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第一章


 辻朋江が行方不明になったと聞いたとき、高崎勝呂は少しばかりうろたえた。

 こう言ったからといって別に、勝呂は朋江と親しかったわけではない。二年の今年まで一度も同じクラスになったこともないし、部活や委員会も違う。中学も(朋江の出身校は知らないが)別々のはずだった。共通の友人もいなかったし、当然この二年近く、口をきいたこともなかった。

 昨日までは。

 つまり朋江は勝呂と最初で最後の会話を交わしたあと、消えてしまったことになる。

 (まさか俺が原因じゃないよな…)

 登校して間もなく、女子生徒たちのけたたましい『内緒話』で朋江の失踪を知ると、勝呂はいつものように友人たちの輪に混ざる気になれず自分の席で考えこんだ。

 そんな勝呂の様子に親友が気付かないはずがない。うつむいた勝呂の顔に影が差し、顔を上げると深谷公輝が笑顔で、だが心配そうな目で見下ろしている。

 「どうしたんだよ」

 挨拶もそこそこに顔をのぞきこまれ、勝呂は一瞬迷った。昨日のことは公輝にも話していない。朋江に気を遣ったからというより単に照れ臭かったのだ。

 だが勘のいい親友は勝呂が答える前に言った。

 「六組の辻のことだろ」

 「…なんでそう思う?」

 「さっき教室に入ってきたとき、女子連中の噂話聞いたとたんに顔色変わったじゃん」  

 ポーカーフェイスの公輝と違い、勝呂は単純なたちである。このぶんでは目ざとい女子たちにも気付かれていないという保証はなかった。

 単純なだけに決心を固めるのも早い勝呂は、公輝に目配せして教室の後ろの窓際に移動する。

 「そんなにきょろきょろしなくても誰もこっちに注意向けたりしてないよ。ほら早く言いな、辻とはどういう関係だった?」

 「関係ってほどの関係なんかないけどさ。だって俺昨日まで、悪いけど辻の存在自体知らなかったんだから」

 「でも向こうはそうじゃなかったってわけだ」公輝はうすうす事情を察しているらしくにやにやして合いの手を入れたが、すぐに真面目な顔に戻った。「で?昨日なにがあったんだよ」

 「だからその、部活が終わったあとにだな…」


 勝呂はサッカー部に所属している。小学校に入る前からボールを追い掛けてきたので実力は同じ二年の部員から頭ひとつ抜きんでており、三年が引退する前からレギュラーの座を確保していた。現キャプテンである。

 ゆうべ練習が終わったあと、新キャプテンとしてプレッシャーを感じている勝呂はひとり残って練習メニューの見直しをしていた。ここ、呉羽市立北高等学校の運動部ははっきり言って強くない。どちらかといえば公輝が部長を務める新聞部のような文科系に活気があるほどだ。自分が部長の間になんとか県大会に出場したいというのがささやかな勝呂の夢だった。いつも惜しいところで南高に敗れているのだが、今年はレギュラー陣も新入部員も逸材が揃っているから、いい線までは確実にいくに違いない…。

 顧問の教師は残念ながらあまり頼れそうになかったので、勝呂は誰もいない部室でひとり考えていた。

 そのとき、部室の扉がノックされたのだ。部員はもちろん、部室に入るのにノックする者はいない。いぶかしく思いながら勝呂は扉を見ていたが、誰も入ってこないので「開いてるよ」と声をかけてみた。

