Ⅲー2 「岬行き」バスに乗れなかった
Ⅲー2 「岬行き」バスに乗れなかった
私は、劇が始まる前に一升瓶を携えて、人や衣裳でごった返す楽屋に行った。
私を見ると、部屋の端に座っていた山本は奇妙な顔をしてから笑顔をつくった。ヨク来テクレタナ。マサカ来ルトハネ。
山本は立ち上がって私から酒瓶を受け取ると、素早く仲間に渡した。顔を背けるように舞台に通じる控え室に向かった。ジャ、コレカラ舞台ダ。観ッテテクレヨ。山本はこちらを見ずに手をひらひらさせて奥に消えた。
山本は主役だった。
野球帽にTシャツ、半ズボンの少年の姿で舞台中央に現れた。
帽子をとって膝まで頭を下げてから元の姿勢に戻って、笑みを浮かべた。観客から喚声と口笛が掛かった。常連が多いらしい。
山本の顔は、帽子の陰になって見えない。おそらく自信たっぷりの皮肉な目でこちらを睨んでいるのだろう。
山本は派手な身振りで帽子を被り直し、気をつけの姿勢を取った。
背後の舞台袖から一〇人近くの裸体の男女が奇声を上げて現れた。椅子をもった者は足を交差して座り、バトンを持った者はくるくると操った。
舞台は一瞬暗くなり、数ヵ所から赤、青、黄、緑色のライトが走り回った。その原色の中に男女の手や足、顔、体が浮き上がった。
ライトが一点に集まった。
そこに、笑い顔の山本が現れて座り込んだ。皺だらけの、化粧をしてもわかる六〇歳に近い顔をライトは浮かび上がらせた。
山本は、はじめ泣いているのかと思えた。
手に抱きかかえるように持っていた金髪の人形と睨み合うように顔近くまで持っていった。そして、呟いた。ゴメンネ。
人形の目は大きく見開かれ、その中心に光があった。ふっくらとした頬に金色の長い毛が揺れた。モウ、恥ズカシイコトヲシナイデネ。
山本はそのまま立ち上がると、今度は観客に向かって叫ぶように語りかけてきた。
ボクは行かなくちゃいけないんだ。
ボクは最終バスに乗っている。
バスは満員だった。
急カーブで立っていた数人の男女が倒れた。
転がって重なったまま立ち上がらない。そのまま両手両足をバタバタさせている。座っていた乗客は耳を両手で塞いで私語を交わしている。
倒れた乗客の目はボクに見開かれている。目の中の血管が破裂しそうに膨らんで浮き出ている。しかし、ボクには何もできないんだ。
バスは止まった。
暗い街だ。終点らしい。
乗客は慌てて出て行った。倒れていた者は重なったまま、互いに蹴飛ばし合いながら降車口にはいずっていった。
その向こうに黒い塊があった。
列車だった。皆はそれに向かって急いでいるのだ。
「岬行き」。突然、アナウンスが流れると、けたたましくベルが鳴った。
これに乗り遅れると、次はないと思った。そうすると間に合わなくなる。ボクも慌てて彼らの後をついて行った。
ボクは乗り込もうとした。
すると、それまで和やかに談笑していた男たちが一斉に両腕を突き出して、ボクを暗いホームに押しやった。拳骨を握って威嚇する者もいた。女たちは口に手を当てて、細い目が笑っていた。僕を指さす女もいた。大きな口だった。
扉は閉まってしまった。
ボクは一度だけ扉を叩いたが、皆はもうボクを見ていなかった。まったく関心がなくなって、自分たちの話に夢中になっていた。
ボクは仕方なくバスまで戻った。