相談
祖父が亡くなり父が当主となって半年が過ぎた。最初は、皆がお悔みをいうほどだったが最近ではそういうことが少なくなった。人が亡くなったからといっても、他人にとって大きなことではないので忘れてしまうのだろう。半年もすぎれば他のことも忙しくなり祖父が亡くなったときの何かを気にする場合ではなくなった。それよりも問題なことが職場で起き始めていたことが一番の原因である。
「……また筆がない」
仕事の合間に少々厠に行った間に、筆や炭がなくなることが多くなった。それにこちらが気がついていないとでも思っているのか足をひっかけてくる輩がいる。他にも細々と何かが起きてわかったが時富には、虐めというものだということだということ。ただその虐めの効果は、非常に薄く。無くなったものは、一緒に持ち運べるなら持ち運ぶなり新しく買うなりする。足をひっかけてくる輩のときは、ひっかかったふりをして足の爪を相手の足にひっかけてやった。
「時富は、また筆を無くしたのか? 勘定方に働き始めてもう一年になろうっていうのにそんなんじゃなぁ。向いていないんじゃないかい」
根岸様が、意地の悪い顔を浮かべてそんなことをいう。最近は食事に誘われることも無くなったのだが、こういった嫌味な態度を見せるようになった。
「予備の筆を持ってきているので大丈夫でございます。それと今回の筆には、細工師に頼んで名を掘ってもらってあったものゆえ親切な方が拾ってくれるのを待ちましょう」
「名前つきねぇ……みつけたら渡してあげるよ」
「そうしていただくと助かります。では、私の仕事はまだ終わっておりませんので……」
適当なところで話を切り机に向かい懐からまだ使っていない真新しい筆を取り出す。筆の毛先を触ると柔らかくさわさわして非常にくすぐったい。その筆を炭に入れるとだんだんと白から黒へと筆先の色が変わっていく。このときの瞬間が非常に好きだ。どこがと問われても答えられないのだが。
「よし」
気持ちをひきしめ溜まっている仕事を片付け始めた。今日は、早めに終わらせて今描いている絵をもう少し進めていきたい。
「おっ、がんばってんな」
「橘殿」
橘は、勘定吟味役で部署が異なるが仕事内容が被るのでまったくつながりのない人物ではない。最近になって話すようになったが竹を割ったかのような性格で豪快かつ思い切りが良いので付き合いやすい。なぜ最初は、関わらずにいたのか聞くと苦笑いしながら時富の頭をがしがしと鷲掴むように撫でられた。
「あいかわらず態度が固いなぁ。それに筆も新品か」
「橘殿の方が先輩にあたるのでこれ以上は、失礼に当たると思いました」
「あぁ、いいんだ。それがおまえのいいところでもあるんだからな。ところでおまえの親父さんはどこにいる? ちょっとばかり聞きたいことがあるんだが」
「父にですか? 本日は、休みでございます。いらっしゃるのは明日です」
「そうか、仕事中に悪かったな」
橘は、そういってとまた時富の頭を強引に撫でると部屋からでていった。果たして父上に何の用だったのだろうか。
「ふぅ」
お爺様が亡くなってから時の長さが変わった気がする。前は、ゆっくり時が流れていた。
朝日の美しさと朝露に濡れた草木を愛で、昼の日の暖かさと人の笑顔を見て、夕は暮れゆく日を見てほっと胸を撫で下ろし、最後に夜の月を眺める。
しかし今は、次々と何かが起きてその対応をしている間に一日が終わる。
時富は何をしたいのだろうか? 時富がなすべきことは?
「つけ……なのでしょうか」
孫好きででも厳しい祖父と、すぐ泣くけれど愛情深い父上、病弱ながらも芯のある母上。そんな三人に見守られ育てられ自分から何かしようとしてこなかった。ただこの春の陽射しのように居心地のよい場所にずっといられるものだと。
だがもうずっといるわけにはいかない。自ら考え学び大事な家族を守り、細田家をより繁栄させる。時富はもう元服しているのだからそれくらいやるつもりでやらねば……。
「……時富」
「信重兄上? なぜこちらに」
「たまに休みをとれと師匠に怒られた。休みといっても何をしたらいいかわからないから散歩していた」
「そうでございますか」
信重兄上は、いつも絵を描いているか見ている姿しか見ていない気がする。それは堅物な性格ゆえの行動であり真摯に日々精進を重ねより良い絵を求めていたからだった。
「時富暇があるか」
「勤めが終わり帰るだけです」
「ならそこの茶屋に入らないか」
「いいですね。入りましょう」
茶屋に入ると椅子に座り信重兄上が団子と茶を頼む。時富は、茶がくると飲み喉をうるおした。
「悩みごとがあるんじゃないか時富」
「なぜ」
「なんとなく……だ。ないならいい。団子を食べろ」
信重兄上は、団子に手をつけずに茶を飲んでいる。そういえば信重兄上は、甘いものがあまり好きじゃなかったはずだった。なのに茶屋などに時富を誘って入った。
「甘いものが好きだっただろう。食べないのか」
いつものようなむすっと気難しげな顔で皿の上の団子を食べろという。不器用な優しさがお爺様に似ていてちょっと懐かしくなる。それと同時に話してみようかと思った。
「信重兄上、私は……私は何を為すべきなのでしょうか。気がつかぬうちに瞬く間に時がすぎます。でも時が過ぎたのに私の手元には、何も残っていないのです」
急速に流れ始めた時は、時富の手元に何も残さずさっていく。感情、思い出、技能、心など何もかもが濁流に流されたように残らない。今までは気がつき手元に残して育んできたことが出来なくなっている。それが空虚となり焦りを産む。
「時富、お前は私の絵を見たことがあるか」
「信重兄上の絵なら見たことがあります。品があって綺麗な絵だと思います。菩薩などは秀逸です」
「菩薩が秀逸か。時富、私が毎朝必ず一枚菩薩の絵を描いていることを知っているか」
「菩薩を一日一枚でございますか。同じ題で飽きないのでございますか」
信重兄上は、問いに少し考えるそぶりを見せた。
「……違う絵を描いているからな。飽きない」
「さきほど毎日菩薩の絵を描くとおっしゃいましたよね。違う絵とは、どういう意味でございましょう」
「そのときの気分や天気、季節そして腕などで私の描いた菩薩は変わってくる。気分が良いときは、おおらかそうな顔をしている。天気が悪く気分がすぐれない時は、悩ましげな顔になる。冬の寒い日は、すぐに描き上げたいのか絵筆が軽く子どもの落書きのような駄作になる」
「だっ、駄作……」
酷い言いようである。そもそも信重が適当な絵を描くとは思えない。
「私と同じように菩薩を描けとは言わない。だがお前は、絵を描くのが好きだろう? 絵は自分の思っていることを素直に教えてくれるはずだ。それにお前の周りには、描く題に困らぬほどさまざまなものがあるだろう」
「やってみます」
「ん」
それからは特に話もせず茶を飲み団子を食べた。とくになにかが激変したわけではないが確かに何かが変わった気がする。