 なおもしばらく間があって、控えめに扉を開けて顔をのぞかせたのはおとなしそうな、これといって特徴のない女生徒──朋江だった。

 もっともその時点で勝呂は朋江の名も知らなかった。雰囲気から多分同級生だろうと見当をつけた程度だ。マネージャー志望だろうか?あまりそういう感じではないが。

 「お話があるんですけど、今いいでしょうか」

 生徒同士の間にしては丁寧過ぎる物言いに勝呂は面食らった。「俺に?」

 「はい、高崎さんに」

 クラスの女子なら呼び捨て、親しくなくてもせいぜい「高崎クン」どまりだというのに、あくまで遠慮がちな態度に勝呂のほうもだんだん緊張してきてしまう。

 「…なに」

 「わたし目立たないから、きっと高崎さんはわたしのこと知らないと思いますけど、六組の辻朋江です。…あの、わたしとつきあってくれませんか」

 控えめな態度とは裏腹に、直接的な言葉だった。このころには多少勝呂のほうも用向きを予想できていたのだが、それでもやはり驚いてしまった。

 「俺?えっ、どうして?」

 「高崎さんのほうは知らなくても、わたしはずっと高崎さんのこと見てました。知らない子にいきなりこんなこと言われても困るとは思いますけど、もし他に好きな子がいなかったら、お願いします」

 どうしても入りたい会社の面接に来た──そんな印象を受けた。どうせ自分のことなど知らないだろうが、という自虐的ともとれる言葉も、実際勝呂は朋江を知らなかったのだから無理はない。開き直ったかのように堂々とした告白だった。おとなしそうではあるが、意外にしっかりしているのかもしれない。勝呂のほうが声を震わせているのが我ながらおかしい。

 「ごめん、俺、悪いけど」

 「…やっぱりわたしじゃ、駄目ですか」

 「あの、そういうことじゃなくて。いるんだよ、他にその…好きな子が」

 「いいんです、気を遣ってくれなくても」

 朋江はひとりで納得して、弱々しく笑った。

 「お邪魔してすみませんでした」

 勝呂が何か言いかけるより先に、朋江は部室から小走りに去った。


 「さすがサッカー部期待の星、モテるじゃん」

 公輝にからかわれ、勝呂は渋い顔をする。「お前に言われると嫌味にしか聞こえねーよ」

 公輝は部員が足りず廃部寸前だった新聞部を救い、それまでは発行されても誰も読まなかった校内報を“ベストセラー”にした切れ者で有名である。長めの髪に知的な顔立ちで、人気は勝呂が張り合えるようなものではないのだ。

 もっとも公輝には松永結という、今は隣のクラスの入学時から付き合っている彼女がいる。文芸部の結は朋江によく似た雰囲気の目立たない子で、見掛けに寄らずこういう彼女をずっと大事にしている公輝だから勝呂の自慢の親友なのだ。

 「でもあれだな、その子自己完結してる感じだよな」

 「ジコカンケツ?」

 「ほら、告白の台詞にしてもさあ、『高崎さんが好きですっ』みたいなノリじゃなくて、もちろんお前のことは好きなんだろうけど、それよりもつきあってもらえるかどうか…それも違うな、つきあってもらえないに決まってる自分なんか、って最初から決めつけてて、ただそれを確認するために告白したみたいっていうか」

 「なにごちゃごちゃ言ってんだよ、俺にはそんな難しいことわかんないよ」

 そう言いながら、勝呂も公輝の言わんとすることがなんとなく理解できる気がしていた。かえって勝呂がいいよつきあおうと答えたら朋江は困ったのではないだろうかという気がする。勝呂に断られて、確かに朋江はほっとしたように見えた。

 「会社の面接に来たみたい、ってお前も感じたんだろ?断ったときに『やっぱり』って言ったんだろ?辻って子は自分ではわかりきってることをわざわざ確認しにきただけだよ。だからたいして緊張もしてなかったんじゃないの。…だからさ、お前とは関係ないよ、今回のことは」

 勝呂は今さらに朋江が行方不明になっていることを思い出した。もとはといえばそれがきっかけで公輝に打ち明け話をしていたのである。

 「慰めてくれてんの?」

 「違うよ馬鹿、本当にそう思ってんだよ。お前も自分に振られたショックで彼女がどうかなったなんてうぬぼれてんじゃねえぞ」

 「うぬぼれね…まあ、そうかもな」

 苦笑いした勝呂を公輝は横目で見る。「それにしても買いかぶられたもんだよな。お前は気を遣って遠回しに断ろうとしたわけでもなんでもないのに」

 勝呂は公輝を軽くにらんだ。視線が流れてつい窓際前方の後ろ姿に向いてしまう。

 好きな子がいるというのは事実だった。今自分の席でひとり本を読んでいる有村奈波とは二年になってからのクラスメートだ。他の女子のように群れることのない奈波は一見朋江や結と同じタイプに思えるが、(朋江のことは知らないが)結のように地味目のグループを作ることさえしない。といって自分から壁を作って閉じこもっているというわけでもなく、ただひとりが好きな生徒として自然にそこにいるのだ。

