げてから、案内図でウツボを探した。
大庭が、前に一人で来たとき、ずっと見ていたと言っていた。
理由を聞くと、口を開けている顔が好きなのだと答えた。
細長い水槽の隅に、いた。
岩の間から顔だけ出して、口を開けている。
近づいても、ほとんど動かない。
俺は二、三歩横へずれた。
同じ顔だった。
写真を一枚撮り、時間を確認した。
九時二十三分。
日曜日の朝から会社の同期にウツボを送りつけるのは、どうなのだろう。
しばらく画面を見てから、写真を添付した。
『口、開いてた』
返事が来たのは、クラゲの水槽を見ているときだった。
『行ったんだ!』
『そう、これを見てる』
続けて、もう一通来た。
『おはよう』
写真の説明しか送っていなかった。
『おはよう。朝からごめん』
『起きてるから平気』
少し考えてから、俺は打った。
『一人で来た。この先にペンギンいるらしいから、見てくる』
『外にいるよ。風強いから気をつけて』
歩き出すと、出口へ続く通路から明るい光が差していた。
昼は予定していた海鮮丼の店に入った。
二人なら、別のものを頼んで少しずつ分けられたなと思った。
メニューをめくる手が止まった。
美帆はたぶん、サーモンの多いものを選んだ。
俺はマグロの丼を頼んだ。
料理が来てから、癖で向かいを見た。そこには壁があった。
一人でも来られた。
だからといって、平気になったわけではなかった。
帰りの電車で、美帆とのトーク画面を開いた。
最後のやり取りは、別れた日の夜だった。
『今までありがとう』
俺も同じ文を返していた。
水族館へ行ったと伝えて、どうするつもりだろう。
画面を閉じた。
代わりに大庭へ、海鮮丼の写真を送った。
『昼はこれ食べた』
*
翌日の昼、大庭は弁当袋をテーブルに置くなり言った。
「三橋、ずるくない?」
「何が?」
「私が妹とフードコートでうどん食べてるときに、あんなの送ってきて」
「うどんだったんだ」
「そう。甥っ子がうどんしか食べないって言い張って」
大庭は椅子を引き、座った。
「おいしかった?」
「うん。隣の人の天ぷらも、うまそうだった」
「そっち頼めばよかったのに」
「頼んでから気づいた」
大庭が笑った。
俺は弁当箱を開けた。
「昨日、けっこう歩いたんで、夜は何も作る気にならなくて」
「水族館って、歩くよね」
「ペンギン、三周見た」
「何で三周?」
「一周目、寝てたから」
「二周目は?」
「寝てた」
「三周目」
「起きて、場所変えて寝た」
大庭が弁当のふたを置いて笑った。
俺も笑いながら箸を割った。
「あのさ」
「うん?」
「今度、あの中華の店、一緒に行かない?」
大庭は俺の顔を見た。
「酢豚の?」
「そう。写真見たら、食べたくなった」
「いいよ。いつ?」
そこで初めて、日付を考えていなかったことに気づいた。
「……土曜日は?」
「今週は美容院ある。日曜なら空いてる」
「じゃあ、日曜の昼」
「分かった」
大庭はスマホのカレンダーを開いた。
俺も同じように予定を入れた。
「ラーメン、半分食べてくれる?」
「定食、一つずつ頼むんじゃないの?」
「そうだけど、私のも少し」
「俺の定食には、ついてないやつを選ぶか」
「そこは普通に断っていいんだけど」
俺は店の写真を開いた。
酢豚の隣に写っているラーメンは、やはり小さくはなかった。
「いや。たぶん食える」
大庭は写真を覗き込み、俺の弁当と見比べた。
「頼もしいね、今日は」
俺は昼飯の誘い一つで緊張していたことを、彼女には黙っていた。
*
日曜日、待ち合わせの十分前に店へ着くと、大庭が入口の脇に立っていた。
白いシャツに、紺の細いパンツ。会社でも見かける格好なのに、小さなバッグを掛けているだけで、少し違って見えた。
「早いね」
「電車、一本前のに乗れちゃって。三橋も早いじゃん」
「遅れるよりいいかと思って」
「私も。まだ開いてないけど」
入口には十一時半開店と書いてあった。あと八分だった。
隣に立つと、することがなくなった。
「休みの日も、早く起きる?」
聞くと、大庭が顔を向けた。
「今日は八時。三橋は?」
「七時」
「何してたの?」
「洗濯」
そこで終わりそうになって、続けた。
「ティッシュ入ってた」
大庭の目が細くなった。
「ああ。それ、今日着る予定の服に?」
「うん。黒いやつ」
彼女は俺の薄いグレーのシャツを見た。
「それで」
「取ろうと思ったんだけど、間に合わなくて」
「朝から大変だったね」
彼女が笑ったところで、店の中から鍵を開ける音がした。
席に着くと、大庭は酢豚定食のページを開いた。
「やっぱり、これにしようかな」
「俺も」
「二つ同じの頼む? 何か分けるなら、違うのでもいいかなって」
俺は隣のページを見た。
麻婆豆腐と、回鍋肉。
「じゃあ、回鍋肉にする」
「それ食べたい?」
「どっちでも」
大庭がメニューから顔を上げた。
「本当に?」
「……酢豚が食べたい」
「じゃあ、酢豚にしようよ。私も前回食べて、また食べたくて来たんだし」
店員を呼び、大庭は酢豚定食を二つ頼んだ。
俺のほうにはラーメンをつけ、自分のほうはスープにした。
「半分、もらっていい?」
「うん」
「ありがとう。私、これでようやく適量になる」
大庭はおしぼりの袋を破った。
