アッチェレランド
♪1
好きな人が人を殺そうとしてたら、止めるのは当たり前だろう。
「ライアン離して! 何で止めるの! 絶対にあの人を殺してやるんだから!」
「落ち着いてください! ここで人殺したら夢と一緒に監獄行きですって!」
貴族の屋敷にて、とある父と娘が夕食の机を挟み、大喧嘩を展開中。
その家の用心棒として雇われていたライアンは、食事用のナイフを父親に投げつけようとした公女ルーナの手を必死に抑えていた。
「どいつもこいつも勝手に女の幸せを決めつけるんだから!」
そんなルーナに対して、彼女の父であるレイン男爵はライアンに命じた。
「ライアン、ルーナをしっかり押さえておけ!」
しかし、暴れる華奢なルーナを痛くないように抑えるのは一苦労だった。力加減がわからない。ライアンは全神経を注いで、ルーナが痛くない程度で抑えた。なのに、レイン男爵は火に油を注ぐかのような勢いで口を止めない。頼むから黙ってくれと願うばかりだ。
「全く花嫁学校に行かず今まで音楽学校に通っていたとはな! それに男装までして!」
「音楽作家になりたいの! それに男に嫁ぐぐらいなら死んだ方がましよ!」
するとレイン男爵の隣に座っていた男爵夫人、ルーナの母親が口を開いた。。
「何を言ってるのルーナ。女が音楽作家なんて無理な話。女は男に嫁いで子供を産むのが一番の幸せなのよ……ああ……娘が男装をしてたなんて、私恥ずかしいわ……」
夫人はおでこに手を当てて、今にも倒れそうだ。
「お母様下手な芝居はやめて! お母様の語る幸福像なんて反吐が出るわ!」
「反吐……ルーナ! 女の子なんですから言葉遣いに気をつけなさい!」
しかし、ルーナは聞こえないふりをして、ライアンに抑え込まれながらも主張した。
「私は音楽作家になるのが夢なの、それにハンナの無念を晴らさなきゃ!」
レイン男爵は右眉をピクっと上げた。
「ハンナ? ああ、自殺したお前のピアノの先生か。なんの無念だと言うのだ」
「女でも男に負けない最高の音楽を作れるっていうこと!」
「戯言はやめろ! 女が男に勝てるわけがない! 現に女の音楽作家なんていないだろ」
「女が男に勝てないなんて肉体的な話でしょ! 感性なら女も男もそれぞれ個性があって優劣もないはず! 男がいつまでも女を無下に差別などするから女性は自信をなくして力を発揮できないの! 差別をしてて恥ずかしいと思わないの? 同じ人間なのに!」
「例外が無いと言ってるんだ!」
「だったら私が例外になってやるわ!」
徐々に激しさを増す親子喧嘩。埒が明かないと思ったのか、レイン男爵は再びライアンに命じた。
「はあ、これはいかんな。ライアン、精神科の医者を呼ぶまでルーナを部屋に閉じ込めろ。そもそも女が芸術で男を上回るなんぞ愚かしいことなんだ。聖書にも書いてあるだろ。女は男のために作られたんだと。男を支え、楽しませ、子供を産むのが女の役割だ」
「もうここはエデンじゃないのよ! どうしてわからないの!」
懐で暴れるルーナの力が徐々に強くなっていく。
「私は夢に生かされてるの! 夢がなきゃ生きていられないの! どうして夢を奪い取って殺そうとするの!」
ライアンはもう見ていられないと、ルーナを抱え上げた。
「ちょっと下ろしてライアン! まだ終わってないわ!」
「ルーナお嬢様を部屋までお届けします」
「はあ、そうしてくれ。ああ、頭が痛い」
最悪の雰囲気から脱出しようと、ライアンは強引にルーナを部屋まで連れて行った。
ルーナを下ろすと、彼女は怒りの感情に任せて部屋のあらゆる物品を壊して行った。そして、落ち着いたかと思いきや、今度は声をしゃくりあげながら泣き始める。
「お母様もお父様も……ふっ……結果があれば認めてくれると思ってたのに……なんであんなに否定的なの……言わなきゃよかった……」
ルーナはネックレスを乱暴に引きちぎり、床に叩きつける。
「なんで……ひぐっ……なんで誰もわかってくれないのよぉ……!」
そう掠れた声で後悔するルーナを見て、ライアンは我慢の糸を切らした。好きな人が苦しんでる姿には耐えられないと。
「俺はわかってますよ」
ライアンはルーナの部屋のクローゼットから鞄を取り出し、片っ端から服や生活用品をバッグに詰め込んでいった。
「ライアン……? 何してるの……?」
「荷造りです。ルーナ、この家出ちゃいましょう」
「え?」
駆け落ちしましょうとは言えなかった。自分がルーナを好きでも、ルーナは恋愛を邪魔だと考え、夢を掴むことに無我夢中だから。
「俺もルーナに音楽作家になってもらいたいです。それに音楽学校で男装がバレないようにルーナに男の仕草など指導したのは俺ですし、せっかく主席で卒業したのに、ここで終わってほしくないです。……ハンナの意志を無視するんですか?」
最初、ルーナはぽかんとしていた。しかし、すぐに目の色を変えて
「無視できるわけないじゃん!」と、一緒に荷造りを始めた。
泣いた名残の鼻声でルーナは言った。
「言い出したのライアンなんだからね! もちろん一緒に来るでしょ」
「そのつもりですよ。俺、ルーナの音楽が好きですから。それに用心棒にするってスラム街の俺をここに招いたのルーナじゃないですか。その時から俺はルーナと一緒にいるって決めてますよ」
ルーナはドレスの袖で涙をゴシゴシッと拭いた。
「そうだった。こんな頼もしい用心棒がいるんなら、もっと早く出ていけばよかった」
荷造りを適当に済ますと、ルーナは鞄を持って「行こう!」と立ち上がった。
「はい! あ、でも俺たちまず何からするべきですかね?」
「大丈夫。主席で卒業したんだから、もうツテがあるの」
「ツテ?」
「無名のオーケストラなんだけど」
「無名? ルーナならもっと名高いとこに行けるでしょ」
「聞いて。奏者は最高なの。だけど、指揮者がいい加減に棒を振るってるから、音もいい加減なのよ。つまり、私がそこの指揮者になれば、必ず最高の音楽が生まれるってわけよ」
「なるほど……さすが天才音楽作家」
「当たり前でしょ」
ライアンは部屋の窓を開けて、その前でしゃがんだ。ルーナもライアンの背に乗って、首元に両手を絡める。
「しっかり掴まってて下さいよ」
「いつも掴まってるよ!」
このように窓から家を出たのは、実は初めてじゃない。何度も家を出て、街へ遊びに出かけるのは昔から日常茶飯事だった。だから家出に躊躇は無かった。
つくづく自分は狡い人間だ。彼女の夢や彼女が果たしたいハンナの無念を利用して二人になることを選択させるなんて。ライアンはルーナに本心を伝えるつもりはなかった。きっと迷惑だと思われそうだったから。そんなもどかしい恋心を抱きながら、その日の夜、ルーナと共に新しい人生への第一歩を踏み出した。
♪2
3年後。
褐色のライトに照らされるホールの舞台上で、ルーナは指揮棒を振り、ライアン直伝の男の喋り方で奏者に指導していた。
「そこ。5小節目の16分音符のところ。揃ってない。テンポ80だからそんな焦らなくていい。タンキングをしっかりして、音の粒を合わせろ。そこがだらしないと流れも終わりもだらしなくなる。集中しろ」
「「「はい! ジェニ楽長!」」」
ルーナはジェニという男の名を使い音楽作家として無名オーケストラの楽長になった。もちろん男装をして。男尊女卑の世の中、女が指揮者になることは非常識だったので、問題を起こさないために必要なことだった。
ライアンは変わらず用心棒として観客席からルーナの夢へ向かう姿を見守っていた。
今まで何もかも順調にことが進んでいた。
しかし、この時が来たかのように波乱の予感が生まれる。
「ジェニさんの音楽って……なんか物足りないですよね」
そう言ったのは、新しくオーケストラに加わったピアニストのオリヴァーだった。
彼はルーナと同い年で、今年から別のオーケストラから移籍してきた者だ。加入して初日なのに、かなり堂々としている。確かルーナが言っていた。新しく入ったピアニストはルーナが尊敬するあの偉大な音楽作家リアム伯爵の息子だと。
「オリヴァー、何が言いたい?」
ルーナは不機嫌そうに訊いた。いくら尊敬する人の息子だからといって容赦は無いようだ。
