第三章 ミュゼ・バウマン(1)
明るい日差しが降り注いでいる。アヴィの動きは、止まることがない。鶏小屋をきれいにし、水と餌を与え、畑の作物の世話をする。
ベランダの手すりに寄りかかり、パウゼは、そんなアヴィの様子を見るともなく見ていた。今更個人が農場を経営するのは、成功率の低い試みである。
既にある農場を継ぐならまだいい。だが、多少の心得があるとしても、新規に始めてどうにかなるような代物だとは、思えない。農業がしたいのであれば、農業系の企業に就職する方が、余程簡単だろう。一人でなんとかするような時代は、もうとうに過ぎている。おまけに、アヴィの場合、完全に一人である。家族経営ですらない。
農業は、収益を上げにくい割に、コストがかさむ。小さな規模では、十分な実入りを望めない。他方、規模を広げようとすれば、諸々の機材や人手が必要になる。それは、新たなコストを意味する。そこに、天候等自然相手のリスクが乗る。
かてて加えて、植物工場の存在もある。栄養素すら操った、人々の望む野菜果物が生産される。極限まで人手を省いたこの手の工場は、このエフィスタイン国内で次々稼働が始まっている。
工場で生み出される野菜や果物に比べると、露地物は、どうしても見劣りがする。色や形、大きさはもちろん、味さえも。
そういうことを彼女は、知っているのか、知らないのか---
「起きたんだ。今日は、休み?」
パウゼに気づいたアヴィが、そう声をかけて来た。あ、そうだ。アヴィは言い、ポケットからカルヴァの実を取り出した。
「受け取って!」
ぽーん、と投げてくる。パウゼは、辛うじてそれを受け取った。
「さっきそこで見つけたの。そのまま食べられるよ」
それっきり、また元の作業に戻ってしまう。パウゼは、ふう、と一つ息をついた。
フレイア号の打ち上げ停止から後、怒濤のように二週間余りが過ぎた。暫定的ではあるが、検証が完了し、結論から言えば、パウゼの判断が適切だったことが証明された。換気口が一つ、きっちり締まっていなかったのである。
あまりにもお粗末な原因だが、極めて重大な問題でもあった。気圧が低く空気の薄い空間にあっては、気密性は、生命の安全に直結する要素になる。あのまま打ち上げていたら、換気口から空気が漏れ、最終的には、圧に耐えきれず、船が引き裂かれていた可能性もある。
担当した作業員は、きちんと締めたと主張した。実際、表示上では、締まっていることになっていた。この先、きちんと締まっていたはずのものが、何故緩んだ状態になっていたか、原因究明が行われることになる。
「非常に些細な異常でした。ですが、乗組員の命がかかっています。私たちは、断腸の思いで、打ち上げを停止しました。そして、その判断は、正しかったのです」
原因が明らかになったことを受け、局長は、報道陣に向かって、そんな演説をぶった。権限を越えて打ち上げ停止を強行したパウゼにいちばん怒り狂っていたけれども。副大統領の前でこのような失態をしてああだこうだ、宇宙局の存続がどうのこうの・・・等々。
---先行き不透明は、いずこも同じか---
パウゼは、そんなことを思った。少なくとも、自分と違って、アヴィは、日々を幸せそうに過ごしている。
権限を飛び越えて動いてしまった以上、クビも覚悟したが、結局これといって何も起こらなかった。降格もされず、打ち上げ停止は、宇宙局としての判断だった、ということにいつの間にかなっていた。
逆に言えば、だからこそ、パウゼに対する処分が全くなかったとも言える。だが、それがこの先もこのまま、というわけでもないだろう。
もうどうでもいいような気もする。
パウゼは、カルヴァの実を服の裾で軽く拭き、かぶりついた。
とっぷりと良く熟れて、ぎっしりと甘酸っぱい。アヴィの目利きは、なかなかに確からしい。
「種は、そこいらに適当に投げておいて。芽が出るかも」
アヴィが笑う。彼女は、どうも、計画性に欠けるきらいがある。