「私さ、さっきみたいなの、よくやるんだよね」
「何?」
「違うの頼んで分けようって。妹にも言われる。自分が食べたいもの頼ませてって」
「別に、嫌だったわけじゃ」
「うん。でも私、返事待たずに話進めちゃうことあるから」
俺は水を飲んだ。
「俺も、聞かれたら言うようにする」
「聞かれなくても言って」
「酢豚が食べたい」
「うん。頼んだね」
二人で笑った。
まだ料理は来ていなかった。
食事のあとも、一緒にいたかった。
午後の予定を聞いて、どこか寄らないかと言うと、大庭は一か所だけ行きたいところがあると答えた。
連れていかれたのは、駅ビルの寝具売り場だった。
「枕?」
「ずっと替えたくて。今の、朝になると頭の下にないんだよね」
「枕のせい?」
「そこを確かめたい」
大庭は店員に声をかけ、勧められた枕を試し始めた。
ベッドの端に腰を下ろし、靴を脱いで横になる。
「どうですか?」
店員に聞かれ、大庭は天井を見たまま考えた。
「さっきのより、首のところが楽かも」
「普段は横向きでお休みになりますか?」
「たぶん。寝たら分からないんですけど」
俺は思わず笑った。
大庭がこちらを見た。
「分かんないでしょ?」
「うん」
店員も笑いながら、高さの違うものを持ってきた。
三つ試したところで、俺にも椅子を勧めてくれた。
座って待っていると、横向きになった大庭と目が合った。
「ごめん。暇だよね」
「いや。枕って、そんな違うんだなと思って」
「違う。三橋もやってみたら?」
勧められるまま、大庭が起き上がったベッドに横になった。
頭が沈む。
「あ」
「どう?」
「今のより、いい」
「今、どんなの使ってるの?」
「覚えてない。何年か前に買ったやつ」
「それと比べたら、全部よさそう」
俺は天井を見ながら笑った。
すぐ横で、大庭も笑っていた。
彼女は結局、枕を買わなかった。
「型番は控えた。帰って今のと高さ比べる」
「慎重なんだな」
「安くないし、また合わなかったら嫌だから」
そこで彼女は、俺の持つ紙袋を見た。
「何で付き添いのほうが買ってるの」
「よかったから」
大庭は笑い、それから俺の顔を見た。
「退屈じゃなかった?」
「面白かったよ」
「枕選びが?」
「自分じゃ、あんなに試さなかったと思う」
「三橋、一個目で買おうとしてたもんね」
「止めてくれて助かった。二個目のほうがよかった」
大庭は少し得意そうに頷いた。
その夜、俺は枕を並べた写真を大庭へ送った。
『今までのがだいぶ低かった。今日はありがとう。酢豚、また食べたい』
風呂から出るころ、返事が届いていた。
『こちらこそ。次は餃子も頼もう。今日、隣のテーブルの見てた』
俺も見ていた。
大きな羽根がついていて、うまそうだった。
『俺も見てた。六個入りだから、三個ずつで』
『それは最初から分ける気なんだ』
俺はスマホを持ったまま笑った。
次があるつもりで送っていたことに、そのとき気づいた。
*
二度目の中華は、その二週間後の金曜日になった。
大庭から、土日は用事があるので金曜ならどうかと連絡が来た。
俺は七時を提案して、その日も十分早く着いた。
彼女は七時を少し過ぎて店へ来た。
「ごめん。最後に電話つかまった」
「大丈夫。俺も今来た」
「嘘。先に入ってるって連絡くれたの、十分前じゃん」
「ああ」
大庭は笑いながら向かいに座った。
上着を脱いで、バッグを脇に置く。
会社では一つに結んでいた髪を下ろしていた。
言おうか迷っていると、店員が水を持ってきた。
餃子と、俺は酢豚、彼女は五目あんかけ焼きそばを頼んだ。
「髪、下ろすと違うね」
料理を待っている間に言った。
大庭が水のグラスを置いた。
「そう?」
「うん」
「どっちがいい?」
俺は彼女の顔を見た。
大庭も俺を見ている。
「今のほう」
「へえ」
彼女は髪の端をつまみ、それから手を離した。
「じゃあ、ほどいてよかった」
俺はグラスを持った。
店員が餃子を運んできて、助かった。
「三個ずつね」
「うん」
「端と真ん中、どっちがいい?」
「違うの?」
「端のほうが羽根、多そう」
「じゃあ、端」
「私も端がいい」
六個並んだ餃子の、両端を一つずつ取った。
熱くて、しばらく何も話せなかった。
大庭も口元を押さえている。
それを見て、俺は少し笑った。
帰り道、休みの日は何をしているのか聞かれた。
「ゲームしてることが多い」
「私、ゲーム全然分かんないんだよね。何が楽しいの?」
どこから話せばいいのだろう。
知らない人に、役割だとか装備だとか説明しても、分からないだろうし。
「みんなで、敵を倒すんだけど」
「うん」
「一回じゃ倒せないことが多くて。何回も失敗して、ここでこう動こうとか相談して」
「作戦立てるんだ」
「そう。それで、誰かが失敗したらまたやり直す」
「怒られない?」
「俺らのところは、あんまり。次は自分かもしれないし」
大庭が笑った。
「三橋も失敗する?」
「するよ。この前、全員が待ってるのに、俺だけ違う場所にいた」
「呼ばれなかったの?」
「呼ばれた。でも、みんなが間違えてると思って」
「自分を信じたんだ」
「俺一人しかいない時点で、疑えばよかった」
大庭が声を出して笑った。