 公輝に言わせれば「いかにも純情スポーツ少年が憧れそうな」女の子なのだそうだ。ものすごい美少女というわけではないが、色白で小作りな顔はときどき他の女生徒に話しかけられて笑ったりするとはっとするほど華やぐ。

 「隠れファン多そうだしさ、お前同じクラスの特権があるうちに思い切っていけよ」

 公輝に励まされ、というよりそそのかされて、勝呂もなんとか親しくなろうと思ってはいるのだが、騒がしい他の女子とは違い奈波に何を話しかけたらいいのかがわからず、そうこうしているうちに二学期も終わろうとしている。

 (三年も同じクラスになれる確率は少ないんだし、今のうちにせめて気軽に話せる仲くらいにはなりたいよなあ)

 チャイムが鳴り席に着いてからも勝呂は奈波の後ろ姿をぼんやりと見て考えていたが、担任が入ってきて朋江の話を始めるとまた昨日の光景に頭が引き戻された。

 自分のせいだとは思わないし思いたくないが、朋江に何かが起こったことは確かである。 

 最後の最後に関わった勝呂としては、親しい人間に対するような心配もできず、全くの他人のことだと聞き流せるほど冷たくもなれない。

 「…今のところ辻が学校を出たところを見た者はいない。昨日の放課後辻を見かけたり話をした者がいたら申し出てほしい…」

 担任の言葉に勝呂は目を見開いた。今まで考えもしなかったが、勝呂はもしかしたら朋江を見た最後の人間かもしれないのである。思わず助けを求めるように公輝を見ると、公輝も振り返って勝呂を見ていた。

 ──あとで相談しよう。

 公輝と目で言葉をかわすと、勝呂は憂欝な気分で教科書を揃えはじめた。


 「なあ、やっぱり俺名乗り出なきゃまずいかな」

 一時限目が終わり、また窓際で落ち合うと勝呂は声をひそめて聞いた。

 聞かれた公輝は天井に目を向けて考える。「そりゃ名乗り出るべきなんだろうけどさ…そうしたらお前、自分が告白された一部始終を職員室で話さなきゃいけないだろうな」  

 「げっ、やだよ俺そんなの」

 「そうだろうな。おまけに単純なセンセイ方はこう考えるかもしれないしな。『そうか、辻朋江は失恋のショックに耐えかねて家出かもしくは自殺目的で姿を消したに違いない』」

 「やめろよ、それじゃ俺が悪いみたいじゃん」

 「うん。お前の責任じゃないけど、お前が原因だとは思われるだろうな」

 「…でもあのことが原因じゃないんだろ?」

 「俺はそう思ってるけど、みんなもそう思ってくれるとは限らないよ」

 「そんなあ」

 「絶対そうだって!」

 いきなり女子グループから声が飛んできて、勝呂と公輝はびっくりしてそちらを見た。  

 幸い女子グループは勝呂たちの会話を聞いてそう言ったわけではないらしくふたりはほっとしたのだが、その次に聞こえた「まさか辻が…」という言葉で話題が朋江のことだと気付き、そのまま聞き耳をたてる。