皆が真剣に合奏練習をしている良い雰囲気にピリッと電気のような空気が漂う。しかしライアンは、昔からルーナの音楽を聴いてきたからこそ、オリヴァーの言っていることが少しわかるような気がした。
ルーナが作る音楽は、現実を否定し、ただ快楽だけがある天国、夢へ逃げ出すような音楽だ。でも、それだけじゃ心が揺さぶられず、何か物足りないと感じてしまう。きっと彼も同じ考えだろう。
オリヴァーはピアノの椅子から立ち上がると、各楽器の譜表を上下に並べて記されたスコアを指で叩きながら言った。
「ジェニさんの曲は月のように幻想的だと多くの人から良い評価を受けてます。でも、あの偉大な音楽作家リアム、僕の父上だけ良い評価をしていません。理由はまるで現実から逃げているような音楽だからと。ここって父上の耳を唸らせるほどの音楽を目標としているオーケストラなんですよね? このままでいいんですか?」
奏者たちは反論できずにオリヴァーの言葉に息をのんだ。しかし、ルーナだけは鋭い眼差しのまま、強気でいた。
「ああ、そうだ。音楽は人に聴きたいもの聞かせてやるものだ。現実なんてものを見せて観客が喜ぶか? 現実は反吐が出るほど汚いのに」
「現実も悪いことばかりじゃないですよ。本当にいい音楽というのは人の感情を揺さぶり、悟らせるもの。作品は創造者の鑑です。ジェニさん、あなた自身が何かの現実から逃げてるから、未だに最高の音楽が作れないんじゃないですか?」
あの気の強いルーナが言葉を失っている。返答がなくてオリヴァーも困惑したのか、
「あ、勘違いしないで下さいね。僕がここに入団希望をしたのはジェニさんに大きな可能性を抱いたからです。別にあなたの音楽を否定しているわけではないですよ」
と、弁解した。オリヴァーは徐々にルーナとの距離を縮めれば、タートルネックで隠れたルーナの首を触った。まるで、何かを確かめているように。
「なっ……! 急に何だ!」ルーナは叩くように彼の手を払った。
あまりにも突然のことで、奏者たちは固まっていた。
そんな状況下でライアンだけが獣の如く、素早い動きで舞台に上がり、オリヴァーを拘束した。
「いたたたた! あ、確か……ジェニさんの用心棒、ライアンさんでしたっ……け?」
そんな言葉を無視して、ライアンはルーナに訊いた。
「どうしますか? 二度とピアノを弾けなくなるよう両腕を折りましょうか?」
しかし、ルーナの口が開く前にオリヴァーが減らず口をたたく。
「血の気が多いのを見るに……ライアンさんってスラム街出身だったりします?」
刹那、周りがざわめき始めた。なんせスラム街出身の人間は危険で、非人道的だと思われているのだから。あと汚く、何か感染症を持っているのかもしれないという根深く張り付いた偏見もある。ライアンはそれを感じ、肩身を狭くした。
そんなまずい空気をピシャっと途切らせるようにルーナはライアンに首を振った。
「ライアン、両腕は折らなくていい。解放してやれ」
「……わかりました」ライアンはオリヴァーを解放した。
彼は首や肩を回して、体を調節し、ルーナに提案した。
「ジェニさん。新しい音楽を作りませんか? 僕にいい方法があるんですよ」
ルーナは自分の音楽にケチつけられるのが嫌いな人だ。しかし、即答で断らないということは自分でもわかっているということ。自分の音楽には何かが足りないと。
指揮棒を置いて、ルーナはため息交じりに言った。
「はあ。練習はここまで。オリヴァーは……残っていろ」
いつもより早く練習を切り上げて、ルーナは奏者たちをホールから出るように促した。みんないなくなるのを確認してから、オリヴァーとルーナは観客席に並んで座ろうとする。しかし、ライアンはそれを許さず二人の邪魔をするかのように、間に座った。
「あのぅ、ライアンさん、そこに座られたらジェニさんと話しにくいんですけど」
「もしものトラブルっていうものがあるかもしれないですからね」
「ああ、そっか。男女が二人きりなんて危ないですもんね」
「そういうこと……は?」
あまりにも自然に話すものだから、つい流れで肯定してしまった。
オリヴァーを見る。彼は反応を楽しんでいるかのように軽く笑う。次にルーナを見る。彼女は唖然とした顔で固まっている。
「そんな反応すると思いました。もしやと思って喉仏確認しましたが、ジェニさん女でしょ? ライアンさんもスラム街出身で間違い無いですよね?」
ライアンはルーナの目を見て訊いた。
「殺すべきでしょうか?」
「だ、ダメよ、初日で死んだら怪しいでしょ」
ルーナは男装姿のまま、いつもの口調に戻ってしまっていた。それほど衝撃だったのだろう。ライアンはオリヴァーを睨みつけた。しかし、彼は何とも思ってない涼しい顔で、
「そんな警戒しなくていいですよ。別にあんた達の秘密をバラそうとも思ってないし、むしろ僕はあんた達のような新しい風が好きですよ」と、笑みを浮かべた。
「一体何が目的なの?」ルーナは警戒しながら、慎重に訊いた。
「その前に質問です。僕の母親を知ってますよね?」
当たり前かのようにオリヴァーは言った。ルーナはライアンの方を見る。
「ライアンは知ってる?」
「なんで俺に訊くんですか」
「だって、いつも一緒だったから」
「ルーナが知らないのなら俺も知りませんよ」
「あ、そっか」
すると、オリヴァーは咳払いをして、改めて訊き直した。
「じゃあ、言い方を変えます。ピアノ上手のハンナを知っていますか?」
ああ! とライアンとルーナは目を合わせた。
「ハンナってオリヴァーの母親だったの?!」
ルーナはハンナのことが大好きだったので、彼女の話題になると一気に目を輝かせた。
「はい。僕がピアノを弾いているのも母の影響なんです。ピアノ指導の仕事から帰ってくれば、いつも楽しそうに二人の話をしてましたよ」
オリヴァーが思い出すように微笑んで話した。きっと彼にとっても優しく明るい女性だったのだろうとわかる。だからこそ、ライアンは謎に思った。
「じゃあ、いつも楽しそうに笑っていたのになんで自殺なんてしたんでしょうかね?」
「ちょっと……」ルーナが肘でライアンの横腹をつついた。ライアンもあっと、気まずそうにオリヴァーを見る。
「過ぎたことなので大丈夫ですよ。それに元々、母上の死について二人に言おうと思っていたので」
「それはどういうこと?」ルーナが訊くと、オリヴァーは指を組んで言った。
「母上は父上に殺されたのも同然なんです」
「……え? 自殺は嘘だったの……?」
「いえ、確かに母上は自殺しました。でも、そう誘導させたのは僕の父上って話です。父上は女に負けたくないプライドが強く、母上が作曲をしていると知ってから狂ってしまいました。最初の頃は痴話喧嘩程度だったのですが、母上が一生懸命作った曲が完成した日、父上が楽譜を取り上げようとしたのです。すると、母上は完全体の楽譜を奪わせまいと楽譜の前半を抱え、自分に火をつけて自殺しました」
「あのリアム伯爵が……」ルーナはしばらく唖然とした。
そうなるのも仕方ない。尊敬してた人が大好きだった人を自殺に追い遣ったのだから。彼女の拳が震えていた。怒りを耐えているように。
それにしてもつらつらと事情を話すオリヴァーに、ライアンは疑問に思った。
「オリヴァーは憎くないんですか? 父親とは言えど……」
「もちろん憎いです。でも、昔の父上を知っているので、どうも憎いきれないんですよね。だから、少なくとも母上の無念を晴らし、父上の目を覚まさせたいんです」
「無念?」
「はい。母はこうなることを予感し、僕に手紙を残してました。内容はこうです。楽譜の前半はルーナという公女が一音残さず覚えているはず。その子を見つけ、再び完成させ、もう一度、父上に届けてほしいと。あと、母上は女でも音楽を作れるっていうことを証明したがっていました。僕はそれを実現させたいんです。それが今の僕にできる小さな復讐なんです」
さっきまで呆けていたルーナがはっと気づいて言った。
「懐かしいわね……前半は子供だった私が子供らしい幻想的な音楽をと作って、後半は大人らしい現実的な音楽をとハンナが作って……」
「手紙にはこうも書いてましたよ。あの曲はまるで現実のファンタジア、音楽業界を揺るがせる革命曲、人生を現した曲だと」
