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 時富が自分を女と知ってから五回も春が訪れた。時富は二十二歳、お福が十二歳になっていた。


 その間の一回目の春に母上が父上を追うようにひっそりと亡くなった。その顔は、とても安らかでたぶんお福の裳着を見れたからかもしれない。『本当ならばお福の花嫁姿も見たかっただろう』時富が呟く。古山先生は『母上の体で二人も子を産めたのが奇蹟』と仰ったので母上は、よく生きたといいたいのだろう。


「おーい時富」

「あれ、竹徳兄上。こんな時間にどうなさったのですか。いつもなら遊郭に……」

「あのなぁ、俺は女が好きだが年がら年中行ってるわけじゃないんだぞ」

「わかっております。たまには、言葉遊びをしたかっただけです」


 散々痛かった腹が治り非常に調子が良い。鬱々としていた気分も一気に良くなった。やはり体の健康は、心の健康でもあるのだろう。


「珍しいこともあるんだな。それなら一緒に見にいかないか」

「遊郭にですか。私は行きませんよ」

「だから違うっての。地本問屋(ジホントンヤ)にだよ。地本問屋! 買いたいものがあってね。日本橋だが大丈夫か」

「今日は、これ以上勤めがないので師匠のところへ行こうと思っておりましたのでかまいません」


 しばらく行っていなかったがこれも何かの縁と竹徳兄上について行くのもよいかもしれない。何事も勉強だと今は亡きお爺様は仰っていた。


「そうか、そうか。なら行こう!」




 連れられた地本問屋に着くと時富は、何の迷いもなく奥へ行こうと足を向ける。時富がよく読む本は、本は店の奥にしかないのだが竹徳兄上に襟を掴まれることにより阻止された。


「竹徳兄上何をなさるのですか」

「俺の用は、そんな奥に行かなくてもあるんだよ」

「儒書や史書を買いに来たのではないのですか」

「俺がそんなお堅い書をわざわざ買いに来ると思うか。俺が買いにきたのはこれだよ」


 竹徳が指差したのは、たくさん積まれた紙。否、よく見れば絵であった。それは、ずいぶん前に竹徳が見せてきた浮世絵というものであったはずであの時散々師匠を怒らせたのに未だに懲りていないのかと時富は溜め息をつく。


「なんだその顔は、これを見てもそんな顔を出来るか」


 そこには艶かしく煙管(キセル)を吸った女が描かれていた。女は、視線の先に客もしくは思い人がいるのか視線を横に向けている。


「これを見せて兄上は何をしたいのですか」

「浮世絵も面白いと思わないか。普段俺たちが描く絵は、こんなにたくさんの人の目には触れられない。天上人が認めてくれるのは立派なことだが自分の絵を見て城下いや様々なものたちが楽しむのもいいと思わないかと俺は思うんだ」


 竹徳が真面目な顔でそんなことを言うので邪険にせず聞きもう一度浮世絵を見る。その中に気になる作品があった。


「白子屋 清長」

「鳥居家の四代目の絵だね。時富は、そっちが好みか。なんというかお前の母上に似てるな」


 言われれば女性らしい柔らかな物腰とすらりと高い背は、懐かしき母を彷彿させた。


「よし、俺が買ってやろう。親っさんこれいくらだい」

「兄上に買っていただくのは忍びない! 金がないわけではないので自分で買います」

「俺が奢りたいって言ってるんだから奢られればいいんだよ。はい、代金」


言い争いをしている間に竹徳が金を払い終えてしまった。


「悪いと思うなら今度心配ごとがあったら俺のところにこいよ」

「もしや信重兄上に聞いたのですか」


 あの人は、口が固い以前の問題でそもそもあまり話さない。


「いや奴が言ったのは、『お前は落ち込んでいたが元気だ』くらいのもんだ。心配ごと云々は、俺の想像だ。そのぶんだと当たっていたみたいだな」

「……」

「俺も信重もお前の兄貴分なんだ。お前が一生懸命いろいろやってるのも知ってる」

「相談しろと? 兄上、私は旗本細田家の当主。今でこそいっかいの絵師ですが元々は武家の子話せぬことが多いことくらい知っておりましょう」


 軽々しく相談できる相手ではない。それに自分の一番の悩みは、女であることで軽々しく相談したらどこに漏れてしまうと恐ろしい。いくら兄弟子でも口の軽さで信用出来ない。


「うーん、じゃあ気晴らしだ。気晴らしなら得意だぞ。よし、行こう!」

「えっ、ちょっとどこへ……!」




 兄上に連れられついたのは、歌舞伎座だった。多くの町民が集まり今か今かと始まるのを待っておりその顔は、これから始まるであろうものへの興味に目を輝かしていた。


「歌舞伎は久しぶりです」

「来たことあるのか」

「接待で一度。でもその時に見たのはあまり好きではありませんでしたね」


 確か身分違いで愛し合った男女の話だった気がする。男が下級武士で女が遊女。二人は愛し合い男が女を身請けしようとしたが男は、下級武士のため金がなかったが上司の娘との縁談を勧められ。女は、大名が身請けされることに決まった。だが互いに諦めきれず桜が綺麗に咲いている晩に来世に願いを託し死ぬという感じだった。


「俺は、お前が何が好きなのかわかんねぇな。あっ、茶を一杯。こいつにも」


 売り子の少女が信重兄上と時富の湯飲みに茶を入れる。


「ありがとうございます。甘味は、好きでございます」

「甘味以外はどうなんだ。好きな女はいないのか。そろそろ嫁さんもらってもいいだろ」

「そうですね」


 自分が女と知ってから好きなおなごがいない理由がわかる。もともと時富は、女を見ると心の臓が締められたような感覚を持っていた。最初は、これが俗にいう『恋』なるものと思っていたが今考えると知らぬうちに『嫉妬』と『憧憬』を抱いていたと思う。時富には手に入らぬものゆえに。


「おっ、始まりそうだな」


 そこでその話は、終わってどこか気が緩むがもっと考えるべきだったかもしれない。

 時富は、細田家当主だ。子をなす義務がある。わかっている女をあてがって無駄ならば男が必要になってくる。だが時富は、男に……と思うととてもではないが無理な気がする。あぁ、後回しにしたい。

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