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「戻った。私が留守の間何かあったか?」


 玄関に入りそういうと弟子達が雪崩を起こして出てきた。時富の伊勢参りは、途中の寄り道により当初の予定を大幅に過ぎて三年となっていた。


「師匠、帰ってくるのが遅いですよ!」

「富士の山が見たくなってねぇ。やはり富士は、偉大で美しいね。ついつい筆をとってしまったよ」

「富士にまで行っていたんですか……」


 やはり絵師ならば一度は近くで富士を拝むべきだろうと富士周辺を回っていた。どの辺りからみても富士は美しく雄大であった。


「出来れば都まで足を伸ばそうかと思いましたが甥の元服を見たいと思いましてね。帰ってきました」

「それより、師匠聞いてください! 喜多川歌麿が捕縛され手鎖になりました」

「手鎖! 絵師に手鎖とは……」


 手鎖とは投獄するほどでもないほどの軽い刑で自宅謹慎させるものである。内容としては、手に鎖をつけて見回りに来た同心に鎖を外していないか確認される。もし鎖をはずそうとすればもっと重い刑を受けることとなる。しかし手が使いにくいとは絵師としては致命的なことであり決して軽い刑ではない。


「どうしてそのようなことになったのです!」

「噂ではお上の気に触る絵を描いたとか、禁止されているものを描いたとか」

「喜多川殿に限って刑を受けるような絵を描くなど」

「それが描いたんだな」


 掠れた声が聞こえてそちらを見ると話に上がっていた喜多川が力なく笑っていた。時富は、喜多川に対し非常にやつれている印象を受けた。


「飲み物と菓子を持ってきなさい」

「はい、師匠」


 弟子達に指示すると時富は、喜多川に向き直る。


「あなたはこっちです」

「えっ、ちょいと待ってくれよ」


 時富は、問答無用で喜多川の着物の襟を掴み客人の部屋へ連れていく。その際にふと時富が思ったのは前よりも喜多川が軽いような気がした。


「きちんと食べているのですか」

「気がつけば食べている」

「それは気がつかなければ食べていないととっていいということですね。絵を描くことが出来ぬとはいえ、体の調子を良くしていなければ絵は描けませんよ」

「違いねぇや」


 時富は、喜多川を引きずったまま客間に入り喜多川を離す。喜多川も慣れたもので座布団を引き寄せそこに座った。


「手鎖の理由は」

「豊臣の花見の絵を描いた」

「なぜ、そんな絵を描いた! 死にたいのか!」


 時富は、喜多川に怒鳴りつけるのは無理もなく、豊臣秀吉をそのまま描くことは禁止されていた。さらに言えば豊臣家は、秀吉の後没落の一途を辿っており現在諸大名になっている。家治の次に将軍となった家斉は、倹約に努めていた先代と違い贅沢な生活を送っていた。似たような境遇ゆえに将軍家は、家斉の代で没落すると揶揄させるようなもの。手鎖程度で済んだのが奇跡と言ってよい。


「あっしにとって最高の絵を描こうとしただけよ。浮世絵師っていうのは浮世絵を描くってもんだ」

「だが限度が……」

「最高傑作を描いてあっちに持って行く気概がないのかと言った御仁の言葉とは思えないね。いくらあんたでもあっしは、言うことを聞くつもりはないよ」


 喜多川の言葉に旅へ出る前のことを思い出す。喜多川を生かすために言った言葉が、いま喜多川を殺そうとしている。そんなことはやめて欲しいというのは簡単だが、そんな言葉で覚悟を決めてしまった喜多川には届かないことは時富自身よくわかっている。


「私では止められやしないでしょう。ただひとつ聞きたいことがある」

「聞きたいことかい?」

「喜多川殿は、いま幸せか」


 喜多川は、すぐに口を開くことがなかった。だが拳を握ると口を開く。


「あっしが進む道に修羅や鬼がいようと描くしか残っていないんだ。なら黙って描かせてくれ」

「そうか」


 時富が返事を返すと喜多川は立ち上がった。


「あっしはこれくらいで帰らせて貰うよ」

「早いね。もう帰るのか」

「手鎖が外れたら絵を描こうと思ったが、先にあんたの顔をちょいと拝みたくなっただけさ。そいじゃな」


 喜多川は、あっという間に帰ってしまった。そこへ茶と茶菓子を持ってきた弟子が首を傾げる。


「喜多川さんはどこに?」

「帰りました。準備してもらったのにすまないね」

「いえ、でも。師匠は、あれでよかったのですか」

「あれが私にできる手一杯さ。鳥のように飛び回る喜多川殿に必要なのは、休むための大樹だよ。同じように飛ぶ私では、役割が違う」


 時富は、弟子から茶を受け取り飲み始める。いつの間にか緊張していたらしく固まった体に茶が染み渡るようだった。ふと弟子の顔を見ると不服そうな表情を浮かべている。


「お前ならどうしますか」

「俺ですか」

「えぇ」


 弟子は、問いかけられるとは思わなかったらしく考えこむ。急ぎのこともないので静かに茶を飲み待った。


「たぶん、危ないことをしたら殴り付けてでも止めます」

「殴る……のですか。それでは相手が痛いでしょうに」

「だって危ないことしてもし死んでしまったらもっと痛いと思うんです。痛いのは嫌だから……たぶん危ないことも止めるかなって。悪いことして父ちゃんに頭に拳骨もらったときそういってたから」

「そうですか」


 時富は細田家の長子として大切に育てられ、城に仕えた時も気のよい友人に囲まれてきている。だからか殴ってでも言うことを聞かせるというのは想像つかない。


「あっ、あの! その色々やり方があると思います。ただ俺はその喧嘩で語るろいうか」

「火事と喧嘩は江戸の花ですからね。あぁ、そうだ。土産を買いましたからみんなで食べましょうね」

「はい!」

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