迷いの森の試験
翌朝、夜明けと共に安宿を発った。
目指すは迷いの森の奥深く、昇格試験の対象であるビッグボアが縄張りを持つという「大きな二つ岩」だ。
迷いの森の入口を抜け、以前ポポ草を採りに来たエリアを通過する。
ここまではまだ慣れた道だが、問題はこの先だ。
深部へ進むにつれて、森の様相は一変した。木々は天を突くように高く聳え立ち、太い蔦が絡みつき、地面は湿った落ち葉と苔で覆われている。
足元から毒々しい斑模様の蛇が鎌首をもたげて威嚇してきたリ、人の顔ほどもある巨大な蜘蛛が巣を張っていたり、遭遇する魔物も以前とは明らかに質が違う。
道なき道を進み、体力を消耗し始めた頃、少し開けた場所に出た。そこで、前方から歩いてくる一人の冒険者と鉢合わせになった。
年の頃は俺と同じくらいか少し上だろうか。手入れの行き届いたロングソードを腰に下げ、磨かれた軽鎧を身に着けている。自信に満ちた、やや傲慢そうな顔つきが印象的だった。
「ん? なんだお前、こんなところでウロウロして。見ない顔だな」
男は俺の姿――特に、まだ新しさの残るチェストプレートと中古のショートソード――を値踏みするように見ると、鼻で笑った。
「もしかして、お前もビッグボア狙いの昇格試験か? ハッ、Fランクのひよっこが一人で来るとは、命知らずな奴もいたもんだな」
一方的にまくし立てる。どうやら、彼も同じ試験を受けに来たらしい。
「まあ、せいぜい森の肥やしにならないよう気をつけな。ビッグボアは、この俺――カイト様が先にいただくからよ!」
カイトと名乗った男は、そう言い捨てると、俺の返事を待つでもなく、さっさと森の奥へと消えていった。
(……なんだ、あいつ)
初対面の相手に随分な言い草だ。少しむっとしたが、ここで張り合っても仕方がない。俺は気を取り直し、再び二つ岩の探索を再開した。ああいう自信過剰なタイプは、えてして足元を掬われやすいものだ。
それからさらに三十分ほど歩いただろうか。木々の合間から、ついにそれらしき巨大な岩が見えてきた。天を突くようにそびえ立つ、二つの巨大な岩塊。間違いなく、あれが目印の「大きな二つ岩」だ。
俺は息を潜め、慎重に岩へと近づいていく。そして、岩陰からそっと様子を窺った瞬間、息を呑んだ。
いた。
岩の麓で、巨大な鼻を使って地面を掘り返している、とてつもない大きさの猪。ビッグボアだ!
全長は小型の馬ほどもあり、全身が硬そうな赤茶色の体毛で覆われている。肩は盛り上がり、筋肉の塊といった印象だ。
そして何より目を引くのが、口元から湾曲しながら天に向かって伸びる、二本の巨大な牙。あれで突進されたら、ひとたまりもないだろう。ゴゴゴ…という低い唸り声のような呼吸音が、その荒々しさを物語っている。
(こいつが……ビッグボア……!)
ゴブリンやインプとは比較にならない威圧感。
全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。だが、ここで怖気づくわけにはいかない。これが、俺が越えなければならない壁なのだ。
俺は深呼吸を一つして、心を落ち着かせた。ショートソードを静かに抜き放ち、MPが全快していることを確認する。
俺が戦闘態勢に入ったのを察知したのか、あるいは縄張りに侵入した異分子の匂いを嗅ぎ取ったのか、ビッグボアがピタリと動きを止め、その小さな濁った目で俺を捉えた。
「ブルルルルォォォォォォ!!!」
次の瞬間、森全体を揺るがすかのような猛烈な咆哮が響き渡った! そして、その巨体に似合わぬ驚異的な瞬発力で、地面を蹴って俺に向かって突進してきた! 地響きと共に、凄まじい勢いで迫りくる巨体!
(来た!)
俺は冷静に、迫りくるビッグボアの動きに意識を集中させる。
(コピー!)
