痛みと真実
蔵や塀が立ち並ぶ場所から長屋と呼ばれる建物が並ぶ場所に時富は来ていた。ここは金のない武士や町民が住むところで初めてここへ来たときは、長屋丸ごと一つが屋敷だと勘違いをしたことをお爺様に笑われた。時富が会おうと思っている人物もここに住んでいる。
「御免つかまつる」
「おう、入んな」
年老いたしわがれた声が返事を返してきたので建て付けの悪い戸を開けて中にいた人物に一礼する。
「そんなにかしこまなくていいんだぞ。ここにいるのは、変わりもんの爺だけなんだからな」
「下町の名医と名高い古山先生に敬意を払わないとは私の矜持が許しません」
「お堅い態度は、細田の血っていうより母親の方の血かねぇ。頑固なところは敏爺にそっくりだがな。とりあえずお前さんところより粗末なあばら屋みたいなところさ。まぁ座んな」
時富は、部屋の中で空いてる場所に座る。この古山という人物は、薬を煎じているとき部屋いっぱいに材料や道具を置いて作業するのが癖であった。時富からすれば片付いていない汚い部屋という印象だが本人は、どこに何があるのか一番分かりやすい状態らしい。
「俺に何か聞きに来たんじゃねぇのか。話してみろ」
「話が筒抜けになりそうな場所で話せる内容ではないのです」
「大丈夫だ。隣片方は、俺が借りてるし借りてない方は昼の間は誰もいやしねぇ。……そんなに警戒するたぁもしやあれを知っちまったか」
時富は、単純明瞭な言い方を好む古山の遠い言い回しに眉を上げた。医者として相手も自分も分かりやすい話し方でなければ診察出来ないからだ。
「お前さんの場合随分遅いと思ったが気の持ちようなのかね」
「やはり知って……!」
「いつも診察してたのは俺だ。体のことをよく知っているのが医者だ。それに触診までやったんだからわかっているのは当たり前だろう」
確かに古山は、忙しいにも関わらずお爺様の昔馴染みだからと家族全員を見てもらっている。
「そもそもお前さんが生まれたときも俺はいたから女だって知ってたさ」
「なぜ私を男として育てたのかも知っていますか」
「おっかさんに聞かなかったのかい」
「私が知ったことを知ると泣きながら謝って疲れて寝込んでしまわれました。本来なら語るべきお爺様も父上もおりませぬゆえ。他に尋ねるならば祖父の代から世話になっている先生しか思いつかず……」
時富の話を古山は、静かに聞いていた。
「俺は詳しく知らねぇが上の人らがお家を継げるのは直系の男児のみというのがあるって聞いたんだが本当か」
「本当です。それについては私も思い至りそのためだろうと思っておりました。しかし、当時女児しかいない家は、表向き妾をとる。もしくは、同じ時期に生まれた男児と生まれた女児を取り換え後に女児と夫婦にさせるなどという手段が裏であったと聞きます。父上は、母上を溺愛しておりましたがそのために子の取り換えくらいできたのではありませんか」
「そんなことを言うものじゃねぇ。腹を痛めて生んだ子を育てられないとおっかさんがわかったらあのときお前のおっかさんは死んでいたさ」
「母が死ぬ……? 私を生んだあと体調が思わしくなかったと聞いていましたが」
もともと母上は、お体が弱いので心労で亡くなる可能性があったほど悪かったのはありえなくない。
「人が一人生まれる力を出しているんだ相当疲れる筈だぞ。それに体の力が弱いし一人目だからなかなか生まれなくてかなりの難産だった。産後もなかなか弱られてな。ただ娘を抱いて成長を見届けたい一心で元気になったんだ」
そんなことを聞きたいわけではない。
「……っでも私に偽らせる原因を作ったのは!」
「俺たち大人の責任だ。でも、今のお前をなんとか出来る力が俺たちにはない」
「うっ……ふぅぅっ……ヒック、ヒック…………」
時富の目から涙が溢れてきたが認めたくなくて歯を食い縛り目と鼻に力を入れた。泣いても何も変わらない。
自分が女だということも、旗本細田家当主であることも、自分が子を為さねば跡継ぎがいないことも、何の罪もない可愛い妹がいることも、酷いと怒鳴りつけたくなるほど憎いのにそれでも大切でいとおしい母上がいることも、全く変わらずそして時富を苦しませる。疑いもせず信じていたことが全てひっくり返ったのだ。
「手を開きなさい。強く握りすぎだ」
言われて手を開くと、爪で皮膚が破け血が滲んでいた。その血があれを思いだたせて無性に腹がたってきて今も鈍く痛みを伝えて眉を潜めたくなる。
「俺は名医なんて呼ばれるがどうしようもないことが多いんだ。薬で治せるもんなら治せる。でもな、どうしても薬で治せねぇもんもあるんだ。それがな心だよ。心は心にしかなおせねぇ。だから俺は、どこが痛いのかちゃんと話す。話さなきゃな心の中の怪我が治らねぇでずっと血が流れたまんまだ。だからうちに秘めるんじゃない時富。お前さんには、まだおっかさんもいれば俺みたいのもいる」
「でもあなたは、私ではありませぬ。それに私は、話すことがあまり得意では……」
「話が苦手なら別のもんで現せばいい。歌でも踊りでも詩でもな。そもそもお前さんには、絵には師匠に免許皆伝をもらうくらいの腕がある。そうだろう? 栄之」
その言葉に自分が持っているものに気がつくが、この心に秘めたものを表せられる力があるだろうか。
「そもそもお前さんに必要なのは何も考えず休むことじゃろう。今日は、たくさんのことがあった。屋敷へ帰ってゆっくりしなさい。何をするにもそれからだ」
「はい」
言われてみれば着物が水を吸ったように体が重く。とくに腹は、まるで石でも入れたように重く痛い。しかし石など入っているはずもなく長く続く鈍い痛みに腹を抱えた。
「おいおい、ずいぶん痛そうだな。……そういやあれがまだ残ってたか。ちょっと待ってろ」
そういうと古山は、部屋を探し周りなにやら探しだす。何かと見るとよくお爺様が使っていた灸であった。
「時富背中を出せ。腹痛に効きそうな経穴に灸をすえてやる」
「灸とは熱いものではありませぬか?」
「火傷をするほど熱くはならん。やりたくなければやらぬが」
「やりまする」
多少でもいい痛みと怠さが良くなればいいと思い着物を上だけ脱いだ。年の瀬が近いせいか少し寒く身震いする。
「よし」
準備を終えたらしい古山が時富に灸をすえた。それから特に何もなく終わり、着物を着直し整えると体がほのかに温かく腹の痛みも少し治まった気もした。
「古山先生ありがとうございました」
「いいんだ、いいんだ。痛みが酷かったらまた来なさい」
「はい」
体の痛みを気にしつつ屋敷へ戻ると母はまだ寝ており、その様子に安堵し顔にかかった髪を避ける。
「母上、お福はまことに私の『希望』だったのですね……」
起きぬ母に返事を期待せずに尋ねる。古山先生のところからの帰路お福が生まれる前に話したことを思い出したのだ。あのときの母は、お福のことを自分の希望と仰った。当時は、なにのことかわからなかったが自分がどちらとして生きるにもお福が最大の味方でいてくれるであろうとわかっていたのだ。
「だからお福の名は、『幸福』の『福』なのですね」
可愛い可愛い妹、生まれたときからの業があの子にもあるのですね。そうでしょう? 母上。




