第三章 ミュゼ・バウマン(2)
ああ、苛々する---
パウゼは、爪を噛んだ。どうにも、苛々が収まらない。
今日は、土曜日。ミュゼが来る日である。ミュゼが来るので、アヴィに家を空けるよう言ったが、アヴィは、「分かった、じゃあ、家に入らないように気をつけるね」と見当外れのことを言って、居座ってしまった。ご丁寧に、「邪魔しないように気をつける」とまで言ってくれた。
そういう意味ではないのだが。
そう思ったが、ミュゼを知らないアヴィに、何をどう説明すればいいのか、分からなかった。
気を遣ったらしいアヴィは、早朝から、黒焦げ卵焼きとパンの「昼食」をバスケットに突っ込んで畑へ出、もう農作業を開始している。だが、この敷地にいる以上、ミュゼは、目ざとく見つけて、アヴィの元へ押しかけるに違いない。一体どうすればいいのだろう?
こういう無駄なことをあれこれ考えるのは、嫌いなのに。
パウゼは、頭を引っかき回した。後ろで束ねた髪が、引っ張られてぐしゃぐしゃになる。
「ああ、ったく!」
パウゼは、大声で喚き、髪をほどくと、再度束ね直した。腹が立つ、苛々する、ムカムカする---
むくり、身体の奥底で、黒いもやが蠢いた気がして、パウゼは、慌てて深呼吸をした。違う、何でもない。何も問題はない。
パウゼの機嫌が悪いので、フェリシティも近づいて来ない。アヴィにくっついて外へ行ってしまった。せめてフェリシティが相手をしてくれたら、気が紛れるだろうに。
パウゼが苛々と部屋でわめいている頃、アヴィは、少し休憩しよう、と木陰へ移動していた。思ったより、早く暑くなってきてしまった。コップに水筒のお茶を注ぐ。一応余分を見越して持ち出したが、足りなくなるかもしれない。お客は、どのくらい滞在するだろう?
---パウゼの従兄弟かあ。どんな人だろう?---
汗をふきふき、そんなことを考える。
「ねえ、フェル、パウゼの従兄弟さんって知ってる?」
アヴィは、蝶を追いかけて遊んでいるフェリシティに、そう声をかけた。フェリシティは、蝶に夢中で、聞こえていないようである。
まあでも、家に招くようなお客があるのは、いいことだ---アヴィは、そんなことを思った。その従兄弟とかいう人は、パウゼのことで苦労しているかもしれない---パウゼが知れば、「苦労しているのはこっちだ」と言いそうなことを考え、笑みをもらす。
さて、作業の続きをするか、と立ち上がったアヴィは、玄関の方から響いてきた「帰れ!」という大声に、動きを止めた。何やら玄関の辺りでもめているようである。
アヴィは、そうっと家の影に隠れるようにしながら、近くまで忍び寄った。
客人とパウゼが、「折角来たのに」だの「帰れ」だのと押し問答している。どうやら、パウゼは、客をそのまま追い返そうとしているらしい。
---折角来てくれているのに、それってどうなの?---
そう思うが、「邪魔はしない」と言った手前、出て行くわけにも行かない。
どんな人だろう?