ライアンも昔ルーナとハンナが一緒に曲を作っていたのは知っていたが、曲自体は聞いたことがない。一体、どんなにすごい音楽なのだろうかと気になるばかりだ。
「それにしても、よく私がルーナってわかったわね」
「男装の特徴など書いてあったので。まあ、探すのが大変でしたけど。あと、ライアンさんのことも書いてありましたよ。スラム街出身だけど、誰よりも強くて優しい男の子だって。それにクッキーが大好きだとも。案外可愛いんですね」
「いや、ハンナがクッキーをくれるから、しょうがなく食べてあげたっていうか……」
「しょうがなく? ライアンって私とお茶する時いつも一番にクッキー食べてない?」
ライアンはルーナにジェスチャーで言わないでくださいと合図した。
「あ、ごめん」
オリヴァーは軽く笑った。
「二人は仲が良いんですね。あ、忘れる前に渡しておかないと」
そう言って胸ポケットから出したのは端が黒く焦げている小さな紙。それを受け取ったルーナは「これ」と、何か知っているように凝視した。
「このマーク、私が描いたものだわ。もうこの曲を演奏することはないと思ってたのに……この後半は今どこに?」
「僕の父上が持っています。でもご安心を。後半の楽譜はすでにここにありますから」
そう言ったオリヴァーは自分の頭をトントンと指で叩いて見せた。すでに彼の頭の中に楽譜があるらしい。
「父の金庫から勝手に取り出して覚えたんです。あの人、警備はガバガバで。ルーナさん」
オリヴァーは改まったかのように姿勢を正した。
「僕は母上とあなたが作った曲を完成させ、オーケストラの演奏で父上の目を覚まさせたいんです。どうか協力してくれませんか」
頭を下げる彼を見ていたルーナはライアンの手を握った。
とうとう夢が叶う時が来たかもしれないと、嬉しそうに。
音楽業界を揺るがせる革命曲、つまり最高の音楽。それを復活させない理由がどこにある。そんな考えが伝わってくる。
ルーナは男性用ウィッグを外し、自信満々の表情で言った。
「断り理由がどこにあるの。私に任せて!」
♪3
ルーナが着替え終えるまでライアンは家の台所でシチューを煮込ませていた。
「へえ、結構隠れ家っていう感じの家に住んでるんですね。いつもライアンさんが料理を?」
オリヴァーは楽譜の音を教えるためにライアン達の家に訪れていた。
「いや、俺が作ったり、ルーナが作ったり、一緒に作ったり、まあ気分ですね」
「へえ。あの、ずっと気になってたんですけど二人の関係って……」
「やっぱり普通の人から見ても不思議な組み合わせですよね。俺とルーナって」
「まあ、スラム街出身と貴族出身が一緒にいるとか前代未聞ですよ。馴れ初めは?」
「話せば長くなるんですけど、簡単にまとめると、小さい頃ルーナがスラム街に迷い込んで、俺をナンパしたのがきっかけですかね」
「ナンパ?!」興味津々にオリヴァーが前のめりになる。
「ルーナって昔から変わってて、俺がスラム街で喧嘩中にも関わらず『あなたの瞳ってお空みたいに綺麗なのね』って近づいてきたんです。俺はスラム街に住む人間は汚いから近づかない方がいいって言ったんですけど、彼女、なんて言ったと思います?」
話に退屈さを感じさせないようにと問題を出してみると、オリヴァーは長い髪の毛を靡かせる仕草をしてルーナになりきって答えた。
「『そんなこと気にしないわ』ですか?」
「いえ、『汚さだったら私も負けてないわ』です。なにも泥を踏んだ音で作曲してたらしくて、確かに俺より汚かったんです。そんな小さい時から音楽が好きで、作曲が好きだったようですよ。俺に話しかけたのも目の色で音が聞こえるなんておかしなこと言って」
「それから二人はどうやって一緒に?」
「ルーナが何度もスラム街に来るようになったんですけど、ある日、人攫いに絡まれてるのを見つけて助けてやったんです。そして、家に届けたら彼女の両親にバレたんですけど、ルーナが俺を離さなくて。それから用心棒としてずっと一緒にいることに」
「なんか家を出たっていう話を聞いたんですけど」
「ああ、音楽作家になること両親に反対されて、俺がルーナに家を出ようと提案したんです。そして、今に至りますね」
「へ〜、二人にそんな過去が。あの、単刀直入に聞きますけど」
「なんです?」
「絶対あんた達お互いのこと好きでしょ?」
ライアンは動揺のあまり、味見していたシチューを吹いてしまった。
「ああ、やっぱり」
「ち、違う!」
「何が違うんです? 好きじゃなきゃ一緒に出ていって、一緒に住んでないでしょ」
それでも違うと言おうと思った。しかし、オリヴァーのニヤついた顔を見て観念した。これ以上言っても無駄だなと。ライアンはため息をついて、白状をした。
「はあ、確かに俺はルーナのことが好きですよ。でも、それは一方的な好意であって、ルーナは俺のこと犬のようにしか思ってません。音楽一筋に頑張ってるルーナにそんな感情があるとは思えないし、迷惑になりたくないんですよ」
「ふ〜ん、ただ拗らせてるようにしか見えませんけど」
ライアンはオリヴァーに聞こえるように舌打ちをした。オリヴァーはそれを面白そうに笑う。
「二人でな〜に話してんの?」
そこへ女性の姿に戻ったハンナが長い金髪を結びながら現れた。オリヴァーは「シチューのレシピを教えてもらってたんですよ」と誤魔化す。余計なことばかり言う男だと思っていたが、案外気の利く男のようだ。
「ふ〜ん、料理に興味があるのね。ライアン、一口」
ルーナはシチューの味見をしたいと口を開ける。ライアンも小さい皿にシチューを乗せて冷ましてから彼女に食べさせた。それを見ていたオリヴァーは、またニヤけて、離れていく。まるでお邪魔でしたねと冷やかすように。なんだか嫌な予感がした。
食事を終えた後、楽譜の譜面を完成させる作業に入った。元の楽譜を完成させても、ピアノのだけの楽譜。ルーナはオーケストラの指揮者だ。つまり、ピアノだけではなく、ヴァイオリン、クラリネット、フルート、オーボエ、などと様々な楽器の楽譜を作り、多彩な世界を表現する。楽器それぞれには特有の表現方法があり、悲しい部分はオーボエが、幻想的で美しい部分はフルートと、役割があるらしい。それがルーナのしたいことであり、夢の仕事だ。しかし、楽譜の終盤に行くにつれて、ルーナの眉間の皺が深くなっていく。
「あーわかんない! ハンナは何を表現したかったの? この部分は人生の何なの?」
前髪をクシャクシャとかき乱す。かなり切羽詰まっているようだ。何か手伝えないかとライアンは何気なく言ってみた。
「人生を表した曲で、ルーナがわからないというのなら、まだルーナがその人生を経験してないからじゃないんですか? ハンナの人生に対して」
その時、オリヴァーが閃いたように言った。
「母上が作曲した部分は大人の物語。だとしたら……やっぱり愛じゃないですか?」
それに対して、ライアンはそうなのかと首を傾げた。
「愛? 大人と言ったら富と名声じゃないんですか?」
ライアンにとって、大人はそのように見えていた。貴族の大人は、金に酔い、名声で図に乗り、スラム街の人間を見下していたから。しかし、違うらしい。
「それは一部の汚い大人のことですよ。まだ父上がまともだった頃、母上は父上のことを深く愛していると言っていました。きっとその気持ちを曲にしたんですよ」
「つまり恋愛ねえ……」ルーナはぼそっと呟き、徐々に顔を下げた。
ルーナが家を出たのは夢を叶えること以外に、結婚を強いられるのが嫌だったからだ。縁談の話が来るたびルーナは「迷惑」と言って、縁談の手紙を破り捨ててた。まるで自
分に言われているようで何度心を痛めたか。
「ルーナさんって恋とかしたことあるんですか?」
オリヴァーがライアンを一瞥する。それに気づいたライアンは彼が何かを企んでいると察した。なので、口パクで余計なことを言うなと言ったが、オリヴァーはそっぽを向いた。
「この際恋愛して、母上の気持ちを理解して編曲するのはいかがです? 例えば、ライアンさんとデートしてみたり、とか」
ルーナはぴくッと前髪を揺らして、下を向いたまま何も言わない。
「ちょっと、ルーナを困らせるようなこと言わないで下さいよ」
