第二章
〈…リュートレイアの決心を変えることが出来ないと知って、カナンは跪いた。「それならばせめて私は貴女のお供をさせて頂きましょう。あなたを守る為にこの命を投げ出す覚悟で参ります。それだけが私に出来る貴女への愛の証」…〉
「悪い、やっぱ俺、駄目だわ」
A4サイズの薄い印刷物を図書室の長い机の上に置き、勝呂は顔を上げた。
「途中から読んだってわかんないだろ」
公輝は視線を紙の上に走らせながら答える。
ふたりは結から文芸部の作品集を借りて読んでいるところだった。結の詩も他部員の作品も飛ばし、読んでいるのは辻朋江の小説『運命の少女』である。一冊一冊は薄いのですぐ読み終わるのだが、とにかくストーリーが遅々として進まず、入学当時から連載を始めたと思われるこの小説は未だ未完である。
「途中だからってんじゃなくてさ、この文章とか、台詞の内容とか…漢字も多いし」
もともと活字の苦手な勝呂は斜め読みすら疲れて投げ出したが、公輝は一応最初から順を追っている。半分ほども読み終えてやっと公輝は勝呂を見た。
「うん、確かにちょっとキツイな」
「つまりどういう話なんだ?」
「みにくいあひるの子がシンデレラになって出会う人間全員に恋されて愛されて良かったね、っていう話だ」
「なんだそりゃ」
「でもそういう話なんだ」
勝呂が適当に選んだ号に載っていたのも、主人公が誰かを振って、それでもその相手は主人公に変わらぬ愛を誓う場面だったらしかった。
「それがずっと続くのか」
「続くんだ。毎回やたら美形の男やら女やらが出てきて主人公を取り合って、一段落するとまた別のタイプの美形が登場する」
勝呂はうんざりした顔をしたらしい。公輝は面白そうに勝呂を眺めた。
「いいじゃないか。ハーレムものが男に人気なように、逆ハー展開は女の子の夢の一形態だよ。恋愛でなくても、お前の好きな少年マンガだって構造的には同じだ。弱かった主人公が強くなる。敵を倒すと気に入られてそいつが仲間になる。さらに強くなればもっと強大な敵が現れる。な?一緒じゃないか」
「…お前、評論家みたいなこと言うな」
「去年マンガ特集組んだんでね」
公輝は純粋な興味から、勝呂は自分に告白し、直後に消えた朋江についてなにも知らないことに理屈ではない負い目を感じて読み始めた小説だった。結局は伝説について書かれているわけでもなく、朋江の世界観があらわれてもいなかったことに勝呂は残念なようなほっとしたような気分だ。
朋江が姿を消して今日で三日、消息は未だ掴めていない。
家出説もあったが、荷物も金も持たず制服のまま家出する少女はいないだろう。朋江は家にいったん帰ることもしていないのだ。それどころか学校を出るところを見た者もいない。
犯罪に巻き込まれた可能性があるということで、朋江と親しかった生徒は教師に呼び出されて話を聞かれているらしい。同じ部活ということでやはり呼ばれた結が、警察官らしい人間がその場にいたと話していた。もうすぐ公開捜査になるだろうとわけ知り顔に予言する生徒もいる。
公輝が集めた情報によれば、今のところ最後に朋江を見たのはクラスメートで、いつもは一緒に帰るのだが今日は部活があるのだろうと思ったと言っているらしい。
だが朋江は文芸部に顔を出さなかった。やはり最後に朋江を見たのは勝呂ということになりそうだ。
勝呂は結局あの日のことを教師に打ち明けることができずにいた。どのみち役に立たない情報だと思っているが、勝呂の知らないところでそれが重大な証言になる可能性もある。全校集会で再度情報提供を呼び掛けられたときには、自分ひとりに言われているようで身がすくんだものだ。
それでもあえて沈黙している自分の身勝手さへの言い訳のように、こうして朋江の小説などを読んでみたのだが、まったく自分に対する言い訳以上の意味がない。
──朋江の“幽霊”事件は、女生徒たちが次々ヒステリーを起こす騒ぎとなった。
遠い六組からあっという間に勝呂たちのクラスまで伝わったのだから相当なものだ。