気になる。どうしても、気になる。
それで、アヴィは、そうっと玄関口を覗いた。
「あっっ」
客人のミュゼが、目ざとく影を見つけて、声を上げる。慌ててアヴィは、頭を引っ込めたが、もう遅い。ミュゼは、とっておきの笑顔を浮かべ、アヴィの方へと駆け寄り、手を差し出した。
「君が、アヴィだね!パウゼから聞いてる」
これは、意外だ---アヴィは、思った。パウゼが自分を紹介していたとは。そぞろにミュゼの手を握る。先刻まで畑仕事をしていて、手が泥だらけなのが酷く申し訳ない。
「僕は、ミュゼ・バウマン。ミュゼって呼んで欲しいな」
「アヴァンティ・カーサといいます。アヴィでいいです」
互いに挨拶し合う。
「アヴィ!邪魔はしない約束だっただろう」
少し遅れて、怒髪天とまでは行かないにせよ、険しい表情のパウゼが歩み寄って来た。慌ててアヴィが謝る。
「ごめんなさい。怒鳴り声が聞こえたから、気になって」
そして、ミュゼに向き直りぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい。お邪魔はしないので、わたしのことは気にせず、ゆっくりして行って下さい」
「君は何も悪くないよ。実を言うと、僕は、君に会いに・・・」
「ミュゼ!」
ミュゼの「会いに来た」という台詞を隠すように、パウゼが叫ぶ。
「いいから、お前は、帰れ」
「折角来て下さったのに、せめてお茶の一杯くらいは、出さないと。ここまで来るの、大変だったでしょう?」
とアヴィ。ミュゼは、最上級の笑みを返した。
「思うより麓からの距離があるよね。でもいい運動になった」
ああ、駄目だ---パウゼは、思った。アヴィは、全くミュゼを警戒していない。警戒していないだけでなく、明らかに、好感を持っている。
「そこを空けて」
アヴィが言った。お客様が入れないじゃない、と。
初めから、分かっていたことだ---パウゼは、思った。自分に出来ることはしたぞ。心の内にそう呟く。一応ミュゼを止める努力はしたし、アヴィを遠ざける努力もした。追い返す努力もした。全て無にしたのは、ミュゼとアヴィの二人である。どうなろうと知ったことか。
アヴィは、パウゼが、客をもてなすどころか追い返そうとしているのを見て取り、自分がもてなすことにしたらしかった。玄関への道を塞ぐパウゼに道を空けさせ、ミュゼを家へと迎え入れる。
「ごめんなさい、ちょっと手を洗ってきますね」
そう断りを入れ、手を洗いに引っ込んだ。
「いい子だな」
アヴィの姿が見えなくなると、ミュゼが言った。
「勝手にしろ」
パウゼは、吐き捨てるように言うと、自分の部屋へ引っ込んでしまった。くすり、ミュゼが笑う。
ミュゼは、辺りをゆっくりと見回した。これといって何か飾ってあるでもなく、全体的にそっけない。それでも、元からあるらしい暖炉の前には、使い込んだ---恐らく、前の住人のものなのだろう---テーブルと、ソファが一式、置いてある。
淡いベージュで統一されたキッチンは、年代を感じさせるが、きれいに整えられている。キッチンカウンターには、椅子が二つ。
共用部分は、基本的に、複数人数が過ごせるようにしつらえてある。けれども、見たところ、この共用部分は、この空間をしつらえた人物が望んだようには、使われていないようだった。
各扉に猫用の出入り口がついているのは、多分、フェリシティのためだろう。なかなか大事にしてもらっているようである。そのフェリシティはといえば、ミュゼの気配を悟って、どこへか雲隠れしているようだが。
「ごめんなさい」
程なくして、アヴィが戻って来た。手を洗い、こざっぱりとした服に着替えている。ミュゼは、それを好感をもって眺めた。
「あれ、パウゼは?」
パウゼの姿がないのに気づいて、アヴィが尋ねる。ミュゼは、小さく肩をすぼめて見せた。
「怒って部屋にこもっちゃったよ」
「あー」
なんとも微妙な声をアヴィが上げる。
