嫁
あの日からしばらく経ち悪阻は良くなってきたが、まだお役目を辞める決意が出来ていなかった。お役目を辞めてしまえば家治様に会えないが好いた男の子が欲しい。子が元気に産まれるには私の安静が必要だと古山先生にしつこく言われていた。
「時富」
「はい、竹千代様」
「あと少しで直系の男児のみ家督を継がせる触れを撤廃できる」
竹千代は、時富の手を取り嬉しそうに語る。時富もここのところずっと頑張っていらっしゃったのを知っていたので、報われると聞き同じように嬉しかった。
「まことにございますか!」
「あぁ、あと二ヶ月も過ぎれば触れを出す」
「はい」
「すぐとは言わぬお役目を辞めて大奥に入ってくれぬか。妹君に婿をもらってもらい余のところへ来い。絶対に時富が大奥に入れるように手配する」
信じられないような内容だったが、時富の手を強く握る竹千代の手が嘘や夢でないと告げていた。これほど安心するぬくもりは、一つのしかあり得ないのだから。
「私がお嫁に行ってもよいということでしょうか」
「嫁に来い。時富」
そう仰る竹千代の表情がとても優しくて誇らしい。やはりこの尊い方を愛しているし愛されていると再度思いました。
涙を耐え竹の手を離し私は、心を籠めて深々と頭を下げる。
「細田時行が娘の細田時富、不束者でございますがどうぞよろしくお願いいたします」
「顔を上げよ。不束者であろうとなかろうと余はお主が良い。共に生きようぞ」
「はい、竹千代様。それといままで言えなかったのでございますが……」
「どうしたのだ」
不思議だと言う顔を浮かべる竹千代の手を取り腹に当てさせる。
「実はここに竹千代様のお子がおるのです。あと半年ほど過ぎれば産まれてきてくれるはずでございます」
「真か! めでたい、めでたいな。余の子は誰も残っておらん。跡継ぎは豊千代に決まっておるから男児でも姫でもかまわん。元気に産まれてくるのだぞ」
驚くほどに上機嫌な竹千代を見て安堵した。御家騒動になるかもしれないと思ったが大丈夫らしい。
「なれば早く撤回させねばな」
この出来事の三月ののちに直系男児以外でも家督を継ぐことが許された。
その前に私は、大きくなる腹に耐えきれず天明三年(一七八三年)十二月十八日に役を辞した。そして無職の寄合集に入り出産を待つばかりとなった。
「お兄様御加減はいかがですか」
お福は、薬と白湯を盆から私に手渡す。
「腹を冷やさなくて良いからだいぶいい。それに嬉しいことがあってね」
「嬉しいことでございますか」
「やや子が腹を蹴るのがわかるのだ。元気が良いようで安心だ」
今も小さく蹴っていて早く出てきたいのかと時富は、笑みを浮かべる。しかしまだ早いので待っておれと腹を撫でた。
「お子が産まれたらどうするのですか。お兄様」
「子が産まれて一年経ったら嫁にとると相手が言っている。その時は、この子と一緒に相手の方に嫁ぐよ」
「あのお触れのお陰ですわね」
「えぇ、だから遠慮なく和三郎を婿にとりなさい。お互いに通じあっているのはわかっているのですよ」
「まぁ、お兄様知っておりましたの!」
お福は、朱に染まった頬を手に持った盆で隠した。
「お前の兄だからね。世間の目もあるからほどほどにしておきなさい」
「はい」