もちろん大半の生徒は信じていなかった。真っ昼間、大勢の生徒がいる教室に現れる幽霊など聞いたことがない、しかも窓ガラスに映ったなど、どう考えても当の女生徒の姿が映ったのを見間違えたとしか思えないではないか、と。はっきり言えば勝呂も同意見だ。いなくなった朋江の悪口を言っているという後ろめたさから、錯覚なり幻覚なりを見たに決まっている。
だが目撃したという女生徒たちは他の者に笑われても、確かにあれは朋江だったと言い張った。大事になってしまったので決まりが悪いせいかとも思えるが、全員が確信を持って証言する内容は食い違うところもなく奇妙に整然としている。
女生徒たちが集まっていたのは廊下側の一角だった。廊下側には前後にある引き戸の間に窓が作られている。この窓は真夏でもない限り開けられていない。
立って話に加わっていたひとりが最初に気づいた。自分たちの影にしては輪郭から細部にいたるまで明瞭でありすぎる。だが廊下に誰かが立っているにしては質感がなさすぎた。そして何よりその顔は、毎日同じ教室で過ごしてきた辻朋江に違いなかった。
まず自らの視覚を疑ったその女生徒は、目の前の光景を否定してほしくて座っているひとりに窓ガラスをそっと指し示した。つられてそこにいるほぼ全員が窓ガラスを見ることになった。
その時一人一人は別のことを考えていたようだ。ある女生徒は朋江が登校してきたのかと思い、それにしては窓すれすれに廊下を通っていく男子生徒とぶつかりもしない朋江の姿にやっと恐怖を覚えたという。別の女生徒はとっさに何かの悪戯かと思ったそうだが、どういう悪戯かは思いつくことができなかった。もちろん映写機の映像でも等身大の写真でもなかった。写真は自分たちの顔を順番に睨みつけたりはしない。
朋江の視線を受け止めた女生徒は場違いなことに笑いだしそうになった。それまで悪口を言っていたことをごまかすための愛想笑いだったかもしれない。もしくはガラスの中に入っているとしか思えない朋江の姿がおかしかったのだろうか。ぺらぺらの紙人形のような状態で、それなのに立体感もあれば充分過ぎるほど存在感もある、その理不尽さ。
誰ひとりとして身動きするものはいなかった。ひとりが悲鳴を上げれば、いや息を吸い込んだだけで爆発するであろうことが予想できてはいたが。
そのきっかけはガラスの中の朋江から与えられた。全員をひとわたり睨み終えると、朋江は唇の端を歪ませて笑い顔のような表情を作ると、女生徒たちの間に飛び込むような姿勢で、襲いかかってきた。
廊下の端まで響き渡った悲鳴はこの時発せられたのだが、悲鳴が女生徒たちの口から漏れるときにはすでに、朋江の姿は消えていたのだった。
三日が過ぎて冷静に考えることができるはずの今でも、女生徒たちはあれは確かに朋江に違いないと言い切る。幽霊らしくないことといえばその姿があまりにも明瞭すぎたことだけだそうだ。
もちろん駆け付けた教師たちは朋江を見たという女子グループを厳しく叱った。だが女生徒たちは見間違いと決め付けられることを頑として拒んだ。挙げ句は他の女子にまで広がった集団ヒステリーに、午後の授業はどのクラスもろくろく進まなかったという。
落ち着いてくると今度は朋江の行方に話題が移る。幽霊として現れたということはどこかで死んでいるに違いない。もしかしたら学校のどこかに死体があるのでは…と新しい怪談が増えそうな勢いだ。
勝呂としては失踪したというだけでも心に負担がかかっているものを、すでに死亡しているなどとはあまり考えたくなかった。それが女生徒たちの目撃したものを否定させているのかもしれない。
「…生きてるとしたら、どこにいるのかなあ」
思わず勝呂が呟くと、公輝がさっさと本をまとめだした。
「じゃ彼女のあとを追ってみるか」
「なんだって?」
「旧校舎の鏡だよ」
順番通りに文集を重ねながら、公輝はあっさり答える。
「ってお前、まさか本当に辻があの中に入ったとでも?」
