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足跡

 喜多川と仲違いしたのち、また会うことなく亡くなってしまった。話に聞くと過労で倒れそのまま亡くなったという。時富はそれを聞きたぶんまともに食事もせずに絵を描いていたのだと思った。

初めて喜多川のいた長屋を訪れると、そこには描きつけたとみえる大量の紙を片付ける市太郎の姿があった。


「市太郎殿」


 時富が市太郎に声をかけると驚いた顔ののちに表情を曇らせる。


「細田様……」

「お悔やみ申す。亡くなるには……とても惜しい人だった」

「ならなんで、なんで師匠を止めてくれなかったんですか!」


 市太郎は、時富に掴みかかるが時富は押された勢いで後ろに下がったものの倒れることなく静かにしていた。


「俺がいくら休めって言っても休まないし、ちゃんと食ってくれって言っても食わない。師匠と同じところに立つ細田様なら……師匠も聞き入れてくれたかも知れないのに……」


 最初は大声だったものの最終的に小さくなっていき黙ってしまった。市太郎は、涙を耐えているのだろう歯を食い縛り眉間に皺が寄っていた。時富は、市太郎の頭を肩に押し付けた。


「すまない」


 時富が一言いうと市太郎が嗚咽し、子を励ます母のように市太郎の頭を何度も何度も頭を撫でる。


「落ち着いたかな?」

「なんか母ちゃん思い出したんですけど」

「この歳になれば男女の差なんてほとんどないよ」

「そんなもんですかね……?」


 市太郎は首を傾げるが、時富はしらを切りつづけた。いまさら女だと公言されても雲隠れすればいいので問題はない。取り上げた産婆も、医者の古山先生もこの世にいないので隠すことは簡単だった。


「喜多川殿は、最高傑作を描いて亡くなったようですし次は私が描く番でしょう」


 喜多川は、亡くなる前に三部作「雪月花」の「深川の雪」を描き上げている。この三部作、実に優美で華やかかつ人物一人一人の特徴を描いていて見てしまったら負けたくないと絵心を刺激されるものだった。


「市太郎、あなたは筋がいい。だから精進するのですよ」

「はい」


 市太郎は、少し吹っ切れたらしく晴々しい顔をしている。それに安堵しつつ時富は、次の場所を目指した。




 そこは何のへんてつのない寺で、多くの墓が並び花や菓子などが添えられている。その墓の間をぬうように時富は、進みある墓へとたどり着く。


「うるさい男だったというのにずいぶん静かになったものだな」


 時富は墓を見下ろし花を添え、殺風景な墓場に鶏頭の赤が逆にこの場の寂しさを助長させているような気がした。


「ずいぶん派手なものを供えると思ったらお侍さんかい。あの人も顔が広いんだねぇ」


 声がして振り向くといまが盛りという歳の女が桶を持って立っていた。腹に子がいるのか少し膨れている。


「あなたもこの墓に用があるのか」

「そうさ、喜多川はあたしの恩人でね。旦那に無理を言ってやっと来れたのさ」

「恩人とはどういうことか。人助けをするような人物ではなかったと思うが」


 絵師としては、一流だが色々と破綻していた人物である。恩人という言葉が結びつかない。


「喜多川は、あたしの絵を描いてくれたんだ。それからさ、あたしの指名が多くなって身請けされることになったのはね。あたしは、普通の暮らしが夢だったんだ。旦那がいて子どもがいて老いて死ぬことが出来る機会をくれた来た喜多川に感謝してるよ」

「そうですか」


ただ絵を描くのが絵師である。絵の評価をもらいこそすれ感謝などもらうことなどほとんどない。


「生きているうちに礼を言いたかったねぇ。あたしは、絵を描いているときしか知らないんでどこの人幸せだったかい」

「それは私にはわかりません。喜多川と私は好敵手だったけれど知っていることなんてたかがしれます」


 突然女は、驚いたように目を見開き時富を見る。女の態度に時富は、変なことを言ったかと思ったが何度考えても変なことは言っていない。


「もしかしてあんた……えいしって人かい」

「鳥文斎栄之と名乗っています。どうかなさったか」

「喜多川が前に言ってたんだよ。絶対に負けたくない絵師がいる。そいつがいるからもっともっといい絵を描こうと思えるってね。誰だって聞いたら栄之っていう奴だって。まさかお侍の絵師だとは思わなかったねぇ」


「そんなことを言っていたのですか」


 時富は、喜多川が眠っている墓へと視線を移し見る。喜多川が時富を好敵手だと言ったことは、いままでなく時富の独りよがりだと思っていた。


「それにしても喜多川は幸せ者だね」

「なぜそう思う。先ほど幸せかと聞いたのに」

「あんな適当な態度で実は寂しがり屋の喜多川がさ。死んでも自分のこと考えて泣いてくれる人がいるのは嬉しいんじゃないかってねぇ」


 時富は、気がつけば頬が濡れていて風が吹く度に冷たさを感じることに気がついた。それが涙によるものだとわかるとすぐに着物で涙を拭った。


「泣いてなどいない」

「隠すことじゃないと思うけどね。まぁ、いいさ。あたしは水をやったら帰らせてもらうよ」

「そうか、私は花を供えにきただけだからもう帰る」


 もの言わぬ石へ丹念に水を与える女を残し時富は、胸にしこりが残るまま喜多川の眠る墓を去ったのだった。

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