修行
狩野に師事するようになってから一年が経った。跡継ぎとしての勉強と並行して絵を習っているのでなかなか大変だ。兄弟子とは、うまくいっており時富自身も懐いていたというのもあるのだろうが。
「時富! 炭と水を用意してくれ」
「はい!」
今は、まだまだ下っ端なので師匠と兄弟子の手伝いが主に自分の仕事になる。最初は、なんで筆を握らせてもらえないことに腹がたった。絵を習いにきたのに手伝いしか出来ないのだ。その不満を祖父にいったら怒鳴られた。
「馬鹿者! 何かをするには、まず基礎というものが必要なのだ。刀を使うには刀を振る力が必要だ。会計をやるには字や計算を覚えなければならん。そのくらいのことくらいで弱音を吐くように育てた覚えは儂はない!」
いつもは、ニコニコとしている祖父が怒鳴るので涙が出てきた。時富の涙を見た祖父がさらに怒り出す。
「細井家の男児ならばこれくらいのことでなくでない!」
「……はい、お爺様」
このときの時富は、周りの子どもと自分に対して違いなどなかったから女だということを知らなかった。だから時富は、男児という言葉になんの違和感も感じずに返事を返すのだった。
このすぐあとに父が間に入りその場は治まった。しかし筆を握らせてもらえないという状況は変わらないので祖父の言葉を深く掘り下げ絵の基礎とはなんだろうと考えてみることにした。。そのために兄弟子の様子を観察した。
兄弟子の由之助は、時富の一つ上の弟子だ。時富が来るまで一番下っ端であった。最近は、師匠と兄弟子の絵の道具を揃えてから水の準備をし飯ごろなら食事の準備を行う。もちろん食べるのは最後だ。それ以外は、じっと師匠や兄弟子が描いている姿をみている。たまに席を立ち足りなくなったものを持ってくる。
「おい、昼食ったあと眠いのはわかるが寝るなよ」
「はい、先輩」
返事を返しつつもやはり眠い。でも今日は、自分になにが足りないのか由之助をみて観察するのだから寝るわけにはいかない。
「それにしてもなんでお前ここに弟子入りしたわけ」
「なぜといいますと?」
「俺らと違ってお前跡取り息子だろ。俺や、上の弟子は家継げないから確実に稼げるものじゃないとのたれ死ぬけどさ。跡取りならそんなことないだろ」
そういえば跡取りでここに弟子入りしている人物がいない。寺子屋仲間に聞いてみたら弟子入りしているが絵師にではなく剣術の師範らしい。でも自分の剣の腕はとうに諦めている。いくらがんばっても体力がなく体が考えている動きに追い付かない。
「跡取りといっても領地をもらっているわけではないです。だから城にあがり名を上げねば食べていけないのは変わりません」
「あー、そうか」
それだけが聞きたかったのか由之助は、それきり黙ってしまった。なぜ唐突にそのようなことを聞こうとしたのであろうか。そもそも立場が決まっているだけで皆同じなのではなかろうかと思っている。
だがそこでなぜ絵を描きたいのであろうとふと考えた。兄弟子たちは、師匠のお墨付きもしくは免許皆伝を貰えば城のいい登用が決まるかもしれないから必死になってやっている。しかし時富は、どうであろうか。もしも絵が駄目ならば字も計算も出来るから寺子屋で推薦をもらい祖父と同じ勘定方にいく可能性が高い。そう、兄弟子たちと違い切羽詰りする理由がない。自分のはただの遊びに近いのだ。
だから『努力』と『辛抱強さ』、『決心』が足りない。
もしかしたらそのことを見抜かれ筆をとらせてもらえないのだろうか。絵師は、対象をよく見ることが必要で時には髪一本果ては目に見えぬ雰囲気を絵にする。そのなかでもひときわ腕のよい絵師の師匠なら駄目な性根に気がついていたのかもしれない。
「よしっ!」
とりあえず今日わかった弱点を克服してみようと時富は思ったの。
それから一か月ほど後に時富は、絵を描いてよしと狩野から言われたのだった。
「う~、自分の絵を描きたい」
絵を描いてよいと言われて早四年たち今年で十歳になっていた。
「何言ってるんだ時富。まずは、師匠の絵を写すところから始めるのが狩野流だぞ。写すことで師匠やその先人たちの画風を研究しよりよい絵を描くんだ」
兄弟子の由之助は、絵を写しながら答える。時富は、絵が描けるのはうれしいのだが写すだけなのは大変つらく好きに描くことができるからこそ面白いと思っていた。そして時富は、まだ気がついていなかったが絵の才があり兄弟子の由之助よりも上手だった。
「なんだ時富、また唸っていたのか。どこぞの犬が入り込んだのかと思ったぞ」
「竹徳先輩! いらしてたんですか!」
「ついさっきな」
