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好敵手

 喜多川殿の細君、りよ殿が亡くなったと風の噂で聞いた。

 最近我が家に、喜多川が現れることがないと時富が気がついた頃の話である。時富は、喜多川の細君が亡くなったからといって特に何かするつもりはなかったが弟子たちは違うようで時富の顔色を伺っていた。そして時富がなんの反応を寄越さないと溜め息をつくのだった。

 しばらくすると喜多川は、ふらりと時富の屋敷に訪れた。だがその様は、いつもの人を食ったかのようなものではなく重苦しく澱んでいた。時富は、客間に茶を出すように弟子に言うと喜多川を客間に通すと口を開くことなくただ座っていた。


「お前さんは何も言わないのか」


 喜多川は出された茶を飲むでなく、開口一番の言葉がそれであったが時富は何も返さず茶を啜った。茶を半分飲んだところで喜多川に視線を向ける。


「何か言ってほしいのですか。細君が亡くなりおかわいそうに、持ち直さなければ細君が報われない、細君は幸せだった……」

「それ以上言うな!」


 喜多川は、時富の言葉を遮ると拳を畳えと打ち付けるがそれでもなお収まらないようで強く歯を噛みしめていた。


「お前さんなら……お前さんならわかってくれるだろう。あっしの苦しみが!」

「わかったとてどうすればよろしいのです。冷たい言い方だとわかっているが私は喜多川(あなた)ではない。だからあなたの苦しみは理解できない」


 時富はまったく表情を変えずに言いきるが、喜多川にはそれがしゃくだったようで今にも飛びかかるような雰囲気を匂わせた。


「私はあなたが何について苦しんでいるのかわからないのです。細君を亡くしたことか、天涯孤独になったことか、先に対する不安か。それか……自分を愛してくれるものがいない……っ」


 最後まで言いきる前に時富の体は、喜多川によって床に倒され打ち付けられた背が熱い。だがそれよりも身の危険を感じていた。


「あんたは結局わかっているんじゃないか! あっしが大事な人の死よりも自分可愛さが優先になっているってなぁ。本当にあっしは……」

「喜多川殿、自分優先になるのは……仕方のないこと。それが生きているというものです。死者に合わせて生き続けることなど出来ない。本当に合わせたいならば自ら……死ぬしかない」


 時富は、伝えたいことを違えぬように伝わるように言葉を紡ぐ。紡ぎ渡す相手は、喜多川なれどその言葉はまるで自分に言い聞かせているようにも思えた。


「私は大事な人とその子を亡くしました。御家の為に跡継ぎが出来るまで死ねないと言い聞かせ生きてきました。だけども甥が生まれ私は、死ぬことによる弊害がなくなりましたが死ねませんでした」

「なぜ」

「妹や甥、弟子、そしてあなたに私と同じ思いをさせたくなかった。私は死んだ者よりも生きている人を優先することにしたのです」


 生きることに決めた時富は、罪悪感や後悔を持っているがそれでも日々が楽しく発見が多い。最近では冥土の土産と割りきるくらいには図太く生きている。


「生きることに決めた私を置いて先に死にますか。私の好敵手である喜多川歌麿というものが情けない」


 時富の溜め息に目の前の男は根っからの江戸っ子喜多川で勝負を吹っ掛ければ買わずにはいられない。


「りよ殿は、とんだ腰抜けと所帯を持ったものですね。稀代の絵師と言われているのにこの程度で潰れるなど。私としても拍子抜けです」

「もう一回言ってみろ。腰抜けだ? 拍子抜けだ? 言ってくれるじゃあないかい」


 喜多川の怒りの声とともにその瞳には、強い光が現れる。強者に睨まれつつも世間を飄々と生きている喜多川歌麿という浮世絵師がまた戻ってきたのを感じた。


「何度でもいいましょう。女一人で覇気を無くす腰抜けではりよ殿が可哀想だと。そもそも貴方には絵しかないのです死ぬ直前まで絵を描いて最高傑作をあちらに持っていく気概くらい持てないのか」

「わかってる。あー、くそ! 描いて描いてやるぞ。あの世にまで喜多川歌麿の名を広げるくらい有名になってやらぁ」


 喜多川は、時富から潔く離れると来た時と違い凄まじい勢いで出ていった。時富は、急須に残った冷たい茶を飲むと一息つく。今回の喜多川は、過去の自分自身を見ているような気分だった。


「師匠」

「信保、どうしました」

「怪我は……どうですか」

「この程度ならそのうち治る。心配をかけたようですね。でもこれは必要なことでした」


 時富にとってもこのことは非常に大きな出来事になりこれからのために大きな決断をする。


「旅に出ましょう」

「旅って今描いているうえに頼まれているのが……」

「なんと言おうと描いているのが仕上がったら伊勢参りに行きます。今行こうとしなければ今後も行かないでしょう」


 伊勢参りは、過去の清算のため行きたかったことだった。時富は、最近の絵筆の運びに迷いを感じておりただ絵に打ち込むには、多くのものを持ちすぎたと喜多川との会話で思ったのだ。


「うかうかしていると喜多川殿に負けます。さぁ、描きますから手伝ってください」

「はっ、はい!」

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