こいつはオカルトファンだっただろうか、と勝呂は思った。女の子たちのとりとめのない怪談にも平気でついていっていたことだし、案外こういうタイプが真面目に信じてしまうものなのかもしれない。
「それはどうか知らないけどさ、少なくとも辻は信じてたらしいじゃないか。ならお前のところに行ったあと、あの部屋に向かったとしてもおかしくないだろ」
「ああ…そういうことか。なるほどな」
「本当はもっと早く行きたかったんだ。でも最初の日は先生がうろうろしてたし、昨日とその前はお前が部活に出てたから、部活がテスト休みに入る今日まで待ってたんだよ」 本を抱えて図書室を出た二人は、文芸部の部室になっている三年の教室へ行って結に本を返すと、旧校舎に行くため方向転換した。
「文芸部は今日もやってるんだな」
「運動部と違って、出たい奴は出てるよ。新聞部は俺の特権で休みにしたけど」
「そうだったの、知らなかった」
背後から声をかけられ、ぎょっとして二人は振り向く。
三年の樋口季里子が、通り過ぎたばかりの教室の窓からこちらを覗いている。
「先輩…」
「他の部員はともかく、部長のあんたは今さら勉強しなくたって心配ないんだからさ、今のうちに取材進めとけば?」
「まさにこれから取材に向かうところですよ」
公輝が答えると、季里子は教室を出てきてふたりの横に立った。「やだ、ほんとに部活してるわけ?でもなんで高崎クンまで連れてんの」
季里子は新聞部の前部長である。公輝につきあって新聞部の部室に何度も足を運んでいる勝呂ともすっかり顔なじみだった。長身で細身、細面。派手な顔だ。それぞれのパーツは形が整っているのだが、どこかアンバランスな感じがするので美人かどうかは賛否両論あったが、勝呂はへんに整った美人ではないぶん、表情が変わるごとに雰囲気までががらりと違ってしまうこの先輩を魅力的だと思っている。
性格も顔と同じくその時々で妙にハイテンションだったり歳に似合わぬアンニュイさを出していたりとさまざまだったが、総じてカラッとしていて面倒見が良いので公輝も入部以来慕っていた。
学校の噂をネタにするという口実(今では単なる口実ではなくなってしまったが)を例によって公輝が話すと、季里子は面白がって自分も行くと言い張った。
「それいいよー、女子受けしそう。みんな信じてないって言いながらその手の話大好きだもんね」
「あの、でも、先輩、受験勉強があるんじゃ…」
「いいのいいの、ちょうど今進路指導が終わって帰ろうと思ってたとこだし」
「なら早く帰って勉強しないと」
「学校から帰ってすぐ勉強するほど焦っちゃいないよ。…ふーん、あんたたち、あたしに来てほしくないわけだ。前部長が煙たい?それとも、なんか隠してんの?」
さすがの公輝も季里子にだけは頭が上がらない。「いえ、そんな…先輩がいいなら、じゃいっしょに行きましょう」
結局三人で行くことになった。勝呂はまあいいか、と思っている。教師がもういないということは朋江の手がかりもなかったのだろうし、これまで見逃されていて自分たちがたまたま見つけられるような幸運があるはずもない。つまりは単なる“噂の名所”を見物にいくだけのことなのだ。だいいち公輝に歯が立たないものを、勝呂が季里子を止めることなどできるわけがない。
「そういえば」三人で旧校舎に向かいながら、公輝がふと気付いたように言った。「あの鏡の話をしてくれたのは先輩でしたね」
「やっと思い出した?入部したてのあんたに最初に伝説を教えてあげたのはあたしだよ」
「他にも伝説、知ってます?」
「いろいろとね。殺された子供が夜中に校舎を走り回るとか」
こうして形を微妙に変えながら、これからも噂というものは細々と受け継がれていくのだろうか。勝呂はなぜか落ち着かない気分になった。
「ヒイロさんの話を聞いたことは?」
「もちろん知ってるよ」
季里子はにっと笑った。
「なんでヒイロさんって言うのかなあ。どういう意味なんだろう」