俺はつられて笑い、それから少し先の横断歩道を見た。
いつの間にか駅が近かった。
「ごめん。知らない話ばっかり」
「私が聞いたんだけど」
「うん。でも、分かりにくいだろうなと思って」
「細かいところは分かんない。でも、三橋が一人で間違った場所に立ってるのは想像できた」
「そこは分かるんだ」
「かなり」
信号が青に変わった。
隣を歩く大庭は、まだ笑っていた。
「大庭は?」
横断歩道を渡り終えてから、聞いた。
「休みの日、何してる?」
「私? 先週は、エアコンの掃除」
「ちゃんとしてるね」
「そういう話、三橋も前にしてたよね」
「洗濯」
「そうそう」
「そのあと?」
大庭は笑ったが、すぐには続けなかった。
「……寝てた」
「疲れてた?」
「うん。土曜日、妹たちと出かけて。楽しかったんだけど、帰ってから何もしたくなくなって」
甥っ子と公園へ行ったらしい。
滑り台を何度も登り、昼食の店で待ち、帰りの車で寝た子供を妹夫婦と一緒に運んだ。
「妹には、『お姉ちゃんは気楽でいいね』って言われるんだけど」
彼女はそこで一度、口を閉じた。
「まあ、そうなんだけどね」
「そうかな」
俺が言うと、大庭がこちらを見た。
「一緒に出かけて、手伝ってるんだろ」
「でも、毎日じゃないし。子育てって大変だと思うよ」
「うん。それと、大庭が疲れるのは別じゃない?」
大庭は少し黙った。
「……たまには、一人で昼寝したい」
「うん」
「誘われると、甥っ子にも会いたいから行くんだけど。帰ってきて、ああ、今日も自分の洗濯してないなって」
前から来た人を避けて、俺たちは建物の端へ寄った。
「ごめん。妹の悪口みたいになった。今の、忘れて」
改札が見えた。
大庭はバッグから定期を取り出した。
「忘れなくてもいい?」
彼女が顔を上げた。
「え?」
「疲れてる日もあるんだなって、覚えててもいい?」
大庭は俺を見たまま、定期を持つ手を下ろした。
「……それなら。同期で集まったときとか、言わないでね」
「言わない」
大庭は頷いた。
それから、少し照れたように笑った。
「外でご飯食べたあとに、洗濯の愚痴って」
「俺もした」
「ティッシュの」
「うん」
彼女が笑ったので、俺も笑った。
別れたあと、ホームで電車を待っていると、大庭から連絡が来た。
『ゲームの話、また聞かせて』
俺は画面を見つめた。
楽しかった、と送りかけて、指を止めた。
今日も、それだけで終わらせるところだった。
『大庭の話も聞きたい。今日は誘ってよかった』
既読がついてから、返事が来るまで少し時間があった。
『よかった。金曜日の夜まで付き合って、って思われたらどうしようかと』
そんなことを考えていたとは知らなかった。
大庭はいつも、迷わず言葉が出てくるように見えた。
『俺から誘ったのに?』
『うん。髪どっちがいいとか、余計なこと聞いたし』
電車がホームに入ってきた。
俺は列に並んだまま、打ち直した。
『余計じゃなかった。うまく言えなかったけど、似合ってた』
乗り込んでつり革につかまると、スマホが震えた。
『それ、会ってるときに言ってよ』
俺は画面を見て、小さく息を吐いた。
続けて、もう一通届いた。
『次は』
電車が動き始めた。
俺はその二文字を、しばらく見ていた。
*
月曜日の朝、大庭に土曜日は空いているかと聞かれた。
空いていると答えると、どこかへ行かないかと言われた。
給湯室の前だったので、それ以上は話せなかった。
昼休みに彼女から、川沿いの公園の案内が送られてきた。
『天気よさそうだから、散歩でもどう? 遠かったら別のとこにしよう』
駅から歩ける場所だった。
俺は、そこがいいと答えた。
水曜日には待ち合わせの場所と時間も決まった。
木曜日には、何を着ていくか考えていた。
金曜日の夜、ゲームの友人から通話へ誘われた。
『久しぶりに昔のメンバーでやらない? 直人が復帰したから』
直人は、仕事の都合で半年ほどゲームから離れていた。俺と美帆が知り合ったグループを作った友人だった。
『美帆も来るけど、平気? 無理ならいつもの三人で別の日にしよう』
別れてから、美帆とは遊ぶ時間とメンバーを分けていた。
一緒に遊ばなくなったのは誰かに言われたからではなく、二人でそう決めたからだった。
美帆の声を、久しぶりに聞くことになる。
少し迷った。
でも、直人とも遊びたかった。
それに、明日は大庭に会う約束がある。もう、変に気にしなくてもいいだろうと思った。
『平気。入る』
通話へつなぐと、美帆と直人が先にいた。
『航、久しぶり』
美帆の声だった。
ゲームをしていたころと同じ声なのは、当たり前だった。
『久しぶり』
『元気だった?』
『うん』
『仕事、忙しい?』
『まあ、普通』
その返事を聞いて、美帆はもう一つ質問をした。
俺はまた、短く答えた。
仕事であったことは、いくつもあった。
大庭に弁当を笑われたことも、新しい枕を買ったことも、思い浮かんだ。
でも、美帆に何を話せばいいのかは分からなかった。
『ごめん、俺、ちょっと飲み物取ってくる』
直人が席を外した。
俺はモニターの端を見た。
美帆も、何も言わなかった。
何か、話さなければ。
その感じを、覚えていた。
店の向かいに座っていたときと同じだった。
『……あのさ』