ライアンが忠告するが、オリヴァーは聞く耳を持たずに続ける。
「僕思うんですよ。男女がずっと一緒にいて友情だけ芽生えるわけないって。現にライアンさんはルーナさんのこと好きだし……」
「は?」あっさりと暴露されて、思わず声が出た。
「ルーナさんはライアンさんのことどう思ってるんですか?」
つらつらと続ける彼の言葉が終わると、ライアンはルーナの耳を塞ごうとした。
「ルーナ聞かなくていいですよ。全部オリヴァーの戯言なので……」
どうせ迷惑だと言われるだけだ。それならば、聞かなかったことにしてやればいい。そう思っていた。しかし、彼女の顔を見て思わず動く手を止める。
「ルーナ……?」
「へっ……な、なに?!」
こんなにも真っ赤なリンゴのように顔を火照らせたルーナを見るのは初めてだ。
「はは、ライアンさんのこと絶対好きだ」オリヴァーは冷やかすように言った。
「えと、いや……これはその、あの……私、恋愛とか柄じゃないっていうか、向いてないっていうか……その……」
いつもの堂々とした彼女が、小さくパニック状態だった。まるで好きな人がバレてしまって、慌てているかのように。
ライアンは静かに嬉しさを噛み締めながら、珍しいルーナを鑑賞した。可愛いなと。
すると、何かわかったかのようにオリヴァーは言った。
「ははーん、わかった。ルーナさん、恋するの怖いんでしょ? 人って恋を自覚すると自分のコントロールが不可能らしいですよ。プライドの高いルーナさんはそれが嫌で……」
「ちぎゃうわよ!」
あ、噛んだと、わかるほどルーナの動揺が目に見える。きっと違うわよと言いたかったのだろう。では、何が違うのだろうか。ライアンはルーナについて知っている限りの情報を回顧し、考えた。そして、一つの答えにたどり着く。
「まさかルーナ、男を好きになったら負けとか思ってませんよね?」
刹那、ルーナは口をはくはくと反論したげにしたが、すぐに口を閉じ、下を向いた。
「大当たりですね。そんな下らないプライド捨てて、ライアンさんと一度デートしてみては? 恋がなんなのか知らないと、作業も進みませんよ」
「わ、わかってるわよ! でも、一度デートしたぐらいで……」
「貴方達二人でなら大丈夫でしょ。ずっと一緒にいたんだし。ちょうど明日合奏練習休みなので、明後日、何かいい報告待ってますよ」
オリヴァーは言い逃げするように素早く家を出て、静けさを置いていった。
たった一人の人間のおかげで、関係がこんなに急速に発展するなんて思ってもいなかった。ライアンは彼が家を出て行った後、手で顔を覆っているルーナを見た。
「ルーナ、大丈夫ですか?」
すると、彼女は立ち上がり、「ちょっと、頭冷やしてくるぅ……」と寝室へと走って行った。走る途中、壁に足をぶつけたりして、動揺が止まらない模様。
ルーナが自分のことに対して恋心を抱いていると知れて嬉しかった。でも、彼女は恋愛することに対して、複雑なプライドを持っている。それからどう解放してやればいいのか。
ライアンは座っていた椅子の背もたれに体を預け、天井を煽り見た。
どうしたものかと。
♪4
海のように空は雲一つ無く、空気が心地いい晴天の日。こんな日はお喋りしながら散歩したいと思う人が多いだろう。しかし、それは緊張してなかったらの話。
花で色鮮やかに飾られた道を歩く紳士服を着た用心棒とドレスを着たお嬢様は過去最低に口数が少なかった。
「きょ、今日は、天気がいいわね……」
「そうですね。でも、こんなキッチリとした服装じゃなくても良かったのでは? ルーナがこれを着てと言うから着ましたけど」
「え、だって、デートってもっとこう礼儀正しくするものじゃないの?」
「俺達の中に礼儀とか必要でしたっけ? まあ、こういうデートがしたいと言うのなら付き合いますけど」
「あ、そう……」
会話終了。さっきからこんな不毛な会話ばかりだ。
ルーナが恋愛に意識し始め、昨夜からこの調子だ。寝る時は一つのベッドを使って、二人で寝るのがライアン達にとっての普通だ。しかし、昨日に限ってルーナがもうちょっと楽譜を見ていたいから先に寝ててとライアンを寝室に置き、ソファで寝ていた。
完全に避けられてる。だが、悪い意味の避けられ方ではない。彼女が異常なほどに意識をしているだけ。ライアンはそれが嬉しかった。初恋相手がやっと恋に触れようとしていたから。でも、ちゃんと自分の気持ちを伝えたいのに、改めて伝える機会が舞い降りない。
どうしようかと悩んだその時、彼女が足を止めた。
「待って、あれって……」
彼女の視線の先を追って、ライアンはとある夫婦を見た。
「お父様とお母様よ! 隠れて!」
今まで上手く隠れきっていたのに、ここで出会うとはツイていない。刹那、ルーナに引っ張られ、ライアンは草の茂みに入った。引っ張っられた衝動で不本意ながらも、彼女を押し倒したような形になってしまう。
「……ごめん」
「いや……大丈夫です……」
あの夫婦が通り過ぎるまで下手に動けない。二人はお互い目を逸らしながら体制を保った。
「行ったようです……ね」
ライアンは茂みから顔を出して、辺りを見渡した。すると、道の向こうに広がる湖に浮かぶボートに目を奪われた。
「どうしたのライアン? ボート見てるの?」
「俺、一度あれに乗ってみたかったんですよ。どうやって水に浮かんでるんだろうって」
「じゃあ、一緒に乗りにいく?」
「でもルーナ、海洋恐怖症じゃありませんでした? 一度溺れかけたって……」
ルーナはちょっと黙り込んで、「落ちなければどうってことないわよ!」とライアンの手を引っ張った。
昔から強がろうとするのは変わらない。きっと、女性差別に抗おうとした結果、きっとルーナに恋愛の葛藤を芽生えさせたのだろう。だからいつまでも素直になれず、無理に強がる。強がるのは大変だと言うことは男である自分もよく知っている。そんな見栄を自分の前だけでは張らないでほしい。
そう思いながら、ライアンはルーナの繋ぐ手を優しく強く握った。
「ボートの上で立たないようお気をつけて下さいね~」
ボートのおじさんがそう言って、ボートに乗ったライアン達を湖に送り出した。ライアンはやってみたかったボート漕ぎを「お~」と感嘆しながら漕ぐ。こうやって動かすんだなと。しかし、一方ルーナは日傘をギュッと握り、落ち着かない様子でいた。まだ緊張しているのか、ボートがひっくり返らないかと不安になっているのか。答えはきっと両方だろう。ボートを漕ぐのをやめて、ライアンはルーナを真っ直ぐ見た。
実は、このボートに乗ったのには好奇心以外に、もう一つ理由がある。
「ルーナ、好きです」
ずっと言いたくても言えなかった言葉。いざ口に出すとかなり照れくさい。ライアンは自分の顔が赤くなっているのを承知でルーナを真っすぐ見た。すると彼女は、ハッとし、顔を背けながらも耳を赤くした。
昨夜オリヴァーが出て行ったあとから、ルーナは自分を避けている。まるで、本心を散策するなと言うように。だから、ライアンから改まって話しかけると、ルーナは逃げるように「あ、部屋の片づけしないと」などと、おかしな理由をつけて逃げる。部屋の片づけなんてしたことないのに。そんな彼女を逃さないためにボートに乗った。強引かもしれない。でも、ルーナの気持ちを知っておきながら、じっとはしていられなかった。
「ルーナは俺のこと、どう思ってますか」
思い切って訊いた。しかし、思っていたのと違う返答が返ってきた。
「ライアンの言う通り、私、男に恋したら負けた気がして嫌なの」
ルーナは日傘をクルクルと回しながら、そっぽを向いて話す。
「この世の中、女が音楽作家として生きていくためには男のように強くいないとダメ。でも、恋愛は女を弱くし、男に守られながらじゃないと生きられなくなる。それが弱さを体現しているようですごく悔しいの……」
徐々に表情を顰めながら、ルーナは苦しそうに続ける。
「だから、ライアンの気持ちは……」
その先を言おうか言わまいかで言葉を途切らせる。まるで後悔するんじゃないかと悩んでいるように見えた。
だから、後悔させぬようライアンは言った。
「ルーナは例外じゃないんですか?」
「え?」