勝呂が聞くともなくつぶやくと、公輝がうなずいた。
「最初に聞いたときは色の〈緋色〉だと思ったんだけど、名前にしちゃ変だよな」
「それも年代が変わるごとに変化したんじゃない?もとは全然違う名前でさあ」
季里子が言い、勝呂はなるほどと思う。鏡の前に立つところから無限のヴァリエーションが生まれるくらいなのだから、名前だって変わることもあるだろう。
「そのヒイロさんと目されている生徒がいるらしいですよ」
公輝の言葉に季里子は興味を示した。「へえ、誰?二年?」
三年にまでは噂は届いていないらしい。公輝が「一年です。ほら、あの…」と言いかけて黙り込む。公輝の後ろから階段を下りかけていた勝呂は不審に思って声をかけようとしたが、次の瞬間やはり黙った。
階下をその“ヒイロ候補”が、今まさに通り過ぎていくところだったのだ。
…古賀綾瀬はおそらく、全校生徒のうち最も知名度が高いに違いない。
勝呂は二年に進級したばかりの時、早々にその名を聞いた。入学したとたんに注目されたということだ。新入生チェック、と称して一年の女子を偵察していたクラスメートが文字通り呆然とした顔で「信じられない子が入ってきた」と教室中に広めたのである。
「信じられないってなんだよ、信じられないほど太ってるとか言うんじゃないだろうな」
茶々を入れた声にも鈍い反応を示すだけで「とにかく信じられないよ」とくり返すクラスメートの様子のほうが信じがたかった。アイドルグループの誰かが入ってきたんじゃないか、と本気で一年の教室を覗きに行った者もいたほどだ。
実際には、アイドルよりもすごかった。「なんであんな子が芸能人じゃないんだ」と怒りを覚えるような、まさに信じられない美貌だったのである。美少女なのだろう、と予想というより期待した者は自分の想像をはるかに超えた綾瀬を見て、最初のクラスメート同様呆然とした。
全てが完璧に整った美少女というのは芸能界にもそういない。マンガのように全校生徒のアイドルとまつりあげられるような存在も現実にはありえない。だが綾瀬はその容姿だけでなく、その周りの空気さえ変える力があるように見えた。オーラと呼ぶには明瞭すぎる周囲との格差。肌はとにかく白く、髪と瞳はあくまで黒く、唇はひたすら朱い。目鼻立ちよりその鮮やかな色のコントラストにまず目を惹かれる。
今も勝呂たちは綾瀬の姿から目を離せなくなっていた。旧校舎にいちばん近い一年の教室は、旧校舎と同じくめったに通る用事がない。綾瀬目当てに一年の廊下の通行量が激増したという噂はあったが勝呂はわざわざ見にきたことはなかったので、これほど近くで綾瀬を見たのは初めてだった。
(やっぱり、綺麗だ)
呉羽北高等学校の制服がブレザーであることを悔しがる者がいる。それは綾瀬にぜひともセーラー服を着せたかったということなのだが、確かに神秘的な綾瀬にセーラー服はよく似合うだろうと思えた。
綾瀬は目の前の廊下を、背筋をぴんと伸ばして歩いていた。硬直している勝呂たち三人に気付いた様子もない。視線には生まれたときから慣らされているので、今では空気のように当たり前の存在になってしまっているのだろうか。
一年の授業はとっくに終わっている。綾瀬は部活動もしていないはずだし(どこかに入部していればその時点で校内にニュースが飛びかっていただろう)、この時間までひとりで何をしているのだろうか。勝呂が考えているうちに綾瀬の姿はすぐに見えなくなった。
「…間近で見るとすごいな」
公輝がぽつりと言った。
「あれだけ有名な子だからさ、前に写真入りインタビュー載せようって企画があったんだよな」
「へえ、そんな記事載せたら金払ってでも見たがる奴いっぱいいただろうに、なんでポシャったの」
「あんまり真面目に登校してないらしくてなかなかつかまらないんだよ。だから一年の部員に会えたとき頼んでみろって言い付けてあったんだけど、本人の前に出たらひとことも喋れませんでした、って真っ赤な顔で報告された。そのうち俺が直接取材申し込みに来ようと思ってたんだけど…受けてくれそうな感じじゃないな」
