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断捨離が嫌い

 ネットを見ていると「断捨離」というのがスピリチュアル的に用いられているのに気づいた。「ミニマリスト」もほぼ同じような意味で、要するに、物を捨てて幸せになる、という事になるらしい。

 

 「断捨離」系の動画のコメント欄を見ていたら、「物を捨てたら楽になりました 旦那も捨てたら幸せになりました」のようなコメントがあり、それに多くの「いいね」がついている。(なんだそりゃ)という感じである。

 

 今、ちょっと気になってAIに調べてもらったが、「断捨離」という言葉をスピリチュアル的に使い始めたのはやましたひでこという人らしい。この人は驚いた事に「断捨離」という言葉を商標登録している。

 

 断捨離という言葉は仏教用語だよなと思い、AIに聞くと、元々はヨガの用語らしい。ヨガと仏教は違う宗派ではあるが、かなり似通った部分がある。

 

 ヨガの断捨離も、仏教徒と同じく人の心にある「執着」を断とうとする行為だ。

 

 「執着を断つ」という場合、仏教においてはその根源である自我を否定するという行為に至る。「自我=私」という存在が執着の根源であり、また自我という同一性そのものが、無常(常では無い)この世界における誤謬と捉えられている。全ては変化しているにも関わらず、変化しない同一性を想定する事が間違っていると考えられる。

 

 一方で、ヨガの場合はどうか。ヨガについてはよく知らなかったのでAIに聞いたところ、ヨガもまた、執着の根源としての自我を「偽の自我」という形で否定するが、ヨガはただ自我を否定するだけではなく、偽の自我を否定し、「真の自我アートマン」と同一化する事を目指す。

 

 この真の自我とはどういうものか、私もよくわかっていないが、少なくとも世俗的に我々が考える「私」ではない事だけは確かだろう。

 

 ※

 私が「断捨離」という最近の言葉の使い方、また「ミニマリスト」を嫌いなのは、簡単に言うとその背後に俗臭がぷんぷんするからだ。執着を捨てると言いつつ、思い切り自我に執着し、「物を捨ててたから"私"は幸せ」という形で、世俗的な自我に思い切りしがみついている。

 

 それと上のコメント「旦那を捨てた」とか「人間関係を捨てた」とか書いていた人がいたが、これもまた自我中心の考え方であり、自分が同じように捨てられる事に対する意識が全くない。

 

 断捨離という事で捨てるべきは、自分の執着心であり、その現れとして物が捨てられる、というのが本来の断捨離ではないかと思う。

 

 それと比べると現代のミニマリズムや断捨離は、物を捨てた自分の優位性をまわりに誇示し、自分は幸福だと周囲に喧伝する要素が強い。仏教的に言えばそもそもその「君」という現象が嘘なのだ、という話である。

 

 私自身はミニマリズムも断捨離も嫌いで、私の部屋は物、特に本で溢れかえっている。私はそれでいいと思っている。

 

 以前にマルクスの評伝を読んでいたら、マルクスの部屋は本と原稿がうず高く積み上がっていたという描写があり、(やっぱりそうか)と思った。

 

 他にも、部屋に本がうず高く積み上がっている知識人なんていくらでもいるが、私はあの現代人が好きな、でかいモニターと簡素な机と、綺麗なフローリングの部屋が好きではない。そういう部屋の隅の本棚には、自己啓発本と漫画がきれいに整えられていたりする。

 

 私の部屋は物だらけ、本だらけで、読みたい本もどこに行ったのか、いつも探している始末だが、私は自分の生きている様が、一つの混沌として部屋にあらわれていると思っているので、なんとも思っていない。むしろ、クリニックの待合室のような無味乾燥な部屋の方を気味悪く感じる。

 

 まあそれは私の好き嫌いなのでどうでもいいが、断捨離とかミニマリズムとかいう形で、ただの自己顕示欲や、自分だけが幸福になりたいという願望を妙に高尚なものに見せかけるというのはどうかと思う。

 

 断捨離という言葉を使いだした本人がその言葉を商標登録しているという段階で、恐ろしく執着心に囚われた人間だという印象だが、要は現代人の自己顕示欲の役に立っているだけだろう。

 

 現代に生きる我々には「私」という以外の信仰対象が存在しないので、この「私」を肯定する為に色々な手管が用意される。しかしどのように「私」が肯定されたところで、いずれは「私」もまた断捨離をしている人が物を捨てるように、捨てられる運命にある。自然はそんな事に躊躇しない。

 

 現代の「私」信仰は、最終的には死によって幕を閉じるが、もちろん、この死は自分では見る事はできない。死ぬ時まで、それぞれの「私」が押し合いへし合いして、それぞれの優位を誇り、その価値をあげようと必死でいるが、それら全ては自然の中に解体していくのが必定である。

 

 最近勉強しているキルケゴール・ドストエフスキーの、独自なキリスト教路線で行くと、こうしたものへの解決策は超越的なもの、世俗的なものを超えるものを信じる事にある。すなわち信仰を持つ事である。

 

 仏教においてはこの崩壊していく自我を見据え、無常である真理を認識し、滅びゆく自我を超える認識を持つ事が推奨される。「私」は無常であるが、唯一の常は真理であり、また真理の崩壊を認識する真理(空もまた空なり)である。

 

 現代人からすればこれら過去の人々の哲学は馬鹿馬鹿しいものなのかもしれないが、「私」の執着が行きつく先はもう既に徹底的に思索されている。

 

 断捨離というのなら、自分の執着する心も捨てて欲しいものである。そしてそのような断捨離をした人間であれば「幸せになりました!」などとまわりに向かってアピールする事もないだろう。そのようなアピールこそが、私と他者を比べて、私という存在の優位性を他に誇ろうとする最悪の執着心そのものにほかならないのだから。

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