『うん?』
美帆が答えた。
続きを待つ声だった。
何も、出てこなかった。
『やっぱり、何でもない』
『そっか』
彼女はそう言っただけだった。
ほかのメンバーが入り、ゲームが始まった。
美帆は笑っていた。直人の失敗に声を上げ、俺が助けると、ありがと、と言った。
責められたわけでも、嫌なことを言われたわけでもなかった。
俺も、ゲームの話ならできた。
今ここで何が起きているか。それには、迷わず言葉が出た。
通話を抜けたのは、いつもより早い時間だった。
ベッドに横になって、大庭とのやり取りを開いた。
『十時半、駅の南口ね』
その下に、俺が送った返事があった。
『楽しみにしてる』
今の俺が会いに行って、また、何も話せなくなったら。
大庭が話を拾ってくれなくても、俺は二人の時間を楽しくできるだろうか。
この前は、たまたま話が続いただけではないのか。
スマホを伏せた。
眠ろうとしても、店で美帆が黙っていた顔が浮かんだ。
*
翌朝、目覚ましが鳴る前から起きていた。
約束は十時半だった。
まだ二時間以上あった。
俺は大庭へ連絡した。
『ごめん。今日、行けなくなった』
送ってから、理由を書かなかったことに気づいた。
続けて打つ前に、返事が来た。
『体調悪い?』
病気ではなかった。
仕事が入ったわけでも、急用ができたわけでもない。
『そういうわけじゃないけど、少し休みたくて。急で本当にごめん』
しばらく、何も来なかった。
俺は画面を見たまま待った。
『分かった。無理しないで。今度、行ける日に誘って』
返事を見て、ほっとした。
がっかりしたとも、嫌だとも書かれていなかった。
『ありがとう。ごめん』
それを送って、俺はベッドへ戻った。
用意していたシャツが、椅子の背に掛かっていた。
*
月曜日、大庭に会った。
「土曜日、ごめん」
廊下の端で言うと、彼女は足を止めた。
「ううん。もう大丈夫?」
「うん」
「そっか」
そのあと、別の社員に呼ばれ、大庭は総務の席へ戻った。
今週末は空いているかと、聞けばよかった。
でも、また同じことをしたらと思うと、聞けなかった。
昼休みには、彼女がいるか休憩室を見た。
いなかった。
夜、スマホへ文章を打った。
『この前、本当にごめん』
もう、謝った。
会っても謝った。
これを送っても、大庭はまた、いいよと返すしかない。
文章を消した。
火曜日には、昨日連絡しておけばよかったと思った。
水曜日には、今さら何を言えばいいのかと思った。
木曜日、大庭を含む同期のグループへ、飲み会の誘いが来た。
何人かが返事をして、彼女も参加すると答えた。
俺はその名前を見ていた。
自分にはできると思った。
皆がいれば、あの日の話をしなくても会える。
参加すると送ろうとして、手を止めた。
大庭に会いたいのに、二人で会う約束はしない。
自分で断った約束を、そのままにして。
俺はスマホを机に置いた。
彼女が言ったことは、覚えていた。
今日、挨拶していいか迷うほどではなかった。
あのときも、俺が勝手に気まずくなっていた。
大庭が何を思っているのか、一度も聞かなかった。
*
『約束を断ったこと、ちゃんと話したい。都合のいい日に、少し時間をもらえないかな』
送ったのは、約束していた土曜日から九日後の月曜日だった。
何もなかったように食事へ誘う文章は、どうしても送れなかった。
理由を全部書こうとしたら、長くなった。
何度か打ち直して、最後に残した文だった。
返事はその日の夕方に来た。
『明日、会社のあとなら。駅前でいい?』
『ありがとう。六時半、待ち合わせしても大丈夫?』
『うん』
それを見て、ほっとすることはできなかった。
会ってくれるのは、もう一度一緒に出かけたいからとは限らない。
火曜日、大庭は時間どおりに来た。
俺は五分前から、駅前の時計の下にいた。
「お疲れさま」
「お疲れさま。時間、ありがとう」
人の通りが少ない、駅ビルの横へ歩いた。
どこか店へ入るかと聞く前に、大庭が足を止めた。
「ここでいいよ。何?」
俺も止まった。
「土曜日、急に断ってごめん。そのあとも、連絡しなくて」
「うん」
大庭は、もう、いいよとは言わなかった。
「前の日に、元の彼女と話した」
彼女の視線が動いた。
「ゲームで、久しぶりに。何人かで一緒に遊ぶことになって」
俺は一度息を吸った。
「そのときも、二人になると、何も話せなかった。別れたときから、俺、何も変わってないんだなと思って」
大庭は黙っていた。
「次の日、大庭と会っても同じだったらと思ったら、怖くなった」
「……そっか」
それきり、彼女は続けなかった。
「休みたかったのも本当だけど、会いたくなかったわけじゃない」
言うと、大庭が顔を上げた。
「でも、断ったよね」
「うん」
「それから、十日」
俺は頷いた。
「私、土曜日の朝、もう支度してた」
椅子に掛けたままだった、自分のシャツが浮かんだ。
「体調悪いんじゃなかったら、私と二人で出かけるのが嫌なのかなって思った。でも、違うかもしれないから、また誘ってって送った」
「うん」
「何も来ないから、そういうことなんだなって」
言い終えると、大庭はバッグの紐を持ち直した。
「元の彼女と話してどう思ったかは、私には分からない。でも、私、あの日は三橋に会いたかったんだよ」