それは勝呂も感じた。噂ばかりが先走っていて、実像をよく知らなかった勝呂は漠然とお姫さま的な少女を想像していたのだが、今見た印象はどちらかといえば──柄にもない表現をすれば──鎧をまとった天使だ。校内報で生年月日や、好きなタレントの名を聞かれたがるようにはとても思えない。
学校を休みがちというのは勝呂は初耳だったが、よく男子生徒が「今日は朝からあや姫見ちゃった、ラッキー」などと話しているのを聞いたことはあった。あれは稀なる機会に恵まれた本当に幸運なことだったらしい。今日こんな時間に残っていたのも、そんな生活態度を職員室で注意されていたのかもしれなかった。
ちやほやされるほど学校に溶け込んでおらず、まただからこそ神秘性が増して安っぽく騒がれる以上に誰からも注目されている。モテる、というのとは少し違う。実際綾瀬を口説く勇気のある者がいるとは思えない。女子は気後れして近付けないだろう。友達がいないのは事実のようだし、充分納得できる話ではある。
「先輩、キリコ先輩っ」
勝呂が季里子の耳元で呼び掛けている。我に返った勝呂と公輝が会話している間も季里子はひとり、綾瀬の去った方向に目を向けたまま惚けていたのだ。
「先輩ってば」
やっと声が届いたかのように、季里子が公輝に顔を向ける。まだいつもの調子には戻っていない。「あ?ああ…」
「どうしたんですか。彼女見るの初めてだったんですか?」
勝呂が聞くと季里子はうなずいた。
「うん、一年に死ぬほど可愛い子がいるってのはさんざんあちこちで聞かされてたけど。取材の話が出たときはあたし呉北教師人気投票のほう担当だったしさ…。それにしてもなんでもっと早く見とかなかったんだろ、可愛いとかそういう問題じゃないじゃない」
同性の季里子がいちばん見とれていたというのも不思議だが、案外そういうものかもしれないと勝呂は思った。嫉妬を感じるレベルを超えている綾瀬には女子にもファンが多いと聞く。上級生になったらさぞかし後輩から騒がれることだろう。
「ヒイロさんの容疑がかけられるのもわかるでしょう」
公輝の言葉に、季里子はようやく止めていた足を踏みだしながら答える。「わかるよ。まったくおあつらえむきって感じだね。〈永遠の女子高生〉にふさわしい雰囲気だ」
それから季里子は綾瀬の話を聞きたがった。校内情報に詳しい公輝が丁寧に説明する。
出身中学は不明、呉羽市内であれば評判が届かないわけがないのでおそらく遠方の中学校から、間違いなくただひとりこの学校に入ってきたであろうこと。自宅の場所も生徒で知っているものはいないこと。下校からして綾瀬はみんなが帰る時間ではなく、授業が残っていてもふっといなくなってしまうことがよくあるので帰途につく姿を見られることもほとんどない。それでも成績は悪くないらしいというのは、返ってきた答案を盗み見した生徒の証言や、授業中、窓の外ばかり見ているのに当てられると正解を答えることから確かである。だから教師もあまり強いことが言えない。もっとも成績のことばかりでなく、教師たちにしても綾瀬の雰囲気に呑まれてしまうからだともいわれる。
「パ────フェクト」季里子が軽く口笛を吹く。「まさにヒイロさんそのものじゃない」
「じゃ卒業してから彼女の在校記録調べに来ましょうか」
「それまで彼女が奇跡的にスカウトに乗せられず、芸能界に入ってなければね」
一年の教室を通り過ぎ校庭に面した通路を抜けると、旧校舎の入り口があった。
新校舎が四階建てなのに対して、旧校舎は二階建の建物だ。もともとは家庭科室、視聴覚教室などの特別教室が入っていたのだが、新校舎ができてからはそうした教室も移転され、今では図書室に入りきらない古い蔵書が保存されている程度だ。旧校舎が取り壊されないのは生徒たちの怪談のネタを保存するためとしか思えない。
