弟子入り
そして時富が生まれて時が五年の刻が流れた――――
細田家に小さな駆け足の音が響き渡る。
「母上! 先生に字が上手くなったと褒められました!」
「まぁ、時富よかったわね。私にも、見せてくれますか?」
「はい、母上!」
時富は、母に字を書いた紙を手渡した。この頃も母は、出産時の体調不良が治っておらず寝たり起きたりを繰り返していた。体調が悪いだろうにいつも穏やかにほほえむ母は、とても美しいと時富は幼心に思っている。
「時富! 帰ったのに父には挨拶もないのか?」
「一番に父上の所に行きましたが厠に行かれたというので母上の所に最初に来ました」
「あははっ、確かに厠に見せに行くことは叶わんな。どれ、父にもそれを見せてみよ」
「本当に上手に書けていますわ」
母が嬉しそうに眼を細めながら紙を父に渡す。父は、紙をしげしげ見て関心たように笑った。
「すごいな時富。もしかしたら、爺様みたいに勘定奉行になれるかもしれないぞ!」
そう言う父は、時富の力強く頭を撫でる。嬉しいときの父の癖でだった。
「儂のことを呼んだか時行」
「父上、時富が字を先生に褒められたそうですよ」
「そうか、そうか。字の才は、父ではなく儂に似たのだろうな。儂の息子なのにどうも字が汚くてな」
お爺様は、嬉し気な父の様子とは裏腹に溜め息を吐いた。
「今は、綺麗なはずです」
「今は、じゃ。何千回書き直しをさせたと思うている。千回書かせて人並みなのだからとんでもないものじゃ」
「父上は、そんな字の練習をなさったのですか? すごいですねぇ」
「そうじゃ、ひどいものだった。最初見た時、暗号の文かと勘違いしたわい。たしかそのときのが……」
お爺様が何かを取りに部屋を出ようとすると父が急いで爺さまの腕を掴み引き留めた。
「父上! そういえばそろそろ時富に手習いをさせる年だと申しておりましたよね!」
「あぁ、武芸や字、兵法なども大事だが何かこれぞというものがあれば殿に目をつけてもらいやすい。絵などはどうだ。殿は絵を好まれると聞いた。習わせて損はないと儂は思うぞ」
「絵ですか?」
「狩野殿のところに試にいかせてみよう。殿の気に入りであるし」
それが良いとばかりに爺さまは、頭を上下に振る。ただ父は、お爺様の言葉に目を見開き驚いているようだ。
「父上! 狩野殿にそんなことを頼めるわけがありません!」
幼い時富は、父の狼狽する様を不思議に思っていた狼狽するに値する人物であった。当時の将軍であった徳川家治は、芸能に秀でとくに絵を好み狩野典信は徳川家治の寵愛深かった絵師である。さらに言えば、幼いころに家治の祖父にあたる徳川吉宗にお目見えされ可愛がられていたらしい。将軍家とつながりの深い人物でもある。
「なに、優秀な人物ならば弟子として育てる気もでよう。そうといえば狩野氏に文を出そう」
お爺さまは、歳を感じさせない素早さで部屋を辞した。
「あいかわらず決断が速い。ああも自信たっぷりならばなにか策でもあるのだろう」
「そうでしょうか? 孫可愛さに盲目になっているだけかもしれませんわよ」
「ありうるな……」
「でも父上絵を習うのは、おもしろそうです。出来ればしてみたいです」
「はははっ、ならまずは狩野殿の弟子にならねばな」
冗談のように父は、そんなことを言ったがその日から一週間後に狩野氏に会うことになったのだった。
「お前が細田時敏殿の孫の時富か?」
「はい! 時敏は祖父でございます。今日は、時間をいただきありがとうございます」
時富が狩野氏に頭を下げると楽しそうに笑い見る。
「挨拶のできる元気のよい子よな。さて、私の元で絵を習いたいと聞いていたのだが本当にしたいのかい? 私は、厳しいぞ」
「温にしてはげし、威あっては猛からず、恭にして安し」