俺は彼女を見た。
「それを断られた側にも、ちょっとは時間ちょうだい」
謝ろうとして、口を閉じた。
また、彼女に返事をさせるところだった。
「分かった」
そう答えると、大庭は小さく頷いた。
「話は聞いたから」
彼女が駅のほうへ体を向けた。
俺は声をかけた。
「大庭」
振り向いた彼女に、言った。
「元の彼女と、戻りたいわけじゃない。それは、言っておきたい」
大庭がこちらを見ていた。
「会いたかったのは、大庭だった。今も、また二人で会いたい」
うまい言い方ではなかった。
これを言って、許してもらえるとも思わなかった。
「返事、今じゃなくていい。俺から誘ってもいいか、考えてほしい」
大庭は少し黙ったあと、うん、と答えた。
改札までは一緒に歩いた。
前より、少し離れていた。
彼女を見送ったあと、俺はスマホを出した。
『今日は話を聞いてくれてありがとう』
それだけ送った。
続きを催促するようなことは、書かなかった。
*
大庭から返事が来たのは、木曜日の夜だった。
『日曜日なら、お昼空いてる。三時半には出なきゃいけないけど』
俺は、何度か読み直した。
それから、返事を打った。
『ありがとう。駅前の喫茶店、どうかな。前に通ったとき、サンドイッチがおいしそうだった』
『いいよ。一時でどう?』
『分かった。楽しみにしてる』
金曜日には、会社の用事で二言ほど話した。
土曜日は、洗濯をした。
明日会って、すぐに前みたいに話せるとは思えなかった。
それでも、待ち合わせへ行く服を決めた。
日曜日、先に着いたのは俺だった。
大庭は少し遅れて来た。約束の時間には、まだ間があった。
入口で目が合うと、小さく手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
席へ着いて、メニューを見た。
窓の外を車が通り過ぎた。
大庭が顔を上げた。
「何にする?」
「カツサンド」
「私、卵にしようかな」
注文を済ませると、また、少し静かになった。
「今日、来てくれてありがとう」
俺が言うと、大庭は頷いた。
「うん」
そこから、何を話せばいいか分からなくなった。
前ならここで、どこか退屈そうではないかと、彼女の顔を何度も見たと思う。
「……緊張してる」
俺はグラスから手を離した。
「何を話すか、さっきから考えてる」
大庭が、少し息を吐いた。
「私も。何もなかったみたいに喋るの、変かなとか」
「うん」
「でも、この前の話ばっかりするのも、しんどいし」
「そうだね」
大庭は窓の外へ目を向けた。
「さっき、駅で子供に手振られたの」
「知ってる子?」
「知らない。お母さんに抱っこされてて、こっち見て、すごい振ってくるから。私も振ったんだけど」
彼女は窓を向いたまま、少し笑った。
「後ろにお父さんがいた」
「それ、気まずいね」
「うん。お父さんにも会釈された」
俺は笑った。
大庭も、ようやくこちらを見て笑った。
「さっきの話で言えば、こんな話していいのかなって、今もちょっと思った」
「聞きたい」
すぐに答えると、彼女は小さく頷いた。
「三橋も、そういうのでいいんだけどな」
俺は少し考えた。
「昨日、洗濯したんだけど」
大庭が眉を上げた。
「またティッシュ?」
「いや。ないか確認したら、五百円出てきた」
「よかったじゃん」
「たぶん、俺の金なんだけど、うれしかった」
「分かる。自分で隠して、自分で見つけてるだけなんだけどね」
料理が来た。
卵の多いサンドイッチと、厚いカツサンドだった。
大庭は卵がこぼれないように、片手を下へ添えた。
俺はカツの端をかじって、少し熱かったので、水を飲んだ。
食べ終えるころ、彼女が言った。
「私、まだ、また断られたら嫌だなとは思ってる」
俺は頷いた。
「うん」
「だから、次に会いたくなったら、三橋から誘って」
「分かった」
「今日ここで、次の約束しようって意味じゃないよ」
「うん」
俺はカップを置いた。
「でも、また会いたい。今日は、そう思って帰ると思う」
大庭はしばらく俺を見ていた。
それから、笑った。
「帰ってからも、そう思ったら連絡して」
*
三時十五分に店を出た。
彼女の用事は美容院だった。
駅前で別れ、家へ着いてから連絡した。
『また会いたい。来週の日曜、空いてる?』
返事は、夕方に来た。
『空いてる。髪、少し切ったから、気づいてね』
俺は笑って、約束の場所を調べ始めた。
翌週は、大庭が歩こうと言っていた公園へ行った。
俺は駅に着いてから、もう着いていると送った。
それだけで何が変わるのかは分からないけれど、彼女が電車の中で、今日は来るだろうかと考えずに済めばいいと思った。
十分ほどして大庭が現れた。
髪は、肩に少し届かないくらいになっていた。
「気づいた?」
「さすがに、これだけ切ったら」
「そうだよね」
「似合ってる」
大庭が、俺の顔を見た。
それから、自分の髪の端に指を当てた。
「ありがとう」
川沿いには、走っている人と、犬を連れた人がいた。
大庭は犬が通るたびに、少し目で追った。
「犬、好き?」
「好き。でも触るのは、ちょっと怖い」
「そうなんだ」
「子供のころ、友達の家の犬に追いかけられて」