 「この歳でそんなことマジで信じてたら馬鹿じゃん」

 「でもあの子ならありえるよ、一年の時だってさあ」

 「だってあの話って」

 「先輩に聞いた時は」

 途切れ途切れにしか聞こえない会話に勝呂がイライラしていると、突然公輝がその女子グループに近付いて声をかけた。

 「それっていなくなった子のこと?」

 割り込んだ公輝に、ひとりの女子が聞き返す。

 「なに、深谷あの子に興味あんの」

 「っていうか、いなくなった理由に興味がある」

 グループ全員がくすくす笑う。

 「そんで記事書くつもり?」

 「そ、取材」

 勝呂は後ろで聞きながら呆れた。“敏腕記者”で有名な公輝は女子生徒の受けがいい。  

 公輝はそれまでの面白味のない校内報を一新して〈今月誕生したカップル〉と校内の交際関係を載せたり、それだけならまだしもその逆の〈今月消滅したカップル〉までどうやって調べるのか記事にした。さらには〈呉羽市グルメマップ〉と称して高校生の小遣いで質量ともに満足できる飲食店を特集したり、〈知られざる素顔〉という、教師から意外な趣味や過去の恋愛の思い出をうまく聞きだしたインタビューなどが受けた。教師たちも本来ならばいい顔はしないところだが、トップクラスの成績の公輝に文句も言えず、それ以上に聞き上手な公輝にかかってはかなわない。今ではインタビューの順番をひそかに待っていると噂があるくらいだ。

 そんな公輝の質問ならば、女子生徒は嬉々として答えてくれる。

 「でもさあ、こんな話記事になんないよ、馬鹿馬鹿しくて」

 「とにかく話してみてよ」

 「本当にくだらないんだよ」

 「いいから」

 「…あのさ、辻は開かずの間の鏡に呑み込まれたんだって」

 「開かずの間?」

 ぽかんとして公輝が聞き返すのと、グループが爆笑するのは同時だった。

 「ほらあ、だからくだらないって言ったじゃん」

 「これじゃ記事になんないっしょー」

 勝呂が思わず口を出した。

 「開かずの間ってなに?」

 女子の間から気安い答えが返ってくる。

 「聞いたことない?旧校舎の奥の部屋の話」

 「旧校舎の奥…ああ」

 公輝は聞いたことがあったらしい。勝呂はそこまで言われてもまるで思い当たることがなかった。

 「たしかあの中に壁に嵌め込みの姿見があって、日没直前に前に立って鏡に触ると吸い込まれる、だっけ?」

 「なんだそれ?お前なんでそんなこと知ってんの」

 思わず聞いた勝呂に、公輝は肩をすくめた。「入学したとき先輩に教わったんだよ」

 「えーでもそれ、あたしが聞いた話とちょっと違う」

 女子生徒のひとりが言った。

 「彼氏が言ってたのは、真夜中ちょうどに行くと鏡を通り抜けることができて、代わりに鏡の中の自分がこっちに出てきて入れ替わっちゃう、だったと思う」

 「あたしは友達に、誰にも見られずあの鏡の前に立つと、自分の未来の姿が見られるって聞いたけどな」

 「未来ってどの時点の未来よ。ババアになった自分の姿なんて見たかないじゃん」

 話が逸れかけたので、公輝が急いで口を挟む。

 「まあこういう話はヴァリエーションがたくさんできるもんだからね。…それで、辻って子はどの話を信じて開かずの間に出かけたんだと思う?」

 「未来の姿じゃないことは確か」

 ひとりが小馬鹿にしたように言う。

 「あたしあの子と一年の時同じクラスだったんだよね。いつも言ってたもん。あたしはこの世界より鏡の中の世界のほうが合ってる気がする、ってね」

 「なにそれー?行ったことあるみたいじゃん」

 笑い声が響くなか、勝呂は昨日の朋江の様子を思い浮かべていた。鏡の中の世界に憧れていた朋江は、何を思って勝呂に告白したのだろうか。

 「でもさ、あたし今朝センセイたちが旧校舎でなんか調べてんの見たんだよね」

 「ほんと?」

 公輝に見つめられて、女子生徒がちょっと身をひく。「うん、しかも奥のほう。あの部屋ってふだん鍵閉まってるじゃん?だからあそこが開けられてたんじゃないかって、それでこんな話してたんだけど」

 女子グループから離れると、公輝は勝呂に囁きかけた。

 「六組に話聞きにいこうぜ」

 「六組まで?」

 「同じクラスの子のほうが詳しいだろ」

 「おい、お前まさか本当に辻朋江のこと記事に書くつもりか」

 「まさか。だいいち顧問に差し止められるに決まってる」それもそうだ。新聞部の顧問は話のわかる女教師で公輝の好きにさせてくれているが、さすがに現実に失踪している生徒の話題を面白おかしく書き立てることを許してはくれまい。勝呂が首をかしげていると公輝がにっと笑う。