「実際は、費用がかかるからってとこじゃないのか」公輝が周りに人がいないのを確かめながら旧校舎一階の扉に手をかける。今では図書委員がときたま出入りする程度なので、決して立入禁止ではないがテスト前のこの時期旧校舎に入るのを見られるのは歓迎できることでもない。
「でも変な噂が流れてるんだし、もっと前に壊されててもおかしくないのにね」
季里子の言葉に勝呂は朋江を思い出す。朋江が姿を決して教師がここを調べにきた。関連性があるにしろないにしろ(ないに決まっているのだが)今度こそここは取り壊しが決まるかもしれない。
中は薄暗かった。今日はさすがにこちらの校舎を使っている生徒はいないようだ。
旧校舎は一応鉄筋だが、昔のことで質の悪い建材でも使ったのか傷みがひどい。公輝によると創立時の建物だという。では創立はいつかと聞くとおよそ四十年ばかり前だと答えが返ってきた。
「換気が悪いよな。黴臭いし埃っぽいし、壁は湿ってるような気がする」
問題の部屋は二階の奥だ。旧校舎は掃除当番が回ってこないので、廊下も階段も隅に埃が溜まっている。
「足跡がついてるよ」二階についたとたん季里子が言って勝呂は慌てて床を見た。確かにいくつか重なりあって足跡が点々としている。図書室の蔵書は一階の教室に保管されているということだから、調べにきた教師たちの足跡だろう。教師たちがここに来た時、朋江の足跡はついていたのだろうか。
日が沈むまではまだ間があるのに、日当たりも悪く電気もついていない旧校舎は異様なほど暗い。先入観のせいか、奥に進むにしたがって空気までが淀んで重くなってくるような気がした。
「公輝、ここに来たことあるのか」
必要もないのについ声をひそめて勝呂は聞いてみた。
「ない。女子連中は時々、恐いもの見たさで連れ立ってきてるらしいけど」
「あたし来たことあるよ、一年の時に」季里子もつられてか低い声だ。「当時の先輩にきもだめしとか言われて」
「キリコ先輩なら平気だったんじゃないですか」
「怖くて泣いちゃったあ…と言いたいところだけど、全然怖くなかった」
「でしょうね」
三人は廊下の突き当たりの、資料室の前に立った。
新校舎の教室に下がっているプレートは透明のアクリル板に活字を印刷した白い紙を挟むタイプだが、ここは黒い板に白い絵の具かなにかで手書きされていた。ほとんどの教室から取り外されているが、ここにはまだ付けられたままだ。ただし『資』の字がかすれてしまっている。
扉も違っていた。片開きの引き戸なのは同じだが、こちらの扉には新校舎の扉がそうであるような、顔のあたりに開けられている細長い窓がない。中がまったくのぞけないのだ。
「この中に嵌め込みの鏡があるのか…」
「それ、本当なわけ?」
勝呂が言うと季里子がうなずいた。「前に来たときは先輩がどこからか鍵を調達してきててね、ばっちり中に入ったんだ。噂どおりのでっかい鏡があったよ、こっち側の」と季里子は行き止まりの廊下の面を指さす。「壁にね。全身すっかり映るくらいのが」
「見ろよ、鍵が取り替えられてる」
公輝が目で扉の南京錠を示した。古びた扉に真新しい南京錠が違和感を感じさせる。
「新校舎みたいにドアそのものについている鍵じゃないんだ。こんな鍵簡単に開けられる。キリコ先輩の時も鍵があったんじゃなくて、うまいこと開けるか壊すかしたんじゃないかな」
「じゃ辻も、入ろうと思えば入れた…」
「入ったんだろうな。これはそのあとで先生が新しくつけた鍵だよ、ぴかぴかだろ?」
「辻って、あの行方不明になったっていう…?あんたたち何を調べにきたの?」
季里子に不思議そうに言われ、勝呂ははっとした。季里子には単に学校の噂を調べるとしか説明していなかったのだ。
勝呂と公輝が目で相談していると、季里子がぴくりと眉をひそめた。
「誰か来るよ」
ふたりにも一階の入り口の扉が開けられる音が聞こえた。息をひそめて聞き耳を立てていると、入ってきたのはひとりだということがわかった。図書委員なら一階で用事を済ませたらすぐに出ていくだろう。生徒が勝呂たちと同じく開かずの間に興味をもっていて見に来たとしても、鉢合わせして困ることはない。
