別れと決意
子を亡くした時富は、当主としての責務をしつつ死んだ子の供養のために絵を書き続け少しずつ子が亡くなったことを受け入れた。それと同時に嫁にまで所望されていたのに家治と一切連絡を取っていなかったことに罪悪感が募っていた。
その矢先、橘と立花が屋敷へと訪れた。二人に会ったのは、小納戸役を辞めて依頼なので三年ほど経っている。
時富は、喜んで客間に二人を通し歓待したのだったが二人の様子がどこかおかしい。何がおかしいのかわからぬまま茶と菓子を出した。
「お久しぶりにございます。橘殿、立花殿」
「あぁ、またか音が同じだからややこしい。俺は、豊助でこいつも仁三郎にしてくれと前も言っただろう」
「そうでございましたね。お懐かしい」
子ども時代とは違った楽しい思い出を懐かしんで時富の口元が綻ぶ。
「元気そうだな」
「はい、仁三郎殿も益々ご健勝そうでようございました。城の武技を競う催しで良い成績を収められたと聞いております」
「そうだよなぁ! この無愛想で修行ばっかやってる奴がかわいい嫁さんもらって腕まで上げたんだから狡いよなぁ」
橘が立花の背を思い切り叩くがどこ吹く風と通用していない。時富から見れば青あざが出来そうなほどの勢いで大丈夫かと心配になってくる。
「豊助は、怠けず鍛錬すれば強い。なのに鍛錬しないから弱い」
「俺は、お前と違って頭を使ってるから疲れ方が違うんだよ」
ここでいつも喧嘩になるがお互いいい歳なので取っ組み合いや殴り合いには、ならず口喧嘩をずっとする。時たまそれで収まりつかない時は、近くの道場に場所を貰い一戦交えてしまうのだった。
「ととっ、仁三郎と喧嘩している場合ではなかった。時富に言うことがあったんだ」
「私にですか」
時富は、二人の態度からわざわざ屋敷に訪れた理由がそれだと察しそれがさきほど感じた違和感の正体なのではと思う。
「上様が亡くなり申した」
「亡くなり申した……? 橘殿、そのようなことを申されるなど不敬ですぞ!」
時富は、声を荒げて橘を睨み付けるが一向に訂正する様子が見られず隣に座る小納戸役の立花も同様に口をつぐみ下を向くばかりだ。
「立花殿、嘘だと仰ってください。昨日も上様に剣の稽古をなさったのでしょう。先々代を尊敬していらしたあの方がなさらないわけがない」
「あの方は、昨日御罷り申した。本来ならば一ヶ月秘匿されることだが亡くなる直前に遺言を頂き時富殿にこれを渡すようにと」
立花は、時富に文を渡した。時富は、すぐに中を見たい思いにかられるが何が書かれているかわからないものを二人の前で読めなかった。
「要件は済んだ。俺達は帰らせてもらう」
「つい先程来たばかりではありませぬか。客人をすぐに帰すのも……」
「相変わらず堅苦しいやつだな。それとっとと読みたいんだろう。悪いって思うなら今度別の機会に屋敷に呼んでくれ。美人の妹さんも見たいからな。それじゃあな」
ひらひらと手を振り橘が部屋を出る。立花は、一度時富に頭を下げると橘を追うようにして出ていった。
時富は、二人がいなくなり途端に静かになった部屋で渡された文に目を通す。そこに書かれていたのは時富に先に死ぬ己を詫びたものだった。
「詫びを言わなければならないのは私の方なのに」
最後の文を読もうと見るとそれは、優しく微笑む女の絵であった。いや正しくは、男の格好をした女である。嬉しさと恥ずかしさに時富は、誰もいないというのに手で顔を隠した。
「家治様の目には、私はこう映っていたのですね」
時に人を見透し、時に、時に身を焦がすような激情を発露した瞳を思いだす。そしてそれを見ることが永久に出来なくなってしまったことに、体から体温という体温が抜け落ちた。
この絵を見るまで家治様が亡くなったことが信じきれなかったのだ。亡くなったからこそ恥ずかしげもなく自分にこれを渡すことにしたのだとも。
「子を亡くしたからといって……家治様のことを忘れ一人悲しんでいた私を労って頂けるなど」
時富は、涙が溢れそうになるがこの絵にかけて泣かないことを誓った。泣かなければこの絵をずっと見ていられる。この胸の苦しさを生涯忘れることがないようにとその絵を瞼の裏に焼き付けた。
それから時富は、家治の肖像画を家治が眠る寺に蔵めるために二年半もの月日をかけて書き上げたのだった。
将軍家治が脚気で死去してから三年後の寛政元年(一七七九年)。時富は、病気を称して致仕、隠居し妹お福に和三郎を婿入りさせ時豊と名乗らせ家督を譲った。これは、病死した将軍に憚っての行為だと後の世では言われている。




