第3章 訪問
診療所の朝は、いつもと変わらぬ静寂に包まれていた。空にはまだ朝霧が薄く残り、街の喧騒も遠く、鳥のさえずりと薬草をすり潰す音だけが室内に響いていた。スペスは机に並べた乾燥ハーブを慎重に選別し、ヘクターの指導のもと、その日必要な調合を進めていた。
診療所の中は、木の香りがほのかに漂う静謐な空間だった。部屋の中央には頑丈な木製の調合台があり、その上には大小さまざまな瓶や乳鉢、計量器具が整然と並べられている。棚には乾燥させた薬草の束が吊るされ、ガラス瓶には細かく刻まれたハーブや希少な鉱石が収められていた。壁際には診療用のベッドが二つ置かれ、白い布が清潔に敷かれている。ランプがゆっくりと揺れる柔らかな光を放ち、部屋全体を穏やかな暖色で包み込んでいた。
「アンチドテゥンの葉は、こうやって細かく砕いて……」
そう独り言を呟きながら、小さな乳鉢の中でハーブをすり潰していると、診療所の扉が軽やかにノックされた。
「はい、どなた?」
スペスが顔を上げると、扉の向こうには見慣れた少女の姿があった。焼きたてのパンの香ばしい匂いをまとわせ、エプロンの裾には小麦粉の跡がついている。
「おはよう、スペス。突然だけど、会いに来ちゃった。」
パン屋の娘、オーロラだった。彼女はスペスと同じ年頃の6歳で、小柄ながらも活発な雰囲気を漂わせていた。太陽のように輝く素敵な笑顔を浮かべ、その明るさが部屋全体を照らすかのようだった。彼女の髪は凛とした艶を持ち、ふんわりと肩にかかるほどの長さがあり、動くたびに柔らかく揺れていた。瞳は透き通るような琥珀色で、まるで陽の光を閉じ込めたような輝きを放っていた。
「オーロラ!来てくれて嬉しいよ。」
スペスは驚きつつも喜び、彼女を診療所の中へと招き入れた。
「おはようございます、ヘクターさん。」
オーロラは薬の調合をしていたヘクターに挨拶をした。
「おはようございます、オーロラ。今日もおいしいパンを持ってくれてありがとうございます。」
ヘクターは手を止め、静かに微笑みながらオーロラの手元の小さな包みに目を向けた。「きっとベニシオ先生も喜ぶでしょう。」そう言いながら、彼は器用な手つきで薬草を計量し続けた。
「スペス君、今日は何を作っていたの?」
「ふふん、今日は『アンチドテゥン』の調合をしていたんだ!この草は毒を抜く効果があるんだよ。僕ももう立派な助手だからね!」
自慢げに語るスペスの様子を、ヘクターは静かに見守っていた。彼は特に口を挟むことはなく、むしろスペスの自信に満ちた言葉に楽しげに耳を傾けていた。
「そうね、スペスはいつも一生懸命だものね。」オーロラはにっこりと微笑みながら、彼の言葉に頷いた。
「そうだよ!この前は初めて『ヒール』の魔法を成功させたんだ!小さな傷だったけど、ちゃんと治せたんだよ。」
スペスが熱心に語ると、ヘクターは乳鉢をすり潰す手を止めずに小さく頷いた。「それは素晴らしいことですね。魔法は繊細なものですが、君ならきっと上達も早いでしょう。」
オーロラは感心したように目を輝かせ、「すごい!本当に魔法使いになってきたのね。」と嬉しそうに言った。
スペスの話に耳を傾けながら、ヘクターはふと目を細めた。彼は、こうしてスペスが自信を持って話す姿を見るのが何よりも好きだった。成長を間近で感じられるのは、何とも言えない満足感を与えてくれるのだ。
「ふふ、スペス君はおしゃべりが上手になりましたね。」
「えへへ、そうかな?」
診療所の中には、温かい笑い声が静かに広がっていった。
「ねぇ、スペス。お昼休みに一緒に市場を散策しない?」
スペスは嬉しそうに頷いたが、すぐにベニシオの許可を得るために彼のもとへ向かった。
