研究員と人魚のお話
それは、遠い遠い昔のこと。人魚がまだ人間にとって物珍しく、人魚の肉を食べたなら不老不死になれるなどという、野蛮な噂が人間たちの間でまことしやかに囁かれていた頃のお話。
その頃、陸には無機質で無慈悲な研究所がありました。その研究所は人魚を捕まえては電気でしびれさせたり、腕を切り落としてみたり、舌をひっこ抜いてみたり、その他いろいろな苦痛を与えてはその反応と回復の仕方を観察していました。最後には人魚を解体して研究員全員で食べたり、不老不死、永遠の美などという泡よりも儚い夢に憑りつかれた醜悪な人間のお金持ちに売り払ったりしていたのです。美しくいたいのならば私たち人魚を食べるよりももっと先にするべきことがあったでしょうに、なんて醜いのでしょうね、昔の人間は。
さて、そんな研究所に、ある日、一人の人魚が運び込まれました。セレンという名の、美しく長い、ふわふわとした銀髪と、深い海のような紺色の瞳を持った、綺麗な女性型のタコの人魚でした。ええ、そうです、ちょうど私のようにひれではなく触腕を持つ人魚です。私と違って彼女の触腕は8本ですけれど。彼女の触腕はその時々によって色の変わるものでした。ここよりも深い海の底のような色から、ちょうどあそこの岩のような色へ、あちらの珊瑚のような色へ……彼女の思うままに移り変わるその色は、さながら彼女の気まぐれさを表しているようでした。その触腕は彼女の自慢でもありました。手の届かないところへだって手を伸ばせばたちまち届き、不届き者を締め上げることだってできる。1本1本別々に動かせるから、いろんなことを同時にできる。本を読みながら字の書き取りをすることだって、陸から流されてきたいろいろなものを磨くことだってできる。なによりも彼女は自分の触腕を可愛いと思っていましたから。
「ほら、人間のはくスカートみたいでしょう?それに乱暴で見境の無い鮫を締め上げることだってできるのよ?」
その触腕のせいで泳ぐのが遅いと言われた時、彼女はいつも笑顔でそう返していました。生来の明るさと口の回り方、優しい笑顔によって彼女を愛してくれる人魚は少なからずいました。けれど、彼女はやはり陸に憧れていました。陸であればきっと楽しいのだろうと。遠い昔、恋が実らずに消えてしまったお姫様のようになる可能性もあるけれど、そちらの方がましではないかとすら思っていました。けれど、他の人魚をかばって彼女が研究所の網に捕らえられてしまったとき、人間たちの目に浮かぶ欲望を見て幻滅し、そして絶望しました。搾取の対象としてしか見られておらず、きっと生かさず殺さず、辛く苦しいだけの生活が続くのだと分かってしまったからです。
彼女は研究所で、ひどい待遇を受けました。毎日触腕を1本切り取られ、どこをつついたらどのような色の変化が起きるのかを観察され、血を抜かれたりもしました。彼女の自慢であった美しい髪は短く切り取られていました。その頃の人間は人魚の髪にまで効能があると信じ切っていたらしく、惚れ薬の材料にされていたのだそうです。惚れ薬の材料になるのは特定の種族の人魚の涙だけだということをその頃の人間は知らなかったのです。だとしてもひどい話ですけれど。汚い水に入れたらどうなるのか、なんて悪趣味な実験までされて、彼女はすっかり疲れ切ってしまいました。研究の時間と称して入ってくるたびに額の禿げあがり、顔の脂ぎった男が邪な気持ちを丸出しにしてじろじろと舐めまわすように見てくるものですからなおさら。彼女は絶望しきり、憔悴していきました。
ある日、担当の研究員が変わりました。いつも白衣をつけていて、痩せ気味で、黒髪黒目に丸眼鏡をつけ、人間の普通くらいの伸長をした冴えない見た目の男でした。
「……あなたの、名前は?」
彼女にとっては聞きなれた、馴染みのある言葉。海の中でいつも聞いていた言葉。力を込めずに歌うときの言葉。人魚たちの間の、公用語でした。衝撃を隠して、彼女は冷たくあしらいました。
「……それをあなたに教える必要があるのかしら?」
二人の初めての会話はこんな警戒しきった、淡白なものでした。
「すまない、先に僕が名乗るべきだった。僕は鈴木修。鈴木が名字で名前が修だ。どうぞよろしく」
「そういうことじゃないと思うのだけれど」
……否、多少ズレた人間と、警戒を解かない人魚の会話でした。彼女はため息をついてから下の名前だけを教えました。
「……セレンよ。苗字は教えない」
「助かる、これで今日の業務を終えられる」
「これが業務……?」
「ああ、今日の僕の業務は『人魚に関してとったことのないデータを取ること』だ。君の名前を聞いたことのあるやつはこの研究所に誰もいない。とすれば、これは立派な『とったことのないデータ』だ。そうだろう?」
「……変な奴」
目を輝かせる修に、触腕で水面を叩いてセレンがそう言えば、彼は眼鏡の奥のまなじりをふっと緩めて笑いました。
「研究員なんて変でなんぼだろう」
「……そんなものかしら」
「そんなものだよ」
「おかしな奴……」
ふんわりとしたその笑顔に少し毒気を抜かれた彼女はポツリとつぶやきました。
「さて、調査が終わったならあなたの食事を持ってこなければね。少し待っていてくれ」
その言葉とともに、修は背を向けた。ガチャリと扉が閉じられて、彼女は部屋に1人きり。目を閉じると、なぜだか彼の笑顔が脳裏に浮かんできて、セレンは1人首をかしげました。だってもう、自分は人間を嫌いになったはずなのに。なぜ、こんなにも。
「あいつの笑顔など、思い出してしまうのだろう?」
欲の含まれていない無邪気な笑顔でした。彼が戻ってくるまで、セレンはそのことをずっと考え続けていました。