やっぱりね。ミュゼは、思った。アヴィの気持ちは、良く分かる。アヴィの方も、ミュゼが似たような感覚を抱いていることに気づいたらしい。二人は、顔を見合わせ、そしてふふふ、と訳もなく曖昧に笑い合った。
「いかにもっていうか」
とミュゼ。あはははは。乾いた笑いが双方からこぼれる。
「そうじゃないかとは、思ったんだけど、やっぱり、いつもああいう調子か。ごめんね、失礼な奴で。悪い奴じゃないんだけど」
ミュゼが謝る。
「失礼というか、マイペースですよね。でも、もう慣れました」
アヴィは、言って笑った。はたと気づき、ソファを示す。
「あ、座って下さい。今、お茶を淹れますね」
アヴィが、キッチンへと向かう。ミュゼは、その後に続き、お茶を淹れようとしたアヴィを引き留めた。
「待って。コーヒーは、好き?」
「好きですが」
「良かった!いい豆を持ってきたんだ。ドリッパーあるよね?」
「パウゼが使っているものなら・・・」
「彼のことだから、一式あると思ったんだよね。僕が淹れるから、君は、座っていて」
「来て下さった方に、それは・・・」
「いいから、いいから。僕がやりたくてやるのだから、気にしないで。さあ、レディ、どうぞ」
すっとカウンターの椅子を引き、慣れた動作でアヴィの手を取る。その流れに乗せられて、アヴィは、戸惑いながらも、椅子に座った。
一方、部屋に引きこもったパウゼは、苛々と自分の爪をまたかじっていた。
---いい子だな---
ミュゼの言葉が、何故か酷く胸に刺さる。
そう、パウゼにも分かる。アヴィは、「いい奴」である。フェリシティでさえ認めた、「いい奴」。そしてミュゼは・・・
放っておけばいいと思う一方で、放置してはならない気もしてしまい、どうにも落ち着かない。
ああ、苛々する。パウゼは、頭をかきむしった。盛大にかきむしった。
が、それでどうにかなる筈もない。
バン!
パウゼは、机を激しく叩き、立ち上がった。やはり、二人をあのままにしておくのは、危険に過ぎる。
それで、パウゼは、今一度髪を束ね直すと、部屋を出た。
カチャリ、とパウゼの部屋のドアが開く。
ほうらね。
ことさらにゆっくりとコーヒーを淹れる準備をしていたミュゼは、思った。そろそろ出てくるころだと思った。
なんだかんだで、パウゼは、生真面目である。そして、遊び人---ミュゼ自身は、そんなつもりは、毛頭ないのだが---のミュゼがアヴィにちょっかいをかけるだろうと考えている。いつまでも、アヴィと自分を二人きりにしておく筈がない。
パウゼは、猛烈な勢いでキッチンまで歩いて来ると、無言でミュゼから道具を取り上げた。大人しくミュゼが場所を明け渡す。そして、おろおろした表情で見ているアヴィに、声をかけた。
「ねえ、アヴィ、甘いものは好き?」
「大好き、です、けど・・・」
「良かった」
ミュゼお得意の満面の笑み。その脇では、怒りに満ちた無言のパウゼが何やら圧をかけて来る。困惑したアヴィは、ミュゼに無碍にもできず、といって、パウゼの圧を無視もできず、曖昧な笑みを浮かべた。
「実はね、『シュクレ・ファデュ』の新作バターケーキがおいしいって噂だから、仕入れて来たんだ。一回食べてみたくて」
ミュゼは、荷物から、そっと箱を取り出した。それをパウゼに預け、自分は、ちゃっかりとアヴィの隣の椅子に座る。パウゼは、何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わず、また口を閉じてしまった。
「はー、やっぱり、いい香りだ」
とミュゼ。ドリッパーにほっそりとお湯が注がれるに従い、芳醇な香りが辺りに漂い始める。パウゼは、相変わらずきつく口を引き結んだまま、何も言わない。蒸らす隙に、バターケーキを手早く切り分け、皿に載せると、ミュゼとアヴィの方へ押しやった。
「ねえ、アヴィ、パウゼのコーヒー、飲んだことある?」
ミュゼが尋ねる。何故そんなことを聞くのだろう?アヴィが否定すると、ミュゼは、やっぱりね、とそんなことを言った。