ベニシオは診療所の後ろにある中庭にいた。そこには、様々なハーブや花が植えられ、手入れの行き届いた畝が幾重にも並んでいた。ローズマリーやラベンダーの香りが微風に乗って漂い、陽光に照らされたミントの葉が露を弾いてきらめいている。中央には古びた木製の作業台があり、乾燥中の薬草が束ねられて掛けられていた。
ベニシオは手慣れた動きで土をならし、成長具合を確かめながら、摘み取るべき葉を選んでいた。彼の横には小さな木箱があり、そこにはすでに数種類の薬草が丁寧に仕分けられていた。時折、彼は目を細めながら葉の香りを確かめ、手のひらでやさしく擦り合わせて成分を確認していた。
「ふむ、そろそろ収穫の時期か……」
彼は独り言を漏らしながら、小さな鋏を取り出し、慎重にカモミールの花を摘み取った。それを手のひらにのせ、しばらく観察してから、満足げに木箱へと収める。その仕草には長年の経験と、薬草に対する深い愛情が滲み出ていた。
「じいちゃん、昼にオーロラと市場を回ってもいい?」
スペスが扉を開け突然聞いてきた。 ベニシオはパイプをくわえながら考え、やがて微笑んで答えた。
「うむ、よかろう。ただし、夕方には薬草の実験がある。日が沈む前には戻るのだぞ。」
「はい、ありがとうございます!」
スペスは喜び、オーロラに許可が下りたことを伝えた。オーロラは微笑み、「じゃあ、またお昼にね」と言い残して診療所を後にした。
オーロラが去った後、スペスは日課に戻った。ヘクターの指導のもと、薬草や病に関する学びを深めていく。ヘクターは各種の薬草の効能や、特定の病状に対する対処法を丁寧に教えてくれた。
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診療所の扉が重々しく開き、朝の静けさを破るように足音が響いた。そこに立っていたのは、長旅の疲れを感じさせない、清潔な身なりの男だった。
彼は昨日町に入り、宿屋で一晩を過ごしたためか、旅人特有の埃っぽさはなく、服装も整っていた。淡い茶色の長いコートを羽織り、腰には商人らしい革製の小袋を下げている。肩には大きな荷を担いでいたが、体の動きには無駄がなく、鍛えられた者の身のこなしだった。
「定期検査を頼みたいんだが……」
彼の声は低く、しかし響きのある声だった。穏やかではあるが、どこか隠しきれぬ警戒心が感じられる。
「どうぞ、こちらへ。」
ヘクターが指し示した診察台に、旅人――ディーランは迷うことなく腰を下ろした。彼はどこか商人の気質を漂わせ、軽妙な口調を持ちつつも、時折周囲に視線を走らせる癖があった。
「ここは安いんだな。昨日、銀貨一枚で診てもらえると聞いて驚いたよ。」
「この診療所は民のためのものですからね。」
ヘクターは淡々と返しながら、ディーランの腕を取り、慎重に検査を始めた。彼の肌には旅人特有の軽い日焼けが見られたが、筋肉は引き締まり、体調そのものは悪くなさそうだった。
「では、少し血を抜きます。」
ディーランは軽く頷き、何も言わずに腕を差し出した。ヘクターは手際よく細い針を刺し、小さなガラス瓶に血液を採取する。
「これから、少し魔法をかけます。違和感を感じることがあれば、すぐに言ってください。」
ヘクターが静かに呪文を唱えると、瓶の中の血液が淡く輝き始めた。光が揺らめきながら血の中に浸透し、その色がわずかに変化する。
「魔力の乱れが見られますね……」
ヘクターは冷静に記録表へと手を伸ばし、結果を書き込んでいく。その横で、ベニシオは観察記録をつけながら、ディーランの話に耳を傾けていた。
スペスは診察の様子を興味津々に見つめていた。旅人という存在に憧れを持っている彼にとって、ディーランの話す一言一言が刺激的に感じられた。
「旅ってどんな感じなの?」
スペスが思い切って聞くと、ディーランは微笑みながら答えた。