だが残念なことにそのどちらでもなかった。それは生徒の上履きの足音ではなく、サンダルをはいて勝呂たちのいる二階に上がってこようとしている、教師の足音だったのだ。
やばいな、と公輝が顔を天井に向けた。隠れるとこもないしね、と季里子が肩をすくめる。一階ならともかく、旧校舎の二階のそれも奥にいては「用事があって」は通らない。多少の小言は覚悟するしかなかった。願わくば多少の『少』、つまり話のわかる教師であるといい、と勝呂は祈った。
「そこにいるのは誰です!」
地獄耳なことに季里子と公輝のひそひそ声を聞き付けたらしく、階段を途中から駆け上がってくる音がする。相手の声で勝呂は、自分の祈りが届かなかったことを知った。
勝呂たちと反対側の端に、予想したとおり国語の女教師である時枝の姿が現れた。
規律を重んじ、冗談が通じないことにかけては校内随一の存在だった。教師ひとすじ三十年、独り身を通しながらひたすら生徒に口やかましく干渉し続けている時枝は、横暴な体育教師の川路と並んで生徒たちがもっとも敬遠している教師だった。
「三年の…樋口ですね?あとのふたりは二年?樋口、男子ふたりとこんなところで何をしているんですか」
時枝は三年の国語を受け持っているので季里子の顔は知っていたらしい。勝呂たちのそばまで早足で歩いてきた時枝は、自動的に季里子をリーダー格と見て追求を始める。
公輝が何か言おうとするのを遮るように、季里子は答えた。
「開かずの間を見にきたんです」
「開かずの間?馬鹿馬鹿しい。あんたたち生徒はいつも勝手にそういう大仰な話を作りだす。受験勉強をほったらかして何をしてるの、三年にもなって」
どうやら季里子は時枝の覚えがめでたくないらしい。陰険な時枝が目立つ季里子を嫌うのは当然かもしれない。このときとばかりに時枝はねちねちと季里子をいびろうとしている。
「しかも後輩の男子ふたり従えてねえ。そこのふたり、クラスと名前を言いなさい」
「二年一組の深谷公輝です。あの、先輩はぼくたちに協力してくれてるだけなんです」 公輝は時枝をまっすぐに見て言った。時枝はけげんな顔をする。「協力?なんの協力です」
ここでまた学校の噂を記事にするという説明を公輝が繰り返した。「だからその、ぼくはまだ部長になったばかりで頼りないんで、前部長の樋口先輩がいろいろアドヴァイスしてくれてるんです」
「くだらない。そんな記事のために受験生を引っ張り出す後輩も後輩だけど、喜んでついてくる受験生も受験生だわね。どうせアドヴァイスするならもっとためになる記事を考えるよう言ってあげるのが先でしょうに」
「『ためになる記事』にしたら誰も読みません、先生」
季里子がにっこり笑った。「わたしが部長だったときは先生の言う『ためになる記事』ばかりだったので、廃部の危機にみまわれたんですよ」
(ひゃあ、先輩開き直っちゃったよ)
勝呂はひやひやしながら季里子と時枝を交互に見た。大輪の花のような笑顔の季里子を時枝は憎悪すら感じさせる目で見ている。
「…ろくでもないものを作るくらいなら、いっそ廃部にしたほうがよろしい」
「先生にとってはろくでもないものでも、生徒には大好評ですわ。もともと生徒が生徒のために新聞を作ってるんですもの、評価は生徒がするんです。先生じゃなくって」
普段のやや乱暴な言葉遣いを引っ込めて、季里子はわざとらしいくらいにお嬢様ふうの口をきく。それが時枝の癇にさわることもわかっているのだ。公輝も勝呂ももう口を挟むことができない。
時枝は頬を紅潮させて言葉を探していたが、とりあえず矛先を他に向けることにしたらしい。「そちらの男子、名前は」
いきなり時枝の鋭い視線にさらされた勝呂はどもりながら名乗った。
「高崎、あなたも部員なんですか」