《[ビッグボアの突進パターン]をコピーしました》
脳内に浮かび上がる突進の予測軌道。俺はその軌道から外れるように、最小限の動きで身をかわす! ゴオッ! と風を切る音と共に、ビッグボアが俺がいた場所を通過していく。その突進の威力は、想像以上だった。
壁生成スキルで受け止めようなどとは、考えない方がよさそうだ。試しに瓦礫の壁をペーストしてみたが、ビッグボアの次の突進であっけなく粉砕された。
こうなれば、作戦通り、回避に専念しつつ隙を突くしかない。
ビッグボアは方向転換が苦手なようで、一度突進を外すと、体勢を立て直すのに少し時間がかかる。その隙を狙って、俺はショートソードで腹部や首元を狙って斬りかかる!
しかし、ガキン! と硬い音を立てて剣が弾かれる。思った以上に皮が硬い! たとえ弱点とされる部位でも、的確に、そして深く斬りつけなければ有効打にはならないようだ。
複数同時ペーストで目を狙ってみるが、ビッグボアは突進しながらも器用に頭を振って石つぶてを弾き飛ばす。なかなか思うようにダメージを与えられない。
戦いは長期戦の様相を呈してきた。俺はひたすら回避と、わずかな反撃を繰り返す。集中力を研ぎ澄まし、ビッグボアの動きを読み、避け続ける。だが、回避するだけでも体力と精神力は削られていく。
(このままじゃ、ジリ貧だ……!)
MPが残り半分を切ったあたりで、俺は覚悟を決めた。一か八か、勝負に出るしかない。
俺はわざとビッグボアの正面に立ち、最大の突進を誘う。猛然と迫りくる巨体。その圧倒的な迫力に、一瞬足がすくみそうになるのを必死でこらえる。ギリギリまで引きつけ、脳内の予測軌道を信じて、真横へ跳んだ!
「ブルォ!?」
勢い余って俺の横を通り過ぎたビッグボアは、急停止できずに数メートル先で大きく体勢を崩した。その巨体が傾き、一瞬だけ、守りの硬い腹部が無防備に晒される!
(今、ここしかない!)
俺は回避した勢いのまま反転し、渾身の力を込めてショートソードを逆手に持ち替えた。そして、がら空きになったビッグボアの腹部めがけて、全体重を乗せて突き刺した!
「グギャアアアアアアアアアアア!!!」
森中に響き渡る、ビッグボアの断末魔の絶叫! ショートソードは、硬い皮を貫き、その下の柔らかい部分に深く、深く突き刺さった! 致命的な一撃!
ビッグボアの巨体は、数度、地面を掻くように痙攣した後、やがて完全に動きを止めた。
「はぁ……はぁ……っ……やった……のか……?」
俺はその場にへたり込み、信じられないといった気持ちで、目の前に横たわる巨大な敵の亡骸を見つめた。
そして、ナイフを使い、苦労しながらもその巨大な牙を一本、根元から取り外した。ずしりと重い、見事な牙。これが、俺がEランクへの扉を開いた証だ。
疲労困憊の体を引きずりながら、俺は迷いの森を引き返し始めた。
帰り道は、不思議と長くは感じなかった。途中、先ほど出会った剣士のカイトと再びすれ違った。彼はまだビッグボアを見つけられていないのか、あるいは見つけたものの苦戦しているのか、ひどく焦った様子で悪態をつきながら森の奥へと向かっていった。
俺は何も言わず、ただ黙って彼とすれ違う。
(やった……これで俺も、Eランク冒険者だ)
ギルドに戻る足取りは、疲労で重いはずなのに、なぜかとても軽かった。
Eランクになれば、受けられる依頼も増える。
もっと強い敵と戦い、もっと多くの経験を積むことができる。スキル屋の謎、MPポーションの問題、そして……いつか、俺を追放したクラスメイトたちを見返す。目標はまだ遠いが、今日、俺はその道へ向かって、また一つ、大きな一歩を踏み出したのだ。