「家を出て行った日、言ってたじゃないですか。例外になってやるって。きっとルーナは恋愛をしても弱くなるどころか、強くなる人だと俺は思いますね」
「なんで……そう思うの?」
「俺がルーナの家で用心棒として住み始めた頃、あんたは俺を守ってくれたじゃないですか。スラム街出身だからと言って、俺を虐げる奴は許さないって使用人たちに。あれって俺のことを気に入ってくれてたから怒ってくれたんじゃないんですか?」
当時、喧嘩ばかりで一匹狼に慣れていたライアンにとって、守られるということはこの上ない愛情のように感じた。その時からルーナに惹かれていた。
「そうだけど……」
「ルーナは俺と同じで大事なものを守りたい人なんですよ。性別なんて関係なく。だから俺と恋することを迷わないで下さい。あなたは例外に強いままの人なんですから」
刹那、ルーナがボートを揺らすほどの前のめりになった。
「じゃ、じゃあ! ライアンは私のこと、ど、どれくらい好き?」
急にそんなはっきりそう聞かれると、恥ずかしくなる。ライアンは唐突の質問に対して、
「な、何で急にそんなこと……」と、動揺してしまった。
「す、好きな人が自分のことどれくらい好きなのか知りたいのは当たり前じゃないの?」
あ、今好きな人って言った。ライアンは心の中でそう思いながら、どのくらい好きなのか答えた。
「そう、ですね。俺は……ルーナに何されても全部許せるぐらい好きです」
「そっか……」
ルーナは何か振り切ったような表情を作って、弱々しい声で話し始めた。
「私ね、女でも最高の音楽を作れるってこと証明したがっていながら、女ということだけで夢の道が塞がれそうになるのが怖かったの。どんなに強いフリしても女であることだけで世間に軽蔑される。学校を卒業したのに男装を続けたのもそう。その恐怖から逃げたくて、音楽に逃げて、不安も悲しみもない幻想的で都合のいい世界ばかり作り続けてた。でもね、今はそんなこと怖くない気がする」
ルーナは慎重にライアンとの距離を詰めるように移動した。そして、日傘を持っていない方の手でライアンの頬にそっと添える。
「キス、してみてもいい?」
ザブッと、波が立つ。ライアンは何を言い出すのかと心臓を跳ねらせた。
「ちょ、ルーナ、何か焦ってません……?!」
「別に焦ってない。してみたいと思ったから訊いてるの。ライアンが頑張って歩み寄ってくれたんだから私も素直になろうと思って。それに初めては自分からしたいの……心の準備とか……」
「俺の心の準備はお構いなしですか?」
頬に添えていた手を離し、ルーナはライアンの胸に手を当てた。
「本当だ。すごいドキドキしてる。テンポ130ぐらいだわ……」
「音楽用語で言わないで下さい」
今までとは違う温度の沈黙ができる。目を合わせたり、逸らしたり。そして、唇同士が触れ合うようなキスをして、離す。この後どうすればいいのだろうか。ライアンは困惑した。一方ルーナは、何か考えているように動きを止めて、
「ねえ、もう一度いい? 次は長く」と、言った。
「いいですけど……」
長く続けば、まずい気がしたが、彼女のしたいことは尊重してやりたい。ライアンは待った。すると、ルーナはライアンの体を軽く押した。指をライアンの口に入れ、無理矢理口を開けさせると、食べるかのように唇を重ねる。
ライアンは驚いて、思わずルーナから口を離した。
「ちょっ! 一体どこでそんなキス覚えてきたんですか?!」
「路地裏でキスする男女見て覚えた。……そんなことより続き。聞こえそうなの」
聞こえそう。それはルーナが作曲中に言う口癖だ。
正気じゃない息遣いで再びキスをされたライアンはルーナのペースに飲まれぬようにと、彼女の腰に手を回し、グイッと押し返すように体を起こした。その時だった。
二人の体の均衡が崩れて、ボートがひっくり返る。
派手に水の音が弾け、ルーナがライアンの名前を何度も叫んだ。
「ライアン……! 助けて! おぼ……プハっ……れる! 溺れる!!」
「ちゃんといますから、落ち着いて」
ルーナを水中で抱え上げる。彼女はライアンの頭に抱き付いて、一旦落ち着いた。
今度は湖の水を手でバシャバシャと鳴らしながら彼女は言った。
「すぐに近くの岸に上がってライアン! 早く! 忘れる前に!」
「え? はい、近くの岸……あそこでいいですか?」
もちろん返事はない。今のルーナは音楽の世界に入ってしまったからだ。さっきからハミングをしながら足や手でバシャバシャと水を跳ねらす。音の沼にハマり、夢中になっているサインだ。こうなったルーナはキリがつくまで正気に戻らない。
岸に上がると、ルーナは水で柔らかくなった泥に指を埋めて、楽譜の五線譜を描き、線の間に豆のような黒い点を次々と描く。
「ライアン! メモ用の紙とペンを買ってきて!」
まさか、ここで作業するつもりなのか? ライアンは、急いで近くの売店へ向かった。だが、行く途中に予期せぬ人物と出会う。
「あ、ライアンさん。奇遇ですね……って、なんでビショビショ?!」
そこにいたのはオリヴァーとあの偉大な音楽作家リアム伯爵だ。
ライアンはぎこちなくお辞儀をした。
写真でしか見たことがないが、実物はもっと威厳があり、気難しそうな印象だ。
「ちょっと湖に落ちちゃって……あ、そんなことより紙とペン持ってたりしますか?」
「いや、持ってませんけど。なぜ?」
リアム伯爵に聞こえぬよう、オリヴァーに耳打ちする。
「ルーナが、完成への一歩を踏み出しました」
オリヴァーは、やっとかと感心した表情を浮かべて、鞄を漁り始めた。しかし、オリヴァーが見つける前にリアム伯爵が黙って紙とペンを差し出した。
「一体何が起こっているのか知らんが、急ぎのようだな。持っていくといい。家に何個も予備はあるからな」
ずっしりとした威圧感のある低い声でリアム伯爵は言った。どこか元気がなさそうにも聞こえたのは気のせいだろうか。
ライアンは紙とペンを受け取れば、「ありがとうございます」と、深く頭を下げてお礼を言った。でも、相手はハンナを自殺に追い込んだ男。ずっと頭の隅でそのことが過り、複雑な心境だった。
ライアンはルーナの元へ走った。それについて来るようにオリヴァーも走る。
「父上! しばしお待ちを!」
「なんでついて来るんですか? リアム伯爵と何か用事があるんじゃ」
オリヴァーは小声で言った。
「用事が終わってちょうど暇してたんですよ。それにこっちの方が面白そうな気がして」
普通なら邪魔になるからダメだと言うところだろう。でも、膨大な努力を積み重ね、鬼才になったルーナの本領を見せてやりたい。
しかし、その場に着くと、ライアンは自慢することを忘れ、言葉を失った。
ルーナはよく、思いついたフレーズを音符にして、自室のあらゆる場所にペンで落書きする。しかし、今目の前にある光景は落書きどころの音符の量じゃない。
地面には歩くスペースがない程の長い楽譜が。大きな石には泥で濡れた指で書かれたであろう楽譜がずっしりと。指で書けない草の上では木の枝ときのみや石で作られた楽譜が散らばっている。泥だらけのルーナは今も楽譜を書き続けている。
素人が見ても只者じゃないとわかる。
「もしかして、これ全部ルーナさんが?」
「……みたいですね。ここまで正気がないのは初めてですけど」
「一体何をしてたら、こんなことになるんですか」
呆けた声でオリヴァーが言う。すると、ライアンはさっきあった出来事を脳裏に浮かばせ、顔を熱くした。今思い出すと、かなり大胆なことをしてたんだなと気付く。
「ああ、なるほどね」
いつの間にこちらを見ていたオリヴァーは冷やかすように言った。
ここで否定しても意味がないと思ったライアンは、「野暮ですよ」と、言った。
その時、背後から枝の割れる音が鳴る。
二人が振り返ると、そこにはリアム伯爵の姿があった。
「ち、父上。待って下さいと言ったのに」
「なぜ紙とペンが必要なのかと思ってな。まさか女が作曲をしてるなど……」
ギクッとしたライアンはルーナを隠すように、リアム伯爵の前に立った。ハンナの二の舞にされるんじゃないかと警戒して。
リアム伯爵は足元にある木の枝で作られた楽譜を一瞥して言った。
「女が作る音楽はつまらん」と。次の瞬間、その楽譜を踏もうとする。
