閑話
細田時富に会えたのは、余にとって最後の幸福なのかも知れぬ。
正室 倫子女王と一緒になったのは、余が十七の歳で倫子女王が十六の歳だった。お互い若く、倫子女王が遠方から嫁ぎ心細かったからか仲がよかったと思う。お互い幼名で竹千代、五十宮と呼び合っていた。
そのうち二女生まれたが二人とも幼くして亡くなり、可愛そうなことをしたと思っていた。
五十宮とは、仲が良いのは変わらなかったがその後中々子に恵まれず側室を持つように説得された。頑として譲るつもりもなかったが、田沼意次が持てというので同じように側室を持つならという条件で了承する。
側室が男児を産むと余は、側室のもとへ通わなくなった。側室に通っていたのは、将軍としての最大の義務である後継のためだけだった。子さえいれば用はなく子を亡くし落ち込んでいた五十宮に養育を任せたが、五十宮も亡くなりついに一人になる。そのころからだろう政が馬鹿馬鹿しくなり田沼に押し付け趣味に没頭するようになった。どうしても余が必要な事柄以外は、あ奴にまかせていたのだ。
趣味に明け暮れ我ながら堕落した生活をしていた頃に細田時富と会った。
五十宮以外は、愛さぬつもりだったし、実は女だったとしても男になどまったくない。しかし初めて会ってから暫くたったころのことだった。綺麗な顔をした男だと思っていたがその美しさも霞むほど疲労の色が濃い日があった。常ならばうまく隠しているであろうにどうしたものかと思う。
「ただの寝不足でございます。最近大作になるかもしれぬ絵を描いていたのです。時を忘れて描いていたために気がついたら暁七つになっておりまして」
暁七つといえばほぼ夜明け近くでほとんど寝ていないに等しい。普段冷静で何を考えているのかわからんのにまったく何をしているのだ。だから田沼にされているように説教を垂れると嬉しそうに笑った。気のせいかと思ったが確かに口の端が上がり笑っているのだ。珍しいと言ったら機嫌が悪くなった。
会話の矛先を変えようと筆使いについて尋ねるが説明の内容がわからない。徐々にとはどれほどなのかなどと考えていると時富は、手をとって教え始めた。余の手を掴む手は繊細で腕も一回り細い。
考えごとをしていたためか問題の場所を描き終えていた。さすがは狩野流免許皆伝を言い渡された人物だと誉めようとしたら、眉間にしわがよっていた。出来心で眉間に触ろうとしたら避けられ面白くないので無理やりこちらを向けさせた。
「っ」
息の漏れる音と真っ赤に染まる顔が目と映る。だが視線だけは向けられず横を見ていた。こちらを見てほしいと、特に何も考えずそう思い口づける。
「うっ、家治様?」
やっとこちらを見たと達成感に似た気分になった。相手は、男であるはずなのになぜと自分のことなのにわからなかった。軽い雰囲気で答えたが疲れた様子の時富を見て胸が苦しくなる。この胸の苦しさを覚えるのは時富であり。また胸の苦しさを和らげるのもまた時富であった。
だから時富が、妻を貰うかもしれぬと聞き衝撃をうける。そう溢した小納戸役の者に何度も聞き不振がられた。
「そなたは、妻を貰う予定はないのか」
時富が妻を貰う予定がないと安心したが好いた相手がいると聞き血が上った。好いた相手についてなかなか吐かない様子をみてそれほど相手が好きなのだと思うと耐えられない。腕の中に閉じ込めてもただ怒りを覚えるだけで、さらになにを隠しているのかさらしを巻いていた。
きつく当たり過ぎたのか時富が泣き出してしまった。でも泣かせたいわけではない。
思ったままの言葉を吐いた。
「私も好いております……」
小さな声だったでも余にとっては、大きな出来事で目の前の時富しか見えなくなった。などと言いたいが次々に時富の驚くことを発見する。実は女だったとか、それと……これ以上は言えぬ。
隣で時富が寝ている時、冷静になって考えると時富が男の恰好をしている原因が余にあることに気がついた。田沼に渡され是としたものの中に、直系男児のみが家督をつげるものとするというものがあったと思う。本来ならば女児しかいない家系でも婿養子をとることで家督を継がせることが出来ていた。十年出していた触れを撤廃するというのは、大きな波紋をよぶであろうが、時富と同じような者が出ないようにもう一踏ん張りするとしよう。それに触れを撤廃出来れば時富を大奥に入れることができる。このままでは時富は、他の者のものになることは目に見えていた。
「足が浮腫むな。動かぬせいであろうか」
少々足が気になるが今は、政務に打ち込むべきであろうと深く考えていなかった。




