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月見

 今日は綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでおり、酒とちょっとしたものを肴に一人飲んでいた。昼間は弟子たちで煩い屋敷も本当に静かだった。


「月が綺麗な日さね。あっしもお相伴に預かっても?」


 隠居した身とはいえ武士の館に入るとは何事かと、喜多川に言いかける。しかし不意に一人で飲むのもつまらないとも思う。


「飲ませてもいいが杯がない」

「それじゃあ、この酒はあんたのいい人のためのやつかい」


 時富が持っているものとはまた別の盃が酒の瓶の横に置いてあった。盃には月が写りこみ小さな器に収まっている。


「……えぇ」


 時富は、返事をかえすと台所に行って盃をとってくる。弟子達はよく眠っているようで、時富が台所を漁っても誰も起きてこない。


「これで」

「いや、悪いね」


 喜多川は、盃を渡すと酒を自分で注ぎだした。


「意外に安い酒を飲んでるんだねぇ」

「思い出の酒でね。好きじゃないんだが飲みたくなるんですよ」


 家治様は、高い酒はよく飲むが安い酒はあまり飲んだことがないと自分に頼んで飲んでいた。一度飲ませていただいたが、御前酒はなんとも味わい深いものだった。将軍家と大名しか飲めぬのも当たり前と言って過言ではない。


「なるほどねぇ。今でも昔の人を想って酒を飲みつつ月を見ると。あんた実は家具屋姫だったのかい」

「呆けも休み休みにしなさい。ですが確かに故人を偲んで酒を飲んでいます。自分にとって三日月は良い思い出なのですよ」

「というと」

「私は三日月が嫌いでね。首を傾げてあれを見ると私が惨めだと嘲笑った口に見えるんだよ。ついそれを口に出したらあの人は、あれは私を見守って微笑んでいるんだと仰った。天にいる母上や父上が見守っているのだと」


 そう言っていた家治様の口元も三日月のようで、胸が早鐘を打ったかのようになったのも時富には良い思い出だ。家治のあの言葉でさらに惚れ込んだともいえよう。


「その人随分なたらしだねぇ。あんたにそんな顔をさせるなんてさぁ」


 喜多川は、笑いながら時富の顔について曖昧な言葉を吐く。曖昧な言葉は、話の要点を時富に掴ませずすり抜ける。だが意味がわからないと口に出すのは面白くない。


「あんたその人のこと好きで好きでたまらないって顔をしているよ。ここに筆と紙があったら描いてみたいほどさ」

「冗談はよせ。それともその程度で酔ったのか」

「そりゃ酔うさ。そういやお前さん顔色が変わりやしないね。笊かい」

「兄弟子がそんなことを言っていました」


 そういえば兄弟子達は、元気だろうかと気にかかった。

 最後に手紙を出した時は、竹徳兄上が一回り年下の嫁をもらったと書かれていた。竹徳兄上に振り回されるであろう細君に同情を覚えたが、振り回されているのは徳松兄上の方だそうだ。この手紙を書かれた重信兄上曰く鬼嫁だと。続きの話をぜひ読みたいので近々手紙をだそうかと時富は思う。


「やっぱりあんた酔ってるね。顔がころころ変わっているよ。今はずいぶん楽しそうだ」

「三日月に飲んで楽しいのは久々ですね」

「酒は楽しんで飲むもんさ。辛いことも、苦しいことも、痛いことも酒と一緒に飲んで忘れちまえ。どうせ生きるなら楽しいことや、嬉しいこと、面白いことをいっぺぇ覚えた方がいい」


 嬉しいことといえば、二年前ついにお福と時豊の間に細田家を継ぐべき男児が生まれたことだろう。まだ完全に安心することはできないが、長年時富の重しとなっているものが一つ取り除かれたともいえた。そしてお福は、子を産んでも身体を壊すことがなかったことも一層時富を嬉しくさせている。


「そういえば最近甥が私のことをトキと呼んだと思ったら父のこともトキと呼ぶのだ。あれには笑ったな」

「あんたのところみんなトキさんだからねぇ。甥の名前はなんて言うんだい」

「時吉だ。祖父、父、私、義弟、甥の五人に時がついている」


 代々家を継ぐ男児は時がつくことになっている。ややこしいと思われるだろうが、家によっては同じ名前を使っており何代目誰それと呼ばれる人もいるのだ。


「それじゃあ、トキなんて呼ばれるわけよ。面白いもんだねぇ。ところでお前さん今どんな絵を描いてるんだい」

「今はとくに描いていないな。そのうち見聞を広めるために旅をしながら絵を描こうかなんて思っているよ」

「旅をしながら絵かぁ。あっしは、人を描くのに飽きたらそういうことするのもええな。今は人を描くのが楽しい。一枚の紙にどうやって感情を込めるかまだまだ修行が足りないね」


 普段無頓着な喜多川は、絵に関しては非常に貪欲な男で幕府の妨害にあってもなお、自らが表したいものを追い求める。


「私は、たまにあなたが羨ましいよ」

「奇遇だね。あっしもだよ」

「私に喜多川殿が羨ましがるようなものがあったでしょうか」

「あっしには、家族がいないんだよ。小さいころに師匠の所に放り込まれてそれから血を吐くくらい絵を描いたのさ。いまは、りよがいるがりよがいなくなるとあっしはまた一人。そこのところあんたは妹や甥がいる」


 そこまで言って喜多川は、手の内の盃に視線をおろす。いま三日月は、雲に隠れて見えていないそれは喜多川の心情を表しているかのようだった。


「でもまぁ、あっしにゃあおさむらいの堅苦しい生活は耐えられんからこれでええかねぇ」

「私は、貴殿のように家族に心配をかけたくないので確かに今の生活の方が好ましいですね」

「その言い方じゃあ、あっしがまるで家族を省みない駄目男みたいじゃないかい。確かに迷惑をかけてるけどもあっしが描くとなぜか規制が強くなるのが原因なんでさぁ。あっしは悪いことしとらんちゅうのに」


 喜多川が描く絵は、庶民に人気がありたちまち売り切れる。それゆえに贅沢を禁止させたい幕府は、喜多川は目の上のたん瘤のような存在であった。

 さらにいえば喜多川に絵を禁止させたい。だが抑制された欲が暴れるのが恐ろしいのは、何度も一揆を起こされ苦労させられたので知っている。

 よって幕府は、妥協点というお触れを出す程度でとどめていた。


「出る杭は打たれるという諺があります。もし打たれたくないのであれば目立つことを控えた方がいいでしょう。貴方には後ろだてがいない。なにかあればすぐですよ」

「忠告かい?」

「えぇ、そうです。貴方の筆が折られるには……惜しい」


 少なくとも時富の絵とはまた別の魅力に溢れた絵だ。そして喜多川の絵は、喜多川にしか描けない唯一のもの。他のものでも似た絵を描くことが出来るだろうがそれは似たものでしかない。


「好敵手にそこまで言われちゃあ気をつけるしかないな。さてと丑三つ時前に家に帰りたいから失礼するよ。また遊びにくる」

「来なくてよろしい。絵だけ送りなさい」

「きつい言葉だ。またな」


 喜多川は、腰を上げると江戸の闇に溶けていった。時富も最後の一杯を飲み干し月を見上げると寝所に戻ったのだった。

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