ライアンは反射神経で反応したようにしゃがみ込み、覆うように楽譜を守った。そのため、リアム伯爵に頭を踏まれる形になってしまう。
「父上! 早くその足を退けてください!」
「そんなに気を取り乱すなオリヴァー。ゴミを踏んで片づけようとしたら、たまたま虫が紛れ込んできたのと同じだ。おい、そこを退け。ゴミを処理せねば」
その言葉を聞いて、ライアンは拳を握った。でも、ここで暴力沙汰を起こせば、またスラム出身者がと、差別される一方。何度も踏みつけてくるリアム伯爵に対して、ライアンは我慢した。オリヴァーはリアム伯爵を止めようと必死だ。
このまま収まるのを待つのもいいが、どうもやられっぱなしは自分の性分じゃない。だから、一言ぐらい皮肉を言っても構わないだろうかと、ライアンはリアム伯爵を見上げて笑った。
「ははっ」
「なにがおかしい?」
「いや、女が作る音楽に負けそうで、悪足掻きをするあなたが、とても醜くて……」
「こいつ……!」
「父上! それはいけませんって!」
オリヴァーが片手に持っていたステッキを振り上げるリアム伯爵の手にしがみ付く。し
かし、ライアンは逃げずに目を閉じた。その一発でこの楽譜を守り切れるのならと。
刹那、リアム伯爵の驚嘆の声が聞こえた。
恐る恐る目を開けると、彼の顔は泥だらけ。
「やはり女はロクでもない……!」リアム伯爵は怒りを震わせた声色でそう言った。
女? ライアンは後ろを振り向いた。するとそこには、正気に戻っていたルーナが鬼の形相で荒い息を立てていた。
今にも襲い掛かりそうなリアム伯爵をオリヴァーが食い止める。後ろから、ルーナが近づく足音が聞こえる。この男にルーナを近づけるのは危険だと感じたライアンは立ち上がり、盾になるように彼女を守る体制を取った。
お互いに距離を保った状況の中、ルーナは言った。
「リアム伯爵。そんなに怖いですか? 女に負けるのが」
その言葉を聞いたリアム伯爵は不適に笑った。
「女に負けるのが怖いだと? はっ! 笑わせてくれる。そういうのを負け犬の遠吠えというのを知らんのかね? 女は男と違って音楽の才能が無い。君がどこの誰なのか知らないが、音楽は諦めて田舎に帰ったほうがいい。今の姿を見ると農家がお似合いだ」
どこまでルーナを蔑むのかと、ライアンは舌打ちをして、一歩前に踏み出した。すると、ルーナは行かなくていいと手を掴み、止める。
「私のことをどれだけ見下しても構いません。でも、ライアンへの暴行は見逃せません。リアム伯爵。今すぐライアンに謝罪を」ルーナは語調を強めた。
しかし、彼は「する価値もない」と言い残し、去って行く。
残されたオリヴァーはため息を吐き、頭痛そうにした。
「本当にすみません。昔はあんな人じゃなかったのに……」
「オリヴァーが謝ることじゃ無いわ。私もついカッとしちゃって泥投げつけちゃったしお互い様よ。それにリアム伯爵に会ってさらに、ハンナがあんな作曲をしたのかもっと分かった気がするわ」
その言葉を聞いて、ライアンは焦った。
「え? つまり、リアム伯爵に惹かれて、曲の意図が分かったってことですか? 俺にあんなことしといて?」
「あんなことって何ですか?」オリヴァーが割り込んで、首を傾げる。
「え、えーっと、あんなことは……あんなことです!」
ボートの上でキスされたなんて、言えるわけがない。ライアンは必死に誤魔化した。
すると、ルーナは吹き出すように笑った。
「あっはは! そんな訳ないじゃん」
木の棒を拾い、消えかけた楽譜をなぞりながら、続ける。
「私とハンナが作ったあの曲、何が何でも絶対リアム伯爵に聞かせるべきだわ。特に後半部分は。理由は、まあ、これは女の勘ってやつなんだけど……」
ルーナは寂しそうに音符をなぞりながら、ハンナが作った後半部分の音楽について説明した。全ての説明を聴き終えると、ライアンは心をキュッと切なくした。
♪5
翌日。ライアンはいつものように用心棒としてホールの観客席に座っていた。しかし、今日は胸騒ぎがする。なぜなら今朝、ルーナの様子がおかしかったからだ。ボソっと「逃げるのはやめよう」とも言っていた。何だか嫌な予感がする。
奏者はいつも通り隣の人と楽しそうにお喋りして、ルーナを待っている。しかし、ルーナが現れた途端、奏者はお喋りをやめた。気を引き締めて、とかではなく、驚いて。
「みんなおはよう。新曲持ってきたから今から楽譜配るね」
男性用のウィッグを付けていないルーナが、金色の長髪を靡かせながら言った。
案の定、奏者たちは戸惑いを隠せずにはいられず、ぽかんと口を開けている。
一人の女性フルート奏者が言った。
「顔が……ジェニ楽長……。もしかしてジェニ楽長ですか?」
「や、やっぱり、びっくりするわよね……まさか女だったなんて。でも、これが私なの。ジェニじゃなくて、ルーナ。これが私の本名……その、今まで隠してて、ごめんなさい」
声が若干震えてて、かなり緊張しているのが伝わった。
それはライアンも同様だった。皆は彼女を受け入れてくれるだろうか? もしここで皆が受け入れられずやめていき、オーケストラが解散したら? そんなことになればルーナは立ち直れるのか? その時俺はどう励ませばいいのか? 不安が重なっていく。
一人のヴァイオリニストが立ち上がった。
「お、俺は女に支持されるのは耐えられない!」
すると、伝染していくかのように次々と、主に男の奏者が立ち上がった。
「女に主導権を握られるなんて屈辱的だ!」
同じ男として、共感性羞恥に襲われる。ライアンはこの世のみっともない部分を見ている気がした。
立ち上がる男に対して、ルーナは出口を指差しながら言った。
「そう……私は止めないわ。嫌なら……出て行ってもらっても……構わない、わ」
一部の男たちが自身の楽器を持って退出しようと歩き出す。なぜ止めないのかと思った。しかし、その理由はすぐにわかった。
プライドの高いルーナは、行かないでほしいと懇願するような人間ではない。
他人に対して、ましてや男に対して、そんな情けない姿を見せたくないと思っているのだろう。それが彼女の欠点。
だったら、自分が補ってやらないと。
ライアンは大きく声を張って言った。
「いいんですか? この無名だったオーケストラを有名にさせたのはルーナだし、明らかに皆の音は上達してます。きっとここを出ても良いことは無いと思いますよ」
「用心棒のくせに何がわかるって言うんだ!」退出しかけた男が言う。
「スラムの人間でもはっきりとわかりますよ。ずっとここで聴いてきたので。自分が成長してるのに気付けないのは分かりますけど、聴き手はよくわかりますよ」
スラム街出身だと言うことを暴露すると、たちまち皆小さい声でコソコソとし始めた。しかし、ライアンは気にせず話を続けた。
「音楽の感性のないスラムの人間でも、ここの前指揮者が奏でる音とルーナが奏でる音は全然違って聞こえます」
オリヴァーがピアノをドレミと鳴らす。
「俺もライアンさんの意見に同意ですね。まだこのオーケストラに加わる前に観客席で聴かせてもらったことありますけど、明らかに前より臨場感や音を繊細に扱ってる部分が感じ取れます。それはルーナ楽長が指揮台に上がった時から。皆さん気づきませんか? ルーナ楽長が現れてから、音楽に対する姿勢が変わったと?」
すると奏者の大半が確かにそうだと小さく首を縦に振る。この空気の流れに乗じて、ライアンは舞台に上がり膝をついた。
「ライアン。何してるの?」隣でルーナが驚いた声色で言う。
「ルーナが性を偽って皆を騙していたことは俺も初めから知っていました。なので、俺も共犯です。皆さん、騙してて本当にすみませんでした。だから、出ていくのは考え直してくれませんか」
刹那、ルーナもぶつかってくる勢いで隣に来て、跪いた。
「本当に、ごめんなさい!」
ルーナはライアンよりも深く頭を下げていた。元々、立ち去る気が無さそうだった奏者は何といえばいいのかと戸惑っていたが、立ち去ろうとしていた奏者は次々と、無言で席に戻って行った。しかし、それでも去る者も数人いた。そう簡単には変わらないようだ。
団員の士気がいつもより熱くなったのを感じた。女でも関係ない。ついていきますよと。
