免許皆伝
母が苦労して産んだ子は、女の子で家族みんな可愛がり大切に扱われた。母を除いて一番懐かれているのは時富だと思っている。時富が手を差し出すと、手の半分にも満たない小さな手がきゅっと掴み笑う。無邪気に笑う顔を見るとぎゅっと抱きしめて頭を撫でてあげたくなる。
「時富は、本当にお福をかわいがっているわね」
「はい、お福はたいへん可愛らしゅうございます。とくに頬が桃のようにふくふくしておいしそうだ、と」
「まぁまぁ、お福。兄に食べられてしまいますよ?」
困ったように母がそういうが、知ってか知らずか時富の腕のなかで機嫌よく笑っていた。
「とんでもありません母上、私がお福を食べてしまったら守ることが出来ぬではありませんか」
「すっかり兄上様になっていますね」
ひさしぶりに母に頭を撫でられ少しはずかしいが嬉しかった。そして時富が喜んでいるのがわかるのかお福がよりいっそう機嫌よく笑う。
「そういえば時富。あなた今日、狩野殿に呼ばれたのでといっていませんでしたか」
「そうでございました。行ってまいります!」
お福を母に預けるとあわただしく部屋から出て行った。まるでつむじ風のような、慌てように母はただ笑っている。
「いいことならいいですね。ねぇ、お福?」
「きゃっ、きゃっ」
ところ変わり狩野の屋敷。息を整えた時富が屋敷に入ると女中に施されて狩野の私室へと通された。そこには、とても機嫌のよい師匠が一人座っている。
「おぉ、時富来たか。私の前に座りなさい」
何が行われるかわからぬうちに師匠の前に座らされた。機嫌が良いのでたぶん悪いことではないだろう。しかし、師匠の機嫌がいいのはだいたい絵に関することなので自分とは関係ないはずであった。
「時富お前は、私に師事してから何年経った」
「五つの時からですから五年経っております。あと半年で六年です」
「うむ、あれほど小さかったのに今は大きく育ったからな。月日は、早い」
現在十歳になり時富は、人の目からみると少女に見える美少年に育っていた。ただ誰にも知られていないが男装の少女なので少女にみえるのは当たり前である。ただふつうの少女に比べ体を鍛えたためか五尺一寸(約一五四センチメートル)あり当時としては大きいので不思議がられなかったのだ。
「師匠、私はなんのためにここに呼ばれたのでしょうか?」
「時富、課題しだいでお前を免許皆伝にしようと思っている」
「免許皆伝!」
免許皆伝とは、読んで字のごとく。皆に教え伝えることが出来る免許である。それは、自分の全てを教えたという意味でもあり師事するものは皆これを目指すのだ。
「竹徳兄上が免許皆伝をいただいたのは確か十六の時のはずです。私は今、十歳です。何故にこのような……」
「だからのぉ、もう教えることがないんじゃよ。自分で狩野流を鍛えてくれ」
「……」
「それにの課題しだいでと私は言ったじゃろう。課題ができねば免許皆伝は渡さん」
時富は、居住まいをただし師匠に尋ねる。
「課題とは、なんなのでございましょう」
「山水画だ」
「山と滝か川がよく描かれている絵であっていますか」
師匠である狩野がよく幕府に注文されて描いていたのを見ている。炭の濃淡や筆使いなどの技法を最大限に使う絵かもしれない。山の雄大さや、清らかな水の流れ、時には鳥などの動物や、建物をいれたりする。簡単そうで簡単な絵ではない。
「うむ、それを描いて私の所にもってきなさい。とくに期限はもうけんから自分の中でこれだというものを持ってきてみよ」
「わかりました。師匠の期待に答える絵を描き上げましょう」
自信などないがそれだけは忘れずいったのだった。
師匠にあのような口を叩いたものの時富は、どういう風に描くか迷っていた。狩野派は、幕府に絵を献上するほどの名門である。特に優れているといれば技法や技術であり、それを磨くことこそ最上として写生をすることが修業であった。それ故に独創性が少なくなり人気がなくなっているという事実がある。
「狩野派なら技法や技術を見せればいいんだろうけど……。そもそも私は、生まれてこのかた江戸から出たことがないから山など見たことないんだよな」
「どうしたんだ時富?」
「由之助兄上」
時富が顔をあげると顔を赤らめた由之助がいた。最近、なぜか由之助は顔が赤い時が多かった。そのとき竹徳がいるとにやにやしていてちょっと怖い。
「その……なにか、困ったことがあれば言えよ。俺は、お前より頭がよくないけどお前よりは長く生きてるから助言くらいできる」
「ありがとうございます。でもこれは、自分で解決しなければいけないことなんです」
「俺が頼りないってことか」
「違いますっ。ただこれは、師匠が私に与えた課題。これが認められれば私は免許皆伝らしいのです。ですから私自身が頑張らねばなりません」
「めっ、免許皆伝? 兄弟子の俺よりお前が……」
目に見えて由之助が落ち込んでいる。それはそうであろう、先に修業の年月だけ言えば由之助の方が長い。でも師匠は、時富に免許皆伝の課題を言ったのだ。
「そうか……でも手伝えることがあったらいくらでもいえ。それくらいいいだろ?」
「はい、そういえば由之助兄上は山を見たことがおありですか。山水画が課題なのです。ですが写生したことはあっても近くで山をみたことがないのです」
江戸の城下には山がない。遠くに富士が見ることができるが山水画にでてくるような山ではないのだ。
「うーん? どの山を描けって言われたのか」
「いいえ、ただ山水画を描けと言われました」
「なら時富が思う山を描けばいいんじゃないか」
時富が思う山というと大きくて立派で力強いものだろう。岩が突き出て木が生えていたりとか。川はその岩の下あたりにゆっくり流れるのだ。ここら辺には、淀川があるけど何か違う。
「なにか思いついたんだな」
「はい、由之助兄上ありがとうございます!」
笑って言うと由之助は、寂しそう笑いながら頭を撫でる。由之助は、竹徳兄上と違って優しく頭をなでるので好きだった。
「お前は、自分の描きたいものを描け。その力がお前にはある」
「兄上?」
「あぁ、そういえば師匠に頼まれごとされたの、忘れてた。頑張れよ。時富」
「由之助兄上どうしたんだろう?」
不思議に思い首を傾げる時富であったがやることが見つかったので、急ぎそれに取り掛かったためすぐに忘れるのであった。
それからひと月ののち見事山水画を描き上げてみごと免許皆伝となったのである。その時、師匠狩野典信の号である『栄川院』の栄をいただき『栄之』と号した。この『栄之』という号は、破門されたのちも時富は使い続けている。
そして師匠から半年後に兄弟子の由之助が狩野の知り合いの商家に婿養子で入ることを聞かされる。めでたいことだと由之助に祝辞をいったら竹徳達兄弟子が呆れたような痛ましそうな顔を由之助にした。由之助は、苦笑するとありがとうとだけ言った。のちに婿養子となった由之助が二男と二女の父になったのは余談である。
もう一話投稿します