「いいもんさ。朝日が昇るのを見ながら道を歩き、時には見たこともない風景を目にする。食べたことのない料理、会ったことのない人々……すべてが新しい経験になる。」
「すごいなぁ……」
スペスは目を輝かせながらディーランの話を聞いていた。彼の無邪気な反応に、ディーランも少し楽しげな表情を浮かべた。
「今度また診療所に来たときに、いろんな話を聞かせてやるよ。約束だ。」
「本当!?楽しみにしてる!」
スペスの満面の笑みに、ディーランは軽く肩をすくめた。
ヘクターは記録表に最後の確認をし、診察を終えた。
「体調に大きな問題はありませんが、魔力の乱れが気になります。しばらくは激しい行動を控え、体調を整えるようにしてください。」
「わかったよ、旦那。助かった。」
ディーランは銀貨を一枚取り出し、机の上に置いた。
「これでいいんだな?」
「ええ、確かに。」ヘクターは銀貨を受け取り、微かに頷いた。
ディーランは立ち上がり、何かを思い出すかのように扉の外を見やりながら言った。
「ああ、旦那は外に行く予定ってある?」
ベニシオは少し驚いたが、すぐ答えた。
「わしはないが、ヘクターはいる。」
「いや、特に深い意味はないんな。よくしてくれたからいい情報を伝えてあげようかと。最近は、魔物が活発になっていて、道でよく遭遇している。スライムといった無害なものばかりだが、本来この国の歩道周囲50メートルは魔除けのルーンが刻まれている。それなのに、なぜか最近は……」
ベニチオは、旅人の話に熱心に耳を傾けた。最初は少し警戒していたが、すぐに無表情に変わった。何が起こっているのか、わかっていたようだった。
「まあ、この近くじゃ、全く遭遇していないしその問題がなさそうが、気をつけなよ、旦那たち。」
そう言い残し、ディーランは診療所を後にした。
ベニシオは彼の背中を見送ると、静かに呟いた。
「青く光る火山草の出現とルーンの枯渇か」
彼の顔から光が消え、視線に心配の色が見えた。ヘクターも旅人の言葉を聞いて、目に見えて動揺していた。一方、スペースは通常の仕事をしており、旅人が言ったことに気づいていないようだった。
空気が重くなったのはほんの一瞬だった。
ディーランが去った後、診療所には絶え間なく患者が訪れた。農作業中に怪我をした男、体調を崩した女性、子供の咳が治まらないと心配する母親――それぞれの症状を確認しながら、ベニシオ、ヘクター、そしてスペスの三人は連携し、治療を行った。
ヘクターは診察を担当し、患者の状態を的確に見極めて薬を調合した。ベニシオは薬草の知識を駆使し、必要な調合を指示しながら、患者へ適切なアドバイスを与えた。そしてスペスも助手として、診療の手伝いや簡単な薬の準備をこなしながら、学びを深めていった。
気がつけば、忙しい午前の診療はあっという間に過ぎ、診療所の時計が正午を告げた。
「ふぅ……思ったより忙しかったな。」
スペスが額の汗を拭いながら呟くと、ヘクターは静かに頷いた。
「こういう日もあります。さて、そろそろ昼食ですね。」
「僕、オーロラと市場に行く約束してるんだ!」
スペスは嬉しそうに声を弾ませ、エプロンを外すと、診療所の扉へと向かった。
「夕方には戻るんじゃぞ。」
ベニシオの声を背に受けながら、スペスは元気よく診療所を飛び出していった。
ヘクターは小さく頷いたが、その目には憂いが浮かんでいた。
「子どもの成長は早いですね。」
ヘクターが言った。
「そうじゃな。魔法もろくに打てなかったのが昨日のように思える。今はすっかりこの診療所の一員としての知識と自覚を持っている。魔法の成長も早い…恐ろしいほどに。」
診療所は沈黙に包まれた。重苦しい雰囲気に包まれ、旅行者からの情報と相まって、2人の表情は明らかに不安げだった。
「それでも、彼はさらに強くならなきゃいけない……自分自身のために。」