 「でもさっきの伝説のほうはネタになるかもな。呉北高の七不思議特集ってね」

 「一個しかないじゃないか」

 「女子に聞き込めば七つくらいあっという間に出てくるさ。夏の号に載せたほうがいいかな。…それはともかくとして、やっぱり気になるだろ?辻のこと」

 「まあな。でも俺たちで調べられるようなことじゃないだろ」

 「やるだけやってみようぜ。お前が名乗り出るのはあとからでも遅くないよ。どうせ辻のその後についての情報はないんだし、話の内容が内容だから多少名乗りを上げるのが遅くたってわかってもらえるだろ」

 公輝に言われ、勝呂は曖昧にうなずいた。教師たちの前で昨日の出来事を語る気にはまだなれなかったし、だからといって何もせずにいるのも気が咎めたからだ。


 六組は遠いので、二人は昼休みを待って“取材”に出かけた。公輝は伝説を記事にすることを本気で考えているらしく、それを取っ掛かりに辻朋江についても話を聞こうというつもりのようだ。勝呂は既に公輝について行くだけの立場にあった。

 もっともらしくノートを広げて(実際それは公輝の取材メモだった)声をかけてきた公輝のことを六組の女生徒は知っていた。

 「呉北七不思議?ひとつだけ知ってるけどー」

 「どんなの?」

 「あのね、大昔に校内に入り込んで遊んでた女の子がいたんだって。五歳か六歳か、そのくらいの小さい子で、その子が変質者かなんかに殺されて校庭のどっかに埋められちゃって、今でも夜になると子供の泣き声が聞こえるとか」

 真面目な顔でメモを取る公輝の後ろで勝呂は複雑な表情をした。勝呂自身は七不思議など聞いたことがなかったのだが、女の子たちの間ではまことしやかにこうした噂が流れているのだ。話を聞いている間にも周りからそれ知ってる、やらそうじゃなくってこうだよ、といった声が飛んでくる。

 他にも音楽室のピアノが勝手に幻想即興曲を奏でるだの、東階段の三階部分は上り下りするごとに段数が変わるだの、小学校の頃に聞いた怪談話のようなものが次々と出てきた。

 「でもやっぱいちばん盛り上がるのが“ヒイロさん”の話だよね」

 ひととおり出尽くしたあと(この時点で七つをゆうに超えていた)、女生徒のひとりがこう言い出した。

 「ヒイロさん?それはどんな話?」

 例によって周囲の女生徒はみんな知っているらしい。くすくす笑う声がさざ波のように広がる。まるでこの話をトリに持ってくるために、今まで誰も言いださなかったかのようだと勝呂は思う。

 「えーとねえ、何年かに一回現れる人なのね。必ず女の子で、普通の女生徒に混ざってちゃんと学校に来てるの。たいていが可愛かったり頭良かったりしてわりと目立つ生徒で、友達もいっぱいいるのに、卒業してからヒイロさんの同級生が連絡を取ろうとしてもそんな生徒は存在しなかったことになってるってわけ」