「噛まれた?」
「ううん。私が逃げたら、追いかけっこだと思ったらしくて」
彼女は両手で大きさを示した。
思ったより小さかった。
「笑わないでよ」
「まだ笑ってない」
「顔が」
俺は川のほうを向いた。
大庭が肘で軽く俺の腕を押した。
歩く間隔が、少し近くなった。
橋の手前で折り返して、空いているベンチへ座った。
大庭は水筒を取り出し、俺は駅で買ったお茶を開けた。
「今日、来られてよかった」
俺が言うと、彼女はこちらを見た。
「うん」
「待たせて、ごめん」
「それは、もう聞いた」
俺は頷いた。
彼女は水筒のふたを閉め、膝の上に置いた。
「三橋」
「何?」
「私のこと、どう思ってる?」
川を見ていた顔が、こちらを向いた。
俺はペットボトルを足元へ置いた。
「好き」
大庭は動かなかった。
俺は続けた。
「最初は、一緒に話せるのがうれしかった。でも、会えなくなってから、俺ばっかり考えてたんだなって分かった」
彼女が、少しだけ首を傾けた。
「俺が話せるかどうかとか、俺といて退屈じゃないかとか。大庭が、休みの日の予定空けてくれて、支度してくれたこと、断ってから言われるまで考えなかった」
膝の上で手を開いた。
指先が冷えていた。
「また、話せなくなる日はあると思う。今だって、何を言うか考えてる」
大庭の目を見た。
「でも、会いたいのに会いたくないみたいなことは、もう、したくない。分からなくなったら、怖いって言う。嫌なことも、うれしかったことも、言いたい」
彼女は黙って聞いていた。
「大庭のことも、もっと知りたい。付き合ってほしい」
言い終えると、近くを走る人の靴音が聞こえた。
俺は返事を待った。
「私、話しかけてくれる航も、好きなんだよ」
初めて、名前で呼ばれた。
「弁当のこと聞いてくれたり、帰ってから写真送ってくれたり。あれ、私、うれしかったから」
奈央は一度、川へ目を向けた。
「連絡が来なくなったときは、私だけだったのかなって思った」
「うん」
「でも、違ったんでしょ」
「違った」
彼女は頷いた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
俺は彼女の顔を見た。
「本当に?」
「そこは、信じて」
「うん」
奈央が笑った。
俺も笑おうとして、息を吐くほうが先になった。
ベンチから立ち上がると、俺は手を出した。
奈央はそれを見て、俺の顔を見た。
「手、つないでもいい?」
「うん」
彼女の手を取った。
少し力が入っていた。俺の手にも、入っていた。
川沿いを歩き出す。
しばらく、二人とも喋らなかった。
「航」
呼ばれて、隣を見た。
「今、何考えてる?」
「手、汗かいてないかなって」
「かいてても、今さらじゃない?」
奈央がつないだ手を少し上げた。
俺は笑って、握り直した。
*
付き合い始めたからといって、急に何でも話せるようになったわけではなかった。
一か月ほど経った木曜日、奈央から電話が来た。
「今日、何かあった?」
「別に」
いつもの答えが先に出た。
「会社で見かけたけど、元気なかったから」
「ちょっと疲れただけ」
「そっか」
そこで少し間が空いた。
俺はベッドの端に座った。
仕事で手配を一つ間違えた。
途中で気づいて直せたが、先輩にも別の部署にも手間をかけた。午後は取り返そうとして、普段なら確認するところを飛ばしかけた。
誰にも責められていない。
だから余計に、落ち込んでいると言いにくかった。
「……やっぱり、一個あった」
電話の向こうで、奈央が何かを置く音がした。
「うん」
「聞いてくれる?」
「いいよ」
俺は順番に話し始めた。
途中まで話してから、どこを説明していないのか分からなくなった。
「ごめん。これ、分かる?」
「手配を間違えたところまでは」
「ああ。そのあと、先輩が確認してくれて」
彼女はときどき質問をした。
俺が黙ると待った。
何度か同じところへ戻りながら、ようやく話し終えた。
「それで、今日はちょっと、へこんでた」
「そっか。大変だったね」
「うん」
「ご飯は食べた?」
「まだ」
「私も。今、炊けるの待ってる」
俺は時計を見た。
八時を過ぎていた。
「何食べるの?」
「納豆と、昨日の残り」
「俺も冷凍のやつにするか」
「卵焼きは?」
「今日は作らない」
「うん。そうしな」
通話を終えてから、冷凍庫を開けた。
話したところで、今日の失敗がなくなるわけではなかった。
明日、確認することも残っていた。
冷凍食品を温める間に、流しに残していた食器を洗った。
*
奈央と初めて喧嘩をしたのは、それからしばらく経った土曜日だった。
買い物帰りの車の中だった。
「そこの角、曲がったほうが早いよ」
「うん。でも、あそこ狭いから」
「大丈夫だって。うちの妹の車も通るし」
「今日はこっちから行く」
俺が直進すると、奈央は助手席でスマホの地図を見た。
「こっち、いつも混むんだよね」
前の信号が赤になった。
俺はブレーキを踏んだ。
青に変わっても、前の車列は動かなかった。
「ほら」
その一言に、思ったより腹が立った。
「じゃあ、奈央が運転すればよかったじゃん」
言った途端、車の中が静かになった。
奈央がスマホを伏せた。