今度は、もどかしそうにオリヴァーがピアノの音を強く鳴らす。
「ほら。いつまでそうしてるんですか。早く新曲配ってくださいよ」
そう催促されて、ルーナは少し鼻を啜って立ち上がった。ライアンも立ち上がり、いつもの特等席へと戻り、彼女を見守った。
「今回の曲はいつもよりかなり難しいけど、みんな、ついてきてくれる?」
「「「「はい!」」」」
♪6
数多くのオーケストラが新曲を披露する公演が開かれた。
ライアンは舞台裏でルーナが来た燕尾服の身だしなみを確認した。
「どう? おかしくない? 襟とかひっくり返ってない?」
「大丈夫ですって。いつもみたいに堂々としてくださいよ。天才音楽作家なんでしょ」
「だって、ウィッグを被らず女の姿で観衆の前に出るんだよ。団員の前とは話が違うのよ」
緊張と不安でルーナはらしくもなく、落ち着かない様子だった。
その時、通りすがりの二人の男の声が聞こえた。
「おい見ろよ。女が指揮棒を持ってるぞ」「まさか女が作曲を? 奏者可哀想だな」
目の色を変えたライアンが声のする方を睨みつけるように見ると、男共はそそくさと早足で消えていった。
ルーナがため息を吐いた。
「はあ、ねえライアン、もしも拍手が起こらなかったらどうしよう。やっぱり女だからって、受け入れてもらえなかったらどうしよう」
「まるで誰も自分の味方じゃないような言い方ですね」
ライアンは人目もあるのにも関わらず、ルーナにキスをした。
「え?」
「この前のやり返しです」
顔真っ赤にしてルーナはガクッと腰を外しかけた。それを支えて、ライアンは言った。
「俺はいつまでもルーナの味方です。周り全員が敵でも、俺という味方一人いれば十分でしょ。俺、一人でここにいる全員地べたに這い蹲るように出来る自信ありますよ」
ルーナは口元を手で隠し、驚いた表情を浮かばせていた。そういえば、自分からキスするのは初めてだ。ボートの上でルーナにキスされた時、自分も今の彼女のような顔をしてただろうか。
「……そっか。そ、そうよ! 私にはライアンがいるわ」
「そうです。何も恐れることなんか無いですよ」
「うん。あ、そろそろ出番だわ。じゃ、最高の音楽を届けに行ってきます」
「最高の音楽を待っています」
軽くお互いに敬礼をして、ルーナの背中をそっと押した。成功を願いながら。
奏者達が楽器を持って待機している。そして、舞台にライトが照らされるのと同時に指揮者が入場する。途端、観客席がざわめき出した。
「女?」「指揮官変わったのか?」「いや、でもパンフレットにはしっかりジェニ楽長だと」「女が指揮者なんぞ、非常識じゃないか?」
そんな騒がしさも無視して、ルーナは高い位置で結ったポニーテールを揺らしながら観客に一礼する。そして、奏者と向き合い「いい演奏を頼む」と軽く拍手を送る。奏者も小さく頷く。それだけで信頼関係が深いのがわかる。ルーナが深呼吸をし、指揮棒を上げた瞬間、全員が楽器を構えた。
ルーナの振る指揮棒を合図に、細かい音の粒が早いテンポで流れ始める。
観客の話し声が一瞬にして消えた。音に話し声が掻き消されたとかではなく、音楽に圧倒されて言葉を失うように。
ライアンはルーナから、どんな音楽なのか聞かされていたので、誰よりも深く情景が思い浮かばせることができた。
初めは、子どもらしい無邪気さと無垢をフルートの繊細な高音で表現した、不幸を知らない楽園のような人生情景。
しかし、中盤に差し掛かると、雰囲気が少し暗くなる。ヴァイオリンとクラリネットが積極的に音を前に出すと、女性が初めて恋に落ちる儚げな初々しさと、恋愛の鈍い辛さが混ざり合い、どうすればいいのかと混乱する人生情景を思い浮かばせた。
今までに無かった新しい曲調と曲の雰囲気をガラっと変える転調によって、心が勝手に感情を抱く。
そして、終盤に差し掛かるにつれて低い音が強調されていき、悔しさと絶望に引きずられる感覚になる。まだ子どもだったルーナは知らぬ、後半の部分。心臓にずしん、ずしんと伝わってくる振動は、当時ハンナが感じていたであろう心の痛みのようだった。消えていくように音が一つずつ聞こえなくなっていく。火が徐々に燃え尽きていくかのように。
ピアノの音を最後に曲が終わると、会場は今までで最も静かな空気に包まれた。
ルーナが指揮棒を上げたまま、動きを止める。拍手の音が鳴るのを待つかのように。いつもなら音楽が終わった後、拍手喝采が起きるはずだ。
嫌な予感が当たりそうな気がした。女ということで、周りに軽蔑され、妬まれ、ヘイトの的になり、このまま拍手が起きないかもしれない。ライアンは息を呑んで、ただ願うことしか出来ないのかと恐れた。しかし、じっとはしていられず、両手を大きく広げた。誰も拍手をしてくれないのなら、自分だけでも拍手を送ろうじゃないかと。
その時だった。パンッパンッと二回、いや、何回も拍手をする一人の拍手がホールに鳴り響いた。
舞台裏からカーテンを退かし、観客席の方を見ると、一般席で一人の紳士服の男が立って拍手をしていた。伝染するように一人、また一人と、立ち上がり、今日初めてのスタンディングノーベーションが行われた。ただ一人を除いて。
ルーナは観客席のほうを振り返り、放心しているように肩を上下に揺らしながらその光景を見ていた。ハッと気づき、彼女は深くを礼をするが、その場でバランスを崩し、座り込んでしまった。
「ルーナ?!」
ライアンはすぐに舞台裏から出て彼女を支えた。指揮者は全身を使って棒を振る。過去一番に神経を注いでいた彼女は尋常じゃない汗を垂らし、笑っていた。
「はあ……はあ……ライアン」
「大丈夫ですかルーナ?!」
「私……はあ、あなたに言ってなかったことが……あったの」
「今じゃなくていいですから、まず休んで」
「今なら言えそうなの……はあ、はあ……好きよ」
たった三文字の言葉なのに、キスされた時のような衝撃があった。ぶわっと顔が熱くなる。キスと違って、心の奥底に刺さるような感覚。ライアンはあまりの嬉しさに目頭が熱くなるのを感じた。やっと彼女の口から聞けた。
「ずっと待ってましたよ……その言葉」
♪7
公演が終わると、ライアンとルーナは公演中ずっとVIP席で下を向いている男の前に立った。
ルーナはリアム伯爵の後頭部に話しかけるように、言葉を掛けた。
「リアム伯爵。私たちが作り上げた音楽に覚えがありますよね」
「女如きが……」
ボソッと呟いたリアム伯爵は、何の予兆もなく手に持っていたステッキを振り翳し、ルーナに振り落とそうとした。しかし、ライアンにとってそれは瞬きをする余裕がある程遅いものだった。ステッキを取り上げて、リアム伯爵の腕を背中に回す。
「ぎゃああ! この……離せ! この世の異端者共が!」
「ライアン。ご老体の腕は折れやすいから、放してあげて」
ルーナは落ち着いた口調でそう言った。この二人の音楽家の温度差から格の違いというものが見えた。
「ルーナが止めなかったら、永遠に指揮棒振れない人生にしてましたよ」
そう言って放してやると、リアム伯爵は腕を摩りながら「スラムの人間が……」とライアンを睨みつけた。
後からオリヴァーがやって来る。
「父上。もうそうやって人を、女性を軽蔑するのはやめましょうよ」
しかし、リアム伯爵は聞く耳を持たなかった。
「五月蝿い! どいつもこいつも私の音楽を霞ませようとしおって! そんなに頂点から私を引き摺り落としたいのか?!」
「母上は父上を越えようと作曲してたわけじゃないですよ。それは父上が一番わかってるんじゃないですか?」
リアム伯爵は口を継ぐんで、唇を震わした。
「リアム伯爵。私とあなたは似てます。どちらも女なんかに、男なんかに負けたくないと。甘えを見せてはいけないと、無駄にプライドを持っています」
「お前と一緒にするな……」
「ええ。もう一緒じゃありません。私はライアンと向き合って気付きました。ハンナが作曲した部分は、まるで愛のようだなって」
「愛、だと?」ステッキを落とし、リアム伯爵は顔色を悪くした。
「なぜ楽譜をあなたに演奏させまいと自殺までして燃やしたと思いますか? それは指揮者は作り側であり、聴く側ではないからです」
「……は?」