「いえ」反射的に答えてから、急いで言葉をつぐ。「その、いろんな噂について興味持ってたのぼくなんです。それで公輝…深谷に話して」
「ぼくがそれを次の新聞部の記事に使おうと提案したんです」
嘘の下手な勝呂がボロを出さないうちにと、公輝があとを続けた。
「まったく最近の男子は。こういうくだらないことで騒ぐのは女子ばかりだと思ってたけれど」時枝はぎろりと季里子を見る。「ここ数日見回りにきて、あなたたちのような生徒を他にも見つけたけど、男子は初めてですよ」
大げさにため息をつく時枝に季里子が問い掛けた。「ここ数日?なぜここ数日に限って見回ってるんですか?」
「そ、そんなことはどうでもいいでしょう。さあ、もうあなたたちも帰りなさい。おかしな噂に惑わされないように」
「おかしな噂って、たとえば失踪した女の子がこの部屋に入るのを見たとか?」
とんでもないことを言い出した季里子を、勝呂と公輝は口を開けて見つめた。
だがそれに対して時枝は過剰な反応を示した。「あんなものはまったくのデマです。見間違いかなにかでしょう。あなたたち、記事とやらにそんなこと興味本位で書いたら承知しませんよ」
時枝に押し出されるようにして三人は旧校舎を出た。埃っぽい空気から解放されて、思わず息をつく。
「まいったなあ」
勝呂は時枝の厳しい視線を思い出して首を振る。
軽く伸びをして公輝が季里子を見た。「先輩大丈夫ですか、時枝相手にあんな口きいて。内申に影響するとかないですか」
「だいじょーぶ」季里子はからからと笑う。「考えてもみな、あたしたちなんにも悪いことしてないんだよ。立入禁止の場所に忍び込んだわけでもなし、ただ廊下で立ってただけじゃない」
「まあそれはそうなんですけどね」
それにしても先輩は怖いもの知らずというか無鉄砲というか、となおもぶつぶつこぼしている公輝を無視して、季里子は勝呂に話しかける。
「それよりあんたたち、実は消えた子のことを調べてたわけだ」
「えっ、ああ、その」
「邪魔が入ったせいでさっきは聞きそびれたけど、本当はその子があの部屋に入ったって聞いて見にきたんでしょ?」
「…聞いてたわけじゃないんですよ。先輩が時枝に言ったことで、初めてそんな噂があったのも知ったくらいだし」
「あたしだって知らなかったよ。あんたたちがちらっと言ってたこととつなげてカマかけてみただけ」
本当に思い切ったことをする人だ、と勝呂が感心していると、公輝が考え考え言った。
「ちゃんと目撃者がいる…ということは、辻は思ったとおり開かずの間に行って、それきり消息を絶ってるわけだ。鏡の中の楽園で楽しく暮らしてるかどうかはともかく」
「楽園?なにそれ」季里子がくすりと笑う。
まさかあの中で自殺でも…と考えかけて、勝呂は打ち消した。だいいち部屋の中は先生たちが調べたはずじゃないか。
一年の教室の前を通り過ぎた。綾瀬はもういないようだ。いれば空気でわかるような気がした。
二階まで上ったところで結が上から下りてくるのに会った。公輝、勝呂に季里子という三人の取り合せに結は一瞬目を見開く。
「あれ結、部活今終わったのか」
うなずく結を見て季里子がにやにや笑う。「そんじゃ、小姑はこれで消えようかな」
「どうせなら一緒に帰りませんか?」
「んー、遠慮しとく。その代わりさっきの件、今後進展があったら絶対聞かせてよ」
そう言って季里子は手を振ると階段を上っていった。見送った勝呂たちは教室に置いてあったカバンを取りにいく。
時枝と季里子の対決の模様を話す公輝と薄く微笑んで聞いている結を見ながら、勝呂は季里子に申し訳ない気分になっていた。もとはといえば勝呂の問題だというのに、季里子を憎まれ役に立たせてしまう結果になってしまったのだ。
公輝はそんな勝呂の様子を見てぽんと背中を叩く。
「次は中を見てやろうな」
勝呂に異存のあるはずはない。たとえなんの手がかりにならないにしても、朋江が自分を救ってくれると信じていたという鏡をじかに見てみたかった。
読んでいただき、どうもありがとうございました!