車列が動き出すまで、どちらも喋らなかった。
彼女の家に着いて、買い物袋を運んだ。
冷蔵庫へ入れるものを分けながら、奈央が言った。
「さっき、ごめん」
俺は袋から牛乳を出した。
「うん」
「運転してもらってるのに、横からうるさかった」
「……うん」
冷蔵庫が閉まった。
奈央は取っ手から手を離し、こちらを見た。
「でも、ああ言われると、もう何も言えなくなる」
俺は空になった袋を畳んだ。
何か言うと、また悪い言い方になりそうだった。
「少し、待って」
奈央が口を閉じた。
俺は袋の端をそろえてから、テーブルに置いた。
「俺も、あの道が早いのは知ってた」
「うん」
「ただ、狭いところ走るのが、あんまり好きじゃなくて。混んでも広い道のほうがよかった。それは、言ったつもりだった」
奈央は頷いた。
「うん。私が、聞いてなかった」
「それで、ほらって言われたのが嫌だった」
「あれは余計だった」
俺は袋から手を離した。
「でも、運転すればいいって言ったのは、ごめん。喧嘩したくて言った」
奈央が少しだけ眉を上げた。
「分かった」
仲直りをしたあとも、すぐにはいつもの調子に戻らなかった。
昼食の支度をしながら、俺は二度ほど、奈央の顔を見た。
彼女も一度、何かを言いかけた。
「何?」
「いや。醤油、取ってほしかっただけ」
すぐ隣にあった。
俺が渡すと、彼女はありがとうと言った。
食後、奈央が洗い物をしている間に、俺はテーブルを拭いた。
「さっき、少し怖かった」
彼女の背中が止まった。
「私の言い方?」
「いや。俺が嫌な言い方したあと、奈央が黙ったから」
水を止めた彼女が振り返った。
「また駄目になったのかなって、一瞬思った」
奈央は布巾で手を拭いて、テーブルへ来た。
「私、腹立つとすぐ喋るほうだから。黙ったのは、嫌なこと言い返しそうだったからだよ」
「そうだったんだ」
「でも、黙っただけじゃ分かんないか」
彼女は椅子へ腰を下ろした。
俺も向かいに座った。
「二人とも感じ悪かったね」
俺は少し笑った。
「うん」
「たぶん、またやるよ」
「そうなの?」
「私、空腹だと余裕なくなるから」
「じゃあ、車に何か置いとくか」
「それで全部済ませようとしないで」
今度は声を出して笑った。
彼女も笑った。
*
春、奈央の友人が結婚した。
帰りは駅まで迎えに行くと、前から約束していた。
連絡が来たのは夜の九時半だった。
『今から電車乗る。十時二十分くらい』
俺はゲームの通話で、迎えに行くので次の一回で終わると伝えた。
予定どおりに抜けて、上着を着た。
駅前の駐車場で待っていると、改札のほうから奈央が歩いてきた。
長いスカートの裾を片手で押さえ、もう片方の手に引き出物の袋を持っている。
俺を見つけると、小さく手を振った。
助手席に座るなり、息をついた。
「ありがとう。遅くなってごめん」
「予定どおりだよ」
「そうだけど。起きてた?」
「さっきまでゲームしてた」
「あ、途中だった?」
「一回終わってから出てきた」
「そっか」
車を出すと、奈央は窓の外へ目を向けた。
俺はしばらく黙って運転した。
次の信号で止まったとき、聞いた。
「楽しかった?」
「うん。すごく」
彼女は笑った。
「新郎がね、最後の挨拶、全部忘れちゃって」
「全部?」
「最初の、今日はありがとうございましたって言ったあと、止まっちゃったの。お嫁さんが隣で、頑張れって」
「それで?」
「結局、用意してきた紙、出してた」
奈央はバッグからスマホを取り出した。
「あとで写真見せる。ケーキがすごかった」
「うん」
信号が変わった。
彼女はスマホを持ったまま、また窓の外を見た。
家が近づいたころ、奈央が口を開いた。
「今日、結婚しないのって、三回聞かれた」
「三回」
「別々の人にね。同じ人に三回聞かれたわけじゃないよ」
「うん」
「みんな久しぶりだし、聞くことも似るんだろうけど」
俺はハンドルを握り直した。
返事を探していると、奈央が続けた。
「前は、いい人いないのって聞かれたら、いないって答えてたの」
「今日は?」
「彼氏いるって言った」
胸の辺りが、少し熱くなった。
「そしたら、結婚はいつって」
「ああ」
「いるって言ったばっかりなのに」
笑いながら言ったあと、奈央はバッグの留め金を指で押した。
ぱちん、と小さな音がした。
「……ごめん。困るよね、こういう話」
俺はすぐには答えられなかった。
「ちょっと考えてる」
そう言うと、彼女がこちらを向いた。
「うん」
コンビニの明かりが見えた。
「少し寄ってもいい?」
「いいよ」
駐車場へ車を入れて、エンジンを止めた。
奈央がシートベルトに手をかけたので、俺は首を振った。
「先に、話してもいい?」
彼女の手が止まった。
「うん」
俺は正面を向いたまま、一度息を吐いた。
「いつ結婚するって、今は答えられない」
「うん」
「でも、奈央と付き合ってること、先のないつもりで考えてるわけじゃない」
彼女が頷いたのが、横目に見えた。
「一緒に住んだらどうなるかなとか、考えることはある。今日も、迎えに行くんじゃなくて、家で待ってたら、帰ってくるんだなって」
そこまで言ってから、俺は奈央を見た。
「ただ、まだ、お互い知らないことも多いし。ちゃんと話したい」