 「え?でもそんだけ目立つ人なんでしょ?」

 勝呂が混乱して聞くと、説明していた女生徒とは別のほうから返事がかえってきた。

 「だから、みんなが覚えてるのに記録には残ってないの。それで初めてその人がヒイロさんってことに気付くわけよ」

 その説明は勝呂にはさっぱりわからなかったが、公輝は女の子のとりとめのない話し方に慣れているのか、簡単に呑み込んだようだ。

 「つまり座敷わらしの別ヴァージョンみたいなもんか」

 「そう、だから今もいるかもしれないんだよね。二年か三年か…一年か」

 女子たちは意味ありげに視線を絡ませている。どうも勝呂にはこのあたりのニュアンスが理解できない。

 「ふーん、一年にヒイロさん候補がいるわけだ」

 公輝のほうは女子の間の空気を的確に読み取っている。「この話がいちばん盛り上がるっていうのは、新入生にそれらしい子がいたからなんだろ?」

 「なんでそんなのわかるんだよ。いる間はわからないんじゃないの?」

 ついていけず勝呂が聞くと、またもや女生徒のひとりが答える。

 「いかにもそれっぽい子がいるってことだってば。深谷くんはわかってるんじゃないの?誰のことか」

 「うん、確かに言われてみればそういう感じだよね、あの子。神秘的だし、目立つし。友達が多いかどうかは疑問だけど」

 「友達の数より、どれだけみんなが記憶してるかってのが大事なんじゃない?」

 何がどう大事なのかはわからなかったが、少なくとも勝呂にも公輝と女子たちが名前を出さずに噂している生徒の正体は予想がついた。だがいくら妙な伝説に似合うからといって、現実に通っている生徒を無理矢理当てはめることよりも他に聞くべきことがある。

 勝呂につつかれて、公輝はやっと本題に入った。

 「それよりさ、他のクラスで聞いたときに出てきた話なんだけど、旧校舎の鏡の話は知らないの?」

 そのとたん、あれほど騒がしかった女生徒たちの声が完全に途切れて、勝呂はその効果に驚いた。

 やがてひとりがいくぶん抑えた声で言う。「今朝はその話でもちきりだったんだよね」

 「今朝?なんで」

 しらばっくれて公輝が聞く。

 「ほら、うちのクラスの子が行方不明になったじゃん?あれがもしかしたらそうなんじゃないかって」

 このクラスでも朋江の事件は伝説と結び付けられていたのだ。公輝の取材で、今まで誰もこの話を持ち出さなかったのもそのせいだったらしい。

 「それって、そのいなくなった子が鏡に入っちゃったってこと?」

 「誰も本気でそんなこと言ってるわけじゃないんだけどさ。辻がよくその話してたんだよね。あたしがじゃあ試してみればって笑ったらそのつもりだって言い切ったし。こっちの世界になんの未練もなくなったらすぐにでも行ってやるって」

 勝呂は顔をこわばらせた。自分に振られて、この世界になにも未練がなくなったのだろうか。自分は朋江がこちらの世界に踏みとどまる最後のチャンスだったのだろうか。

 (『こちらの世界に未練がない』ってのは俺からすれば『この世に未練がない』のと同じに思える…)

 女生徒に気付かれない程度に勝呂の肩を軽く叩くと、公輝は質問を続けた。

 「ちなみにこのクラスではどういうヴァージョンが流れてるわけ?さっきはいろいろ違う話聞かされて混乱したんだけどさ」

 そこでかわるがわる披露された話はどれも少しずつ細部が違っていて、全体には勝呂たちのクラスの女生徒が話していたものと印象が変わらなかった。公輝はいちいちうなずきながら、肝心な質問をさりげなく投げかける。

 「…で、いなくなった子はどういう話を信じてたか知ってる?」

 勝呂はこころもち青ざめた表情で女生徒を見回した。つねづね鏡の向こうに行きたいと語っていたのなら、朋江は“あちらの世界”になにかしらプラスのイメージを持っていたに違いない。

 案の定、朋江に話を聞かされたという女生徒はこう言った。

 「確かこんなんだったよ。…夕暮れに誰にも見られないように開かずの間に入って鏡の前に立つ。それから鏡に映った自分を見つめて強く念じる。そしてそのまま鏡に触れると向こう側に行けて、あっちには選ばれた子たちが歳もとらず死ぬこともなく永遠に生き続けている楽園があるんだってさ。そこに入るべき子はこっちの世界では孤独だったけど、向こうでは仲間と一緒にいつまでも幸せに暮らしました、ってわけ」

 「ばっかみたい」輪のなかのひとりが吐き捨てるように言った。「そんなの聞いたこともない。いろんな話の都合のいいとこばっかつなげて勝手に憧れてたんじゃないの」

 「辻が選ばれた子?」別のひとりが嘲る。「いったいどういう点で『選ばれ』るわけ?」

 「あの子に言わせると、一見なんでもない自分みたいなのが実は特別なんだって。ほら、あの子の読んでるマンガとか小説とか、みんな平凡な女子高生が実はどっかの国の王女だったとかすごい超能力に目覚めるとかそんなんばっかだったじゃん」