「ったく、気が利かないんだから。パウゼの奴、コーヒーは淹れてるよね?・・・ってことは、自分だけ飲んでるわけか」
「ええ、まあ・・・でも、キッチンは、ただシェアしているだけですし・・・」
「いやいや、普通、もう一人居たら、コーヒーの一杯も淹れるものじゃない?相手がレディなら、なおのこと」
ミュゼが言った時、ドン、と、ミュゼの前に乱暴にカップが置かれた。たぷんと中のコーヒーが揺れ、こぼれそうになる。ミュゼが抗議した。
「おいおい、酷いな」
「飲んだら帰れ」
「嫌だね」
ぷいっとミュゼがそっぽを向く。そのあまりに子供じみた様子に、アヴィは、思わずくすりと笑ってしまった。パウゼに睨まれて、首をすくめる。
パウゼは、アヴィのマグカップにコーヒーを注ぎ、アヴィの方へと押しやった。
「まだ、仕事が山積みだろう。こいつの相手は、私がするから、大丈夫だ」
そんなことを言う。
「追い出しちゃ駄目だからね?」
「分かっている」
話がつきそうになっている。ミュゼは、慌てて割って入った。
「ちょっと待った。勝手に決めてもらっちゃ困る。僕はね、アヴィ、君に会いたくて来たんだ。君と話がしたくてさ」
「ミュゼ!」
咎めるように、パウゼが呼ばわる。ミュゼは、構わず続けた。困惑するアヴィを引き留めるべく、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「良かったら教えて欲しいんだけど、アヴィ、好きな色は、何色?好きな食べ物は?あ、後、可愛い小物とか好きかな?それとも、可愛い系よりもっとスタイリッシュなデザインの方が好き?良かったら、好みのタイプも知りたいな」
「息を吐くように口説くのはやめろ。アヴィ、その男は、女と見ると見境なく口説きにかかるロクデナシだ。相手にするな」
「ロクデナシとは、酷いなあ」
「本当のことだろうが」
「いつも言ってるけど、僕は、一度だって無理強いしたことはないよ。無理押ししたこともない」
「本っ当に、性質が悪いな。とにかく、アヴィ、こいつの笑顔は、罠だ。騙されるな」
「ちょっと、誤解される言い回しはやめてよ」
「誤解させているのは、お前だろう」
「やけに絡むなあ、もう。何、それ、焼き餅?」
ぽんぽんと会話のキャッチボールが行われ、口を挟む隙もない。質問された手前、一応何か答えようとアヴィは思ったが、話が流れて行ってしまい、ついて行けない。
「どこをどう捉えるとそうなる!」
パウゼが吠える。
「仲がいいんですね」
結局、アヴィの口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「誰がだ!」
「まあそうなるかな?」
パウゼが怒り、ミュゼが笑う。
「アヴィ、もし、パウゼのことで困ったことがあったら、いつでも言って。コレ、僕の連絡先」
ミュゼは言い、カードにさらさらとサインをした。ミュゼは、自分から連絡先を教える場合、直接交換を要求するのではなく、いつもこうやって紙に書いたものを手渡し、相手に判断を委ねる。
そして、カードを半周回してアヴィの方に向け、押しやった。メッセージャのアドレスと電話番号を指し、口の前で人差し指を立てる。
「これは、秘密の連絡先。だから、誰にも教えちゃいけないよ」
言われて、無意識のうちにアヴィがパウゼへと目を走らせる。ミュゼは、苦笑をもらした。
「パウゼが気になる?実を言うと、パウゼも知ってる。でも、それ以外は駄目。君を信じて渡すんだ」
「知られたくないなら、教えなければいいだろう。それがいちばん確実だ」
相変わらず不機嫌な声でパウゼが口を挟む。ミュゼはカウンターを人差し指でトントン、と軽く叩いた。
「どうしてそういう意地悪を言うかなあ。誰にも教えない連絡先なんて、意味がないだろう?」
だが、パウゼは、ミュゼの抗議を素通りし、重ねてアヴィに言った。
「ここは問題ない。仕事に戻った方がいい」
「うん、そうする。では、失礼しますね」
アヴィは、ミュゼにそう挨拶をし、作業の続きをしに外へと出て行った。