奈央は膝の上に両手を置いていた。
少しして、頷いた。
「私も、今日、日付を決めたかったわけじゃないよ」
「うん」
「聞かれるたびに、私たち、そういう話してないなって思っただけ」
「そっか」
「でも、航も考えてるんだって分かって、うれしい」
俺はようやく、座席に背中をつけた。
奈央も息をついた。
「じゃあ、今度、しらふのときにも話そう」
「今日の話、覚えてる?」
「それくらいは飲んでない」
奈央が俺の腕を軽く押した。
*
翌朝、洗濯機を回してからゲームへ入った。
いつもの友人が一人いた。
『おはよう。昨日、ちゃんと会えた?』
『うん』
『彼女、喜んでた?』
『たぶん』
言ってから、付け足した。
『俺もうれしかった』
ヘッドホンの向こうで、友人が笑った。
『何だよ。聞いてないところまで言うじゃん』
『聞いたろ、彼女のこと』
『そうだけどさ』
画面の中で、友人のキャラクターがこちらを向いた。
『今日も出かけるの?』
『午後から。彼女の家、行く』
『了解。じゃあ、午前中で終わるやつにするか』
俺は開始地点へ向かった。
昼になったら、奈央に連絡しようと思った。
何か買っていくものはあるか。
昨日の写真も、まだ見せてもらっていない。
話したいことを思い浮かべていると、画面の中で俺だけが先へ進んでいた。
『航、まだ始まってない』
『ごめん』
友人が笑った。
俺も笑って、みんなのいる場所へ戻った。
*
その年の秋、俺たちは同じ家に住んでいた。
一緒に暮らす話を始めてから、決まるまでには何か月かかかった。
駅から近い部屋。
駐車場が使いやすい部屋。
洗濯物を外に干せる部屋。
ゲームをする場所。
「リビングで喋りながらやるの?」
「ヘッドホンはするけど、声は出る」
「私がテレビ見てても?」
「……別の部屋があったほうがいいか」
「夜、何時くらいまで?」
聞かれて初めて、決めなければいけないことがいくつも見つかった。
内見の帰りに、ファミリーレストランで間取りを広げた。
奈央は鞄からペンを出した。
俺は彼女の前に置かれた紙を、自分のほうへ少し引いた。
「ここ、俺も見たい」
「あ、ごめん」
真ん中に置き直した。
俺が一つ書き込み、奈央が横から覗いた。
「ここに机置いたら、ドア開かなくない?」
「本当だ」
「航、ゲームの中でも、こういう感じ?」
「そっちは寸法ないから」
奈央が笑った。
俺は線を消して、別の場所へ書き直した。
引っ越しの段ボールがなくなるまでに、一か月かかった。
枕は二つになった。
奈央は結局、最初に試したものとは違う枕を買った。三つの店を回ったので、俺も少し詳しくなった。
休みの日に起きると、台所から包丁の音がした。
奈央が弁当箱へ卵焼きを詰めていた。
「今日、出かけるんだっけ」
「昨日、話した」
俺は立ち止まった。
彼女が振り返る。
「妹たちと、公園」
「ああ。ごめん、寝る前に聞いたやつだ」
「そう。航、途中から返事なくなってた」
「寝てた」
「知ってる」
俺は冷蔵庫から麦茶を出した。
「迎え、いる?」
「今日は大丈夫。夕飯も食べてくる」
「分かった。楽しんできて」
奈央は弁当のふたを閉めた。
「航は?」
「午前中、洗濯。午後、ゲームする約束してる」
「じゃあ、お互い楽しもう」
玄関で見送った。
ドアが閉まってから、洗濯機へ向かった。
ズボンのポケットに手を入れると、レシートが二枚出てきた。
危なかった。
*
夜、奈央が帰ってきたのは、十時より少し前だった。
鍵の音がして、俺はヘッドホンをずらした。
「お帰り」
「ただいま」
奈央は手を洗ってから、部屋の入口へ来た。
俺は画面の隅の時刻を見た。
「あと十分くらいで終わる」
「うん。先に着替えてくる」
ゲームへ戻り、最後まで終えてから、友人たちに挨拶した。
リビングへ行くと、奈央がソファに座っていた。
俺は隣に腰を下ろした。
「今日、どうだった?」
彼女はスマホを持ち上げた。
「見て。甥っ子、これ一人で登った」
小さな子供が、遊具の上で両手を振っていた。
「結構、高いね」
「そう。下りられなくなって、結局私も登った」
「怖くなかった?」
「怖かった。妹、下で動画撮ってるし」
写真の次には、短い動画があった。
上から必死に呼ぶ奈央と、笑いながら励ましている妹の声が入っていた。
俺は笑った。
奈央も、自分の声を聞いて笑った。
「航は? ゲーム、勝った?」
「今日は、勝った」
「おお」
「最後、俺だけ残って。あと一回当たったら負けるところで」
身ぶりを交えて話すと、奈央は俺の手を目で追った。
途中で、何のことか分からなくなったらしく、首を傾げた。
「待って。その、避けるやつって何?」
俺は立ち上がって、机からタブレットを持ってきた。
「ちょっと見てくれる?」
「うん」
今日のプレイを録画した動画を開いて、彼女のほうへ傾けた。
奈央が肩を寄せた。
「ここ。俺が、これ」
「うん」
画面の中で、俺のキャラクターが敵の前へ走っていく。
「あ、ここで?」
「そう」
「え、危ない」
「そうなんだよ」
俺は画面を止めた。
続きを話そうとすると、奈央が先に指を伸ばした。
「待って。止めないで。どうなるの」
俺は笑って、再生ボタンを押した。
~完~