「ハンナはあなたを愛してました。リアム伯爵との出逢いに喜び、一緒に過ごす日々と息子に恵まれたことを幸福に思っていました。きっとハンナはその思いを曲にしようとしましたが、夫の反感を買い、自分の夢がある限り愛は届かないと諦めた。無駄なプライドが招いた無謀な死。これでも女はと、言いますか?」
「ち、違う……私は……ただ……!」
リアム伯爵はゆっくりと背中を向けて、歩き出した。
「どこへ?」
「心の……整理をさせてくれ」
弱々しく震える声は、リアム伯爵の今の心情を表した。後悔しているのだと。
後日。リアム伯爵から手紙が届いた。
「ルーナ、リアム伯爵から手紙来てますよ」
「本当? なんて?」
二人は一つのソファに肩を並べて座った。
手紙の内容は、本当にリアム伯爵が書いたものなのかと疑うほど、素直な文章だった。
つらつらと最初に書かれていたのは、音楽に対する自分の情熱。読んでいると彼は一体何のために手紙を出したのかわからなかった。でも、最後の行を読んで、手紙を出した意図が分かった。
『最高の音楽だった。そして、今まで非道な言葉を投げかけた事を詫びる』
全てはこの最後の一行を伝えるための照れ隠しなんだろうなと思った。
ライアンはルーナと一緒に手紙を読み終えると、複雑な気持ちになった。
「なんだか納得しないなぁ」
「どうして?」
「謝罪は本人の口から聞きたかっていうか……ルーナは罵倒されて、俺は蹴られたんですよ? 手紙一つで、はい終わりってなれますか?」
すると突然、ルーナは触れるようなキスをしてきた。
「きゅ、急になんです?」
「ご機嫌取ろうと思って」
「機嫌は自分で取れ……」
言い終える前にルーナが再びキスをする。ニヤニヤと笑っている。
「……なんか企んでます?」
「別に? きっとリアム伯爵の性格上、直接口で謝罪なんて無理だと思うから、この手紙を寄こしただけでも大きな変化よ。それにライアンへの暴行の仕返しは、私が既にしちゃったし……」
そういえばと思い出した。ルーナがリアム伯爵の顔面に泥を投げつけていたのを。
「でも、ライアンは納得できないようだから、私が宥めてあげようと思って。男の謝罪より、恋人に癒してもらった方が満足しない?」
確かに一理あると、ライアンの怒りの感情はルーナによって残さず溶かされてしまった。
「それに、どっかの意気地なしさんは公演の日から一向にキスも何もしてくれないから、なーんか、もどかしいのよねえ、ライアンはもっと私に触れたいとか思わないの?」
「いや、思いますけど……」
嵐のような出来事が去ってから、ルーナは見違える程に大胆になった。しかし、ライアンにとって、その大胆さは心にストッパーを掛けるきっかけになっていた。なぜなら、彼女を大切に想うばかりで、行動に心が、理性が、追いつけなくなって、困らせそうな気がしたから。
「なんか遠慮してない?」ルーナはグッと顔を近づけて言った。。
「……そ、そりゃあ遠慮しますよ……」
本当はもっとすごい事を遠慮してるなんて言ったら、絶対に引かれるだろうな。ライアンはそのことを悟られぬように、目線を外した。
ルーナは距離を離し、自分の頭に指を添えて、眉間に皺を寄せながら言った。
「ちょっと理解出来ないわ。公演の日、ライアンは人が行き来する舞台裏で遠慮無しにキスしてきたわ。なのに、周りに人がいなくなると遠慮する。普通逆じゃないかしら?」
疑問に思っている事を話しながら、ルーナはさりげなく再び距離を縮めてくる。そして、言い終えた時には、ギシッとソファを鳴らし、ライアンを押し倒している。いつかの形勢逆転だ。
ライアンはルーナを見上げながら、辿々しく答えた。
「そ、それはその……理性が保てる場所……だったからっていうか……」
「理性……そう。だったら、今その理性をぶち壊せばいいのね」
刹那、ルーナはライアンの口に両手の親指を無理矢理突っ込んで口を開けさせた。ボートの上で二回目のキスをした時のように。そして、もう何も隠さない、遠慮しないというように、ルーナはライアンの口にかぶりつくようにキスをした。
それをきっかけに、ライアンは遠慮する事をやめた。
*
家のリビングで、小さなピアノの音が一音ずつ跳ねるように鳴る。
「さすが天才音楽作家の娘、ラナはまだ3歳なのにもうピアノ弾けるんだな〜」
「ラナ、おんぷもよめるよぱぱ!」
「そうかそうか〜すっごいな〜」
愛しの娘にメロメロのライアンは、花を触るようにそっと、ラナの頭を撫でながら言った。すると、ルーナがラナを抱き上げて、
「きっとピアノ弾いてる私を見て勝手に覚えたのね。さすが私達の娘だわ」
と、柔らかそうなほっぺを指で突きながら微笑んだ。
「でも、どこかで聞いたことのある音の旋律なのよね」
「ラナのオリジナルじゃないのか?」
ルーナが何か思い出そうと、う〜んと唸る。そういえば、さっきラナが音符も読めると言っていた。もしかして、ルーナの部屋に入って楽譜でも漁って覚えたのだろうか。そう推測していると、ラナの言葉を聞いて確信に変わった。
「これね、ままのおへやにあったの!」
「あ! 私の部屋にまた勝手に入ったのね! 楽譜ばら撒いちゃって汚いから入るなって言ったのに、悪い子」軽くラナの頭を指一本で優しく叩く。
「うわあん! ままが怒った〜」
「はいはい、パパの所に逃げましょうね〜」
ルーナがラナを叱るといつもこうだ。だから、もっと自分に好感を持ってもらおうとライアンはルーナから流れるようにラナを奪い、抱っこする。慣れている事なので、ラナには見えない背後でルーナが面白そうに笑う。
「それにしても、楽譜ばら撒いて部屋が汚いって、一体何曲の楽譜をばら撒いたんだ?」
その話をした途端、ルーナはソファの上に寝っ転がり、遠い目をした。
「初めて作曲した曲から最新の曲まで全部」
「うわあ……」
ラナを下ろし、ライアンはルーナの部屋を見に行った。
思っていた以上に、尋常じゃない枚数の楽譜が散らばっており、床は見えなかった。
ついてきていたラナは、その楽譜の中から一枚の楽譜を取る。
「これ! ラナがピアノしたの!」
渡される一枚の楽譜を受け取る。その楽譜は泥水のようなシミが所々にあり、汚いものだった。
「ん? 『ひとめぼれのきょく』……?」
楽譜の題名部分に書かれている文字を口に出して読む。
その次の瞬間、ドンドンドンドンドン! と轟音を鳴らしながら、ルーナが顔を真っ赤にして走ってきた。
「それ!」ルーナは持っていた楽譜を取り上げようとする。
その焦燥している姿が可愛らしくて、ライアンはつい意地悪をしたくなってしまった。取らせまいと楽譜を天井に掲げると、彼女は必死にぴょんぴょんと跳ねた。
「それはだめ〜〜!」
「何でダメなんだ? それを言ったら返してやる」
「うぅ〜……」
跳ねるのをやめたルーナは、観念したかのように散らばった楽譜の上に寝転がった。それを真似してラナも「ごろーん!」と楽しそうにルーナの隣に寝っ転がる。
「それ……あ…………なの……」
手元にあった別の楽譜で顔を覆い、小さい声でルーナは言った。しかし、全然聞こえない。
「な、なんて?」
「〜〜っもう! だから!」
顔を覆い隠していた楽譜から目を覗かせて、大きな声で言う。
「ライアンと出会った日に作った曲なの!」
隣で寝っ転がってるラナが恥ずかしがってるルーナを見て笑ってる。それにつられて笑っているわけではないが、ニヤけが止まらない。
初めてルーナが、なぜ自分に話しかけてきたのかわかったからだ。
楽譜についてるシミはあの日の泥水で間違いない。自分よりも汚い姿のまま書いたものだろう。
勝手に自分が先にルーナを好きになっていたと思っていたのに……どうやら違うようだ。ルーナは出会った時から、自分のことが好きだったんだ。
ライアンはラナを間にするように寝っ転がり、楽譜を掲げて言った。
「先越されてたのか〜」
「悪い?!」ヤケになって、ルーナは照れながらも怒った声色で言う。
「ぜーんぜん」
ライアンは嬉しそうに答えた。
掲げていた楽譜をラナが手を伸ばし、欲しそうにした。渡してやると、ラナはドレミの音を口に出して、歌った。
その時、ルーナがこちらを見た。ライアンもルーナの方を向く。
今度は、どちらも先を越さず、同時に笑った。