 「すごい強引だよねー。平凡なのが特別な証、なんてさ。やっぱり自分に都合のいいようになんでも解釈しちゃってるわけだ」

 「なんか家族が嫌いだって聞いたことあるよ。あたしは本来ならこんな家で育つような身分じゃないのよ、とか思ってたんじゃない」

 いつのまにか朋江への悪意に満ちた言葉があふれていた。家族のことや伝説への憧れを話していたのだからもともとは仲の悪かったわけもないのに、内心ではみんな朋江を馬鹿にしていたのかと思うと勝呂は気分が悪くなった。

 そんな勝呂の表情に気付いたのか公輝がじっと聞いていることを思い出したのか、女生徒のひとりが取って付けたように言った。

 「辻のことならあたしたちより深谷の彼女のほうが詳しいんじゃないの」

 「結が?なんで」

 公輝が本当に驚いて聞き返す。

 「だってあの子文芸部員だったもん。あんたの彼女、確か文芸部じゃなかった?」


 「うん、そうだよ。でもあんまり話したことないんだ」

 六組をあとにして、勝呂と公輝は二組に向かった。結は公輝の質問にあっさり答え、でもなんで?と逆に聞いてきた。

 公輝が勝呂を見る。勝呂はうなずいた。結は素直な性格で公輝に惚れ込んでおり、公輝の親友である勝呂とも仲がいい。結なら信用できると思った。

 事情を聞いて結が目を丸くする。

 「へえ、勝呂くんモテるんだ」

 「やめろよ」

 「でも気にすることないと思うよ。勝呂くんのせいじゃないって」

 生真面目な結は頭ふたつぶんほども高い勝呂を見上げて、気の毒そうに言った。

 「それはともかく、お前から見てどんな子だった?辻って」

 公輝の問いに結は首をかしげた。「そうだなあ…。うちって部員全部合わせてもひとけたの弱小クラブだから、わりとみんな仲いいほうだと思うんだけど、辻さんはちょっと浮いてた。部活ではたいていファンタジー小説かなにか読んでて、文集の締め切り前になるとぶ厚い小説出してくるの」

 「ふーん、小説書いてたんだ」

 「うんでもね、分量が多過ぎて一度に載せられないのね。それで連載形式にして毎号少しずつ載ってるんだけど、全然終わらない」

 今度読んでみる?と聞かれ、勝呂がためらっている間に公輝がぜひと答えた。

 「それで、テルのほうはその噂話の特集、本当に作るの?」

 結は公輝をテルと呼ぶ。聞かれた公輝はうなずいた。「これだけ話聞いたら作らなきゃもったいないじゃんか。最初は口実半分だったけど、ちょうど来月分のネタが足りなかったしちょうどいいや」

 「あたしも聞いたことあるよ、そういうの。でも辻さんが言ってたっていう向こうが楽園みたいな世界だってのは知らない」

 「他の子もそう言ってた」勝呂は六組の女生徒たちの朋江に対する悪口を思い出して沈んだ声になった。

 「オリジナルはどんな話だったんだろうね」

 「さあな。今いる生徒が知らないのは間違いないと思うけど」

 結がちょっと考えて、公輝を手招きした。仲間外れにされた勝呂は結の囁きに目を輝かせた公輝を見て、なぜか居心地が悪くなったのだった。

 その理由は自分たちの教室に戻るときに明らかになった。公輝は勝呂の耳元で、まるで結からつづく伝言ゲームのようにこう囁いたのだ。

 「おまえ、有村に協力頼んでこい」

 「あっ、有村に?なんでだよ」

 「お前は俺に頼まれて学校の噂について調べてる。今流れてる噂が数年前にはどういう話だったのか、どう変化したのかを知りたいと思ってるところだ」

 「ところだ、って言われても…。それが有村とどういう関係がある」

 「有村にはみっつ上の姉さんがいるんだよ。ここの卒業生の」

 「…なんでそんなこと知ってるんだ?」

 「結の兄貴は有村の姉さんと同級だったのさ」

 結も勝呂が奈波を好きなことを知っている。奈波の姉のことを思い出した結が勝呂にチャンスを与えてやろうと提案したのだろう。

 「もちろん辻のことを話す必要はないからな、新聞部のためにしっかり頑張ってくれ」  

 公輝に肩を叩かれ、勝呂は引きつった顔で笑った。嬉しいには違いない。だが朋江のことから始まった話を奈波への口実に使うことに、少しばかり罪悪感が芽生える。

 (こちらの世界では孤独、か)

