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満ちる

最終話です

 木に若葉が芽吹き、夕立が屋根を叩き、いわし雲が空を流れ、北風が頬を撫でるのを何度繰り返しただろうか。

その間に黒かった髪は白いものの方が多く、常に引き締めていた顔には、皺が目立つようになる。体が衰えようとも絵を描く欲は、収まることを知らずさらに増えている気がした。


「私はいつまで生きるのでしょうか」


 時富は、己の手を見て最近思う。肉が削げ皺が増え、骨が浮いた手は理想の絵を描くことに費やしてきた日々を思い出す。それとともに一生に一度の人に触れた手であり、死にゆく我が子を抱いた手でもあった。次々思い出す顔の人物は、時富を置いて行くような形で死んでいった。


「失ったものが多いように感じるが得たものも多い」


 納得のいく傑作を描く機会にも恵まれ、青楼美人六花仙は時富のなかでは傑作と行ってよい代物であるが、今ならばもっとよく描けていたのではないかと思っている。


 その後、将軍に依頼され制作した隅田川の絵が後桜町上皇に気に入られたと聞いた。浮世絵師が上方に認められたという証拠であり、嬉しすぎて印を作らせてしまった。

絵師としての喜びだけではない。甥と姪の元服まで見ることが出来た。ただもし我が子が生きていたらとふと思ってしまうことも確かだ。


「こんな風に過去を振り返るとは歳をとったものです」


 数え七十を過ぎてからふと思ってしまうのだ。もしあのとき別の選択をしていたら変わった現在になっていたかもしれない。狩野に弟子入りしなければ、浮世絵師にならなければ、家治様に会いに行ければ、喜多川を受け入れていれば……考えつく選択は尽きることがない。

 しかし同じ選択を迫られても違う選択をしないであろうと。どの選択もその時々に合わせ自ら選んだ最良の選択だった。女とばれることなく絵師として成功し、最愛の人まで得た。これを幸運といわず何というか。

 時富は、目を閉じて己の内を見る。そうすると謙虚に生きてきたつもりであったがなんと強欲かと思った。嘘をつき続けた己は、きっと地獄におちるであろう。きっと家治様と同じ場所に行くことが出来ない。


「母上、母上」


 人の気配などなかったのに声がする。不思議に思いその声に問いかけた。


「母上と呼ぶのは誰ですか」

「時治です。迎えに参りました」


 そこにいたのは愛した男を一回り以上若くしたような少年だった。きっと生まれた赤子が成長していれば見れたはずの姿。起きていたつもりだったがいつのまにか昼行灯になっていたのか。どちらにせよ嬉しい夢に代わりなく堪能することにした。


「あちらでお父様もお待ちです」

「お父様とは家治様のことですか。私が家治様と同じところに行けるわけがない。私はずっと嘘を吐いておりました。きっと地獄に行くはず、ならば家治様と同じところにいけるわけが……」


 時治は、満面の笑みで話続ける。


「母上が私のためにと描かれた地蔵菩薩が素晴らしいと閻魔が罪を赦したのです。ですから私も親不幸の罪を軽減され母上を迎えに来ることが出来ました。一緒に極楽浄土へ参りましょう」

「私の絵で……おぉ、地蔵菩薩よ!」


 時富は、子の死を嘆き描きあげた絵が正しく子の役にたったとはなんたる幸運かと涙した。そしてその絵により罪を赦され家治と同じ場所に行けるとは、まるで夢のようだ。


「だが、家治様はこんな老婆を……」

「母上何をおっしゃいます。母上はいつもお綺麗ですよ。ほら」


 時治が時富の手をとると手から皺が消え節もなくなり若い頃のように体が軽くなった。


「あちらで母上を待っておられる方が多いのです。喜多川おじ様や、曾お爺様、古山先生、あと母上の兄弟子の方々。いっぱいいるのですよ!」

「そう、ならいきましょう。私は、私がやるべきことを終えたのですね」

「はい。あちらについたら私の話も聞いてくださいね。母上」


 部屋中が光輝き時富は目を瞑り光が収まると同時に懐かしいも胸が熱くなる声に呼ばれた。


「時富」


 恐る恐る目を開けるとそこにいたのは愛しい人で、込み上げるもののままに時富は駆け出しました。いままであった沢山のことをかたりあいたいとずっと胸に秘めた思いとともに。


「家治様!」






「お師匠様、お客様をお連れしました」


 いつもならばすぐに返事を返す時富が返事を返さない。弟子は、まさかと思い返事を待たずに障子を開けるとそこには幸せそうに微笑みながら、目を瞑り机に体を預けている時富がいた。ただ寝ているだけならいいがどこかおかしい。


「お師匠様!」


 弟子は、慌てて時富を揺するが起きない。


「待ちなさい。私が見よう」

「はい……」


 客人が時富に触れると生きた人の体温ではなくなっていた。


「亡くなっている……」

「そんな、お師匠様! お師匠様ーー!」


 文政十二年七月二日に、細田時富こと鳥文斎栄之は七十四歳で亡くなっている。彼の人物は、五百の旗本の長男として生まれ狩野で学び家治のもとで小納戸役を勤めたものの辞し浮世絵師となった。そのため現代では、絵が素晴らしいが変わり者として知られている。


 変わり者と言われようとなぜ細田時富は、浮世絵師となったのかそれはさだかではない。

長く読んでいただきありがとうございます。これにて本編は終幕です。外伝を一話日を置いて投稿したいと思います。

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