「孔子の言葉だな。優しい一方で厳しく、威厳はあるが威圧的でなく、うやうやしくあるが窮屈なところがない。高く評価したものだな。それにしてもその歳で儒学を覚えているのは偉いものだ」
「そうでございますか? 私は、私のしなければならないことをしているだけです」
ごく自然に覚えたので不思議に思わなかった。
「人というものはそれができない生き物なのだよ。ときに、私の作品をみたことがあるか?」
「ありません」
「ならばまず私の作品を見せよう。ついてきなさい」
「はい!」
狩野氏に着いていくとたくさんの絵がある部屋に連れて行かれた。絵は、人や景色などありとあらゆるものが描かれている。どの絵も力強い絵筆の線で描かれていた。
「この絵をどう思う?」
狩野が出してきたのは、何人かの子どもが描かれた屏風であった。
「楽しそうにみえます。とくにこの二人は兄弟かと思いました」
少年が赤子をおぶり他の子どもの遊んでいるのを見ている。
「私には、兄弟がいないのでちょっとうらやましいです。それにこれは犬ですね? 我が家には、いないのですが母が喜びそうな可愛らしい犬です」
「そうかそうか、おぬしがどんなものか大体わかった。今度は、実際に絵を描かせてみようかの」
狩野氏は、近くにあった紙と筆を時富に渡した。
「好きなものを描きなさい」
「好きなものですか?」
筆を握りながら好きなものを思い浮かべるが、たくさんでてきて何を描けばいいかわからない。今日のご飯に出てきた笹もちも好きだし向かいの隠居のおじいさんの家に住んでいる犬のころも好き。あと父上と母上もお爺様も好き。
描くものに困って開いた障子から外を眺めていると、家の塀の上に一匹の白猫が座っていた。その白猫は、時富の視線に気がついたのか下を向いて手を舐めていたのを止めこちらをひたと見る。目が昨日みた月にそっくりで綺麗だと思った。猫が逃げ出さないのをいいことに不躾なほど観察する。白い毛並みは一点の汚れもなく座ってこちらをみる姿は、品があり綺麗でこれを描いてみようと唐突に思い渡された紙に筆を滑らした。筆が思った方向に向かないがとにかく描く。
「出来ました!」
時富が言うと狩野は、描いた絵を様々な角度で見ている。
「筆使いが駄目だ。だが直線ではなく曲線で描けるのは、評価できるな。あとこれは、猫か?」
「はい、猫です」
他になにに見えるのだろうか。ぴんっと立った耳に長い尻尾。どこからどうみても猫だ。
「自信満々って顔をしているがな。とっくりに紐と三角をつけたように見えるのだよ。かろうじて猫に見える」
時富は、そんなに自分はへたくそだったのだろうかと落ち込んだ。泣きはしないが肩を落とすぐらいは許してほしい。
「なに、おまえさんくらいの歳の子どもにしては上手くかけている。判別が出来るだけましというだけだ。そうだな……三日後の昼過ぎにまた来なさい」
「弟子にしていただけるのですか?」
「弟子は、多い方がいいのだよ」
絵師というものは、絵を描くことを生業にしているがそれだけでは、生計を立てていけない。絵を描くだけでなく自分の食い扶持や、住まいが必要となり固定の客がいて養ってくれるならばともかく普通そんな好待遇は望めない。だから弟子を希望する者を募り月謝を払わせることで生計をたてる。そして弟子がいい位置につけば育てあげた絵師を重用してくれる可能性もあったからだ。
「私にも弟子が十人ほどいる。お前さんからみれば兄弟子だな」
「兄弟子!」
時富に兄どころか兄弟がいなかったので『兄弟子』という響きは、とてもいい響きで一気に兄が十人もいるのが嬉しくなったのだった。
「次に合わせてあげよう。ようやくできた孫が危険なめにあわせたら時敏殿は、とても心配するだろうから今日はもうお帰り」
「はい、師匠! ありがとうございました」
時富は、狩野にお辞儀をすると家に向かって走り出した。
このあと十五歳まで時富は、狩野に師事することとなる。