山本竹徳は、狩野の五番目の弟子で三年前に免許皆伝になり全国を渡り歩き絵の修業をしている。とにかく気さくで面倒見の良い先輩なので時富は、とても懐いていた。
「今度は、どこまで行かれたのですか!」
「山城だ。都にも寄ったぞ」
「都にもいったんですか竹徳兄者!」
いつも年長顔で時富を叱る由之助まで目を輝かせて竹徳の話を聞く。このころの旅というのは、大体が自らの足が頼りで日本橋から京へ着くのに約十三日から十四日かかっている。馬に乗ればもう少し速いがそうそう乗れるものではなく。竹徳も下級武士の子だが三男坊で絵を描くための旅という理由でもらえるわけもなかった。
「都には、美人が多かったぞ。色は、あまりないが清楚で皆大名家の姫のようだった」
「「へー……」」
残念ながら時富も由之助も大名家の姫など見たことがない。ついでにいえば下級武士の三男である竹徳が見たことがあるはずもないがそこは己の想像力から考える。
「こら! なにさぼっとる」
狩野の激に時富と由之助が慌ててまた絵を写し始めた。
「師匠お久しぶりです」
「おぉ、竹徳来ていたのか。話を聞いていたが京で何を見てきたのだ」
「仏閣や商家にある絵を見てきました。あと参考にと京の店でこんなものを買ってきてみたのですが……」
竹徳がとりだしたのは何枚かの絵でその絵は、美人画であったり風刺画であったり面妖なあやかしであったりと様々である。そしてその絵は、描いた人物がことなるのか様々な技法を駆使して描かれているようであった。
「おまえはこれを儂にみせてなにがしたいのだ」
「狩野流の末永い繁栄?」
狩野は見るからに不機嫌で鬼のような形相で、もしも描いてみたら迫力のある一枚になりそうだ。
「これは下賎なものが見るものだ。見る価値もない」
絵を竹徳に押し返すと狩野は、大仰に歩き出した。その後ろに失敗したという表情の竹徳がいる。なぜあのように怒るのかわからず時富は首を傾げた。
「時富お前なんで師匠が怒ったのかわかんないのか?」
「はい。言葉の意味は、わかるのですが何に対してそう仰っているのかわかりませぬ」
「この絵見たことあるか」
竹徳は、時富に絵を渡した。画風が異なるがやっぱり普通の絵であった。
「それはな浮世絵というんだ。これが民間で流行っていてな危機感を感じた師匠は、漢画を参考に狩野流を改革しているんだ。そんな宿敵を弟子が持ってきたから怒るのも無理はないな。あははっ」
「笑っている場合ではないですよ兄者。破門言い渡されたらどうするのですか!」
「敵を倒すには敵の弱点を突けばいい。だからまずは敵が何を得意として何を弱点とするのか知るべきと……師匠はわかってるはずだけど」
竹徳は、頭が固くなっちゃたのかねぇとつぶやきながら頭を掻いた。その様子を由之助は、呆れた顔で見る。
「そうそうこんなものがあるんだけど。おまえらそろそろいるだろ」
そういって懐から四つ折りにした紙を机の上に置いた。置いたということは、見ろということだと解釈し紙を広げ紙に描かれていたものに愕然とする。
「なっ!」
「どうした……兄者! なんで時富に春画を見せたんだ」
紙には、着物をずらし白いうなじや足をさらす女が描かれていた。ひどく艶っぽく一度目を向けると印象に残る。
「そろそろこういうのに興味もつ歳だろ? 真っ赤な顔でいっても説得力ないぞ。ゆ・う・の・す・け」
「兄者のそういうところが嫌いじゃ!」
「なんだ。騒々しい……」
堅物な七番目の兄弟子が部屋に入る。竹徳を見た後に馬鹿を見る目で春画を見た瞬間……鼻から血をだし昏倒した。
「信重兄者!」
「そういえばこいつ、こういうの駄目だったな。それにしても鼻血を吹いて倒れるこたないだろ」
竹徳が顔に手を振るがまったく反応がない。
「しょうがない寝せとくか。それにしても時富が一番平然としてるな」
「母上のほうがお綺麗ですから。お体が弱いのに懸命に大丈夫だとおっしゃる姿は、とても強く優しい印象を与えます。私も妻を迎えるなら母のような方がいいです。あっ、体は丈夫な方がいいですよ」
「……」
「ですが最近ご気分が悪いらしくて臥せっておられて心配です。ですから好物の菓子を買って帰ろうと思っておりまする」
二、三カ月ほど前から体調が崩れて寝込むことが多くなった。さらに今年の夏は、暑く食が細くなっているので父ともども心配している。
「そうか、元気になられるといいな」
「はい」
会話をしていると鐘の音が響いた。そろそろ屋敷に帰らねば菓子屋が閉まってしまうので急ぎ道具を片付けて帰る準備をした。
「みなさん、また明日」
「おう、もうそんな時間か。また明日」
「俺もしばらく師匠のところにいるから」
「はい」
別れを済ますと筆と財布を確認して菓子屋に向かったのだった。