 朋江が話していたという内容を思い出す。朋江は友達がひとりもいないわけではなかった。いろいろ話をする相手がいて、だが結局わかってもらえていなかった。それはやはり孤独だということかもしれない。うわべの友達しかおらず、家族を嫌っていたなら、勝呂に失恋したときこの世界への未練が本当になくなっていたのかもしれなかった。

 教室に入り、誰も自分のほうに注意を向けていないことを神経質に確かめると、勝呂は深呼吸して奈波の席に近づいた。既にほとんどが昼食を終えているなか、奈波も弁当箱を片付けて今朝読んでいた本の続きにかかっているようだ。

 「有村、ちょっといいかな」

 奈波がびっくりしたような目で机の前に立った勝呂を見た。話し掛けられたのも不思議なら話し掛けたのが勝呂であることも意外といった感じだ。勝呂は読書の邪魔をして悪いといった意味のことをぼそぼそと呟くと、公輝に吹き込まれた内容を忠実に話し始めた。

 「…そうなんだ。じゃお姉ちゃんにそういう噂が昔もあったかどうか、聞いてみればいいの?」

 「うん、悪いけど頼める?」

 「いいよ。でもお姉ちゃん最近朝も夜も遅いから、あんまり顔合わせてないの。今日すぐ聞けるかわからないけどいい?」

 「もちろん、いつでもいいよ。わかったら俺に」言いかけて自分が公輝の助手という立場をとっていることを思い出す。「…か、公輝に教えて」

 「わかった。面白そうな調査だね。頑張ってね」

 (…普通の女の子だ)

 知らぬ間に固まっていた身体を自分の席でほぐしながら勝呂は考えた。自分から話をすることはなくても、話しかければちゃんと答えるし、答え方もにこにこと感じがいい。最後は励ましてさえくれた。

 しぜんに表情がゆるむ。公輝が寄ってきて何か言いかけ、勝呂の顔を見ると「聞くまでもないな」と笑った。

 勝呂は奈波との会話を一言一句たがわず公輝に伝える。

 「それだけ?」

 「それだけって?」

 「面白そう、って言ったんだろ。相手が興味持ったんならそこから話を広げてもっと盛り上がれよ。最小限のことしか話してこなかったとはな…いっそ有村も調査隊に加えるのはどうだ」

 「な、なに言ってんだよ」

 公輝は聞いていない。「うん、それいいな。姉さんから聞いた結果を伝えにきたらさりげなく勧誘するんだ。まだ遅くないぞ、勝呂」

 「あのな」

 勝呂が言い返そうとしたとき、廊下の奥から甲高い女生徒の声が上がった。

 伝染するように勝呂たちの教室のそばまでざわめきが近づいてくる。何事かと廊下に出てみても、勝呂と公輝が見るかぎり何も変わったことはなく、ただあちこちで女子が固まってきゃあきゃあと騒ぎ立てていた。

 不思議に思いながら様子を見ていると、結が隣の教室から出てきた。勝呂たちを見つけて駆け寄ってくる。

 「聞いた?」

 不安そうな表情で結は公輝を見た。

 「なにを」

 「六組でね、女の子たちが辻さんの噂してたらしいんだけど」

 先ほどの悪口大会はまだ続いていたのか、と勝呂は呆れた。公輝も同じことを考えたらしい。

 「それなら俺たちも聞かされたよ。で、それがどうかしたのか」

 「そしたら…辻さんの幽霊が出てきたんだって。その場にいた全員がはっきり見たって」

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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