待つ
本日、家治様はずっと何かを考えたまま絵筆が進まない。悩みがあるのならば自分に相談なさって欲しいが政務については差し出がましくお答えすることは難しい。などと思案していると竹千代様がついに筆を置いてしまわれた。
「時富」
「はい」
返事をすると竹千代様がこちらをまっすぐ見られ、何か決意なさったようなすっきりした顔をなさる。時富はただ出てくるだろう言葉を逃さぬように静かに待った。
「余は本家の男児のみ家督を継がせるという、触れを撤廃しようと思っている」
「真でございますか! しかし影響が大きいのでは……」
「確かに大きな影響がでるだろう。だがな撤廃して欲しいとの声も多いのだ。あの時は、田沼に言われそれが最善だと思っておったが悪い方向に進んでいるようにしか思えなくてな。直系ではなく分家に継がせたいところや、お前のように女児しかいないところが存外多い」
はっきり言って男児よりも女児が育つ方が可能性が高い。竹千代様の最初のお子様は、姫がお二人だったはずだ。
「それでもご自分が出された触れを撤廃して老中と若年寄りが黙っているでしょうか。田沼殿の意見で触れを出したならば田沼殿が邪魔をするというのも……」
「確かに政務を田沼に放棄して久しい。お飾りの将軍とも言われているがこれだけは元に戻すべきだ」
「竹千代様」
「だから時富、そのときには」
竹千代様が言葉を続けようとしたとき時間を告げる鐘の音が聞こえた。絵の稽古の時間が終わったということでもある。
「竹千代様、鐘に邪魔をされましたが何を仰るおつもりだったのでしょうか」
「いや、いまは言う時ではないのだろう。触れを撤廃したら必ず言うと約束する。楽しみに待っておれ時富とって悪い話ではない」
「はっ、はぁ……」
竹千代様がずいぶんと楽しそうなので確かに良いことなのかと思うが上手くいくのでしょうか。時富が関係して上手くいったことは絵くらいのものだ。だが信じて待てと仰るならば、信じて待つことにいたしましょう。この時は、知るよしもなかった。時富の中の命と身を引きちぎるような別れが待っていたことなど。