パウゼは、記憶を漁った。確かカルヴァは、半日陰性の蔓植物だった筈である。階段を降り、半ば野生に返りかけた木々の辺りへ行ってみると、思った通り、カルヴァの蔓が絡みつき、まだいくつか未熟な実がなっていた。この近くなら、悪くないだろう。パウゼは、似たような条件で、しかし、元の株に近すぎない場所を選び、深さを変えて3つ4つ、種を植えた。
少し、顔色がましになった気がする。アヴィは、マルチシートの縁に土をかけながら、そんなことを考えていた。パウゼは、見られるのを好まないだろう。だから、カルヴァの実を投げた後は、見ていないふりをした。
青い顔をして「フェリシティの世話をするため抜けてきた」と帰って来たあの日、ソファで眠りこんでしまった彼は、「駄目だ!」「打ち上げを停止しろ!」と叫んでいた。酷い悪夢にうなされ続けており、アヴィは、起こすべきかひどく迷った。
パウゼが何をしているのか、アヴィは、知らない。けれども、あの時の様子からして、恐らく、彼は、宇宙局絡みの人間なのだろう。
あの後、アヴィは、言われた通り朝7時に起こした。彼は、物も言わず、アヴィに一瞥すらくれず、飛び出して行った。そして、4日も帰って来なかった。その後も不規則な勤務が続き、ようやく、昨日、まともな時間に帰ってきた。
見るたびに、顔色が悪くなり、痩せ細り、眼光ばかりが鋭くなって行くので心配したが、といって、声をかけるにかけられなかった。それに、声をかけたところで、パウゼに嫌な思いをさせるだけで、何か力になれるわけでもないことは、分かっている。ならば、そっとしておくべきだろう。
密かに小さく息を吸い、ほうっと吐き出す。
パウゼは、農場脇の森の方へと行ったらしかった。腰を伸ばすふりをして身体を起こし、様子をうかがう。どうやら、カルヴァの実を植えているらしい。
生真面目なんだから。
アヴィは、小さく笑みをこぼした。気づかれる前に、と、また元の作業に戻る。パウゼは、アヴィの様子に気づかぬ風で、家へと戻って行った。
基本的に、彼は、完全なインドア派で、天気の良い昼間でも、大概部屋にこもり切っている。ただ、夜、時折外へ出かけて行くようだけれども。
昼間ももっと外へ出ればいいのに。アヴィは、思った。そうすれば、あの常に不機嫌を絵に描いたような仏頂面も、少しはましに見えるだろうに、と。
「待って、僕が当てる」
ミュゼが人なつこい笑みを浮かべ、自分の唇に人差し指を立ててじっと女性店員を見る。
「分かった!ストレートパーマを当てた」
「当たり!どうして分かったの?誰も気づかなかったのに。元々直毛だから、あまり変わらなかったのよね」
「でも、きれいだよ。いつもきれいだけど」
ウィンクするミュゼに、相手は、ころころと笑った。
「全く上手なんだから」
正直な感想を言っただけだの何だのとミュゼがやっている。その脇で、パウゼは、黙って一人飲んでいた。
ミュゼは、いつも、周りに愛嬌を振りまくのに忙しい。振りまきすぎて、時折トラブルに巻き込まれている。彼女を取っただの何だのと男が乱入し、誤解だと言っても聞き入れられず、殴り飛ばされたことすらある。それでも、とんと懲りていない。
「で、話とは、なんだ」
人を呼び出しておいて、この体たらく。パウゼが声をかけると、ミュゼは、ようやくパウゼに目を向けた。
「うん、新しい生活は、どうかなー、と思って」
「どう、とは?」
「ほら、何か感想があるだろう。初めてのシェアハウスだし、大変だ、とか、楽しい、とか」
「特に何も。ほとんど顔を合わせることもないし。たまにキッチンで見かけるくらいだ」
「でも、人の息づかいがあるってのは、悪くないだろう?」
「意味が分からないな」
パウゼは、にべもない。ミュゼは、食い下がった。
「でもさ、いてくれて助かった、とか、そういうことだって、たまにはあるんじゃない?」
パウゼのことである。「ない」と即答するだろう、と、ミュゼは、心の底で思った。が、案に反し、パウゼは、少し考える風を見せた。
「フェリシティの世話は、してもらった」
思わぬ返答に、ミュゼは、やや目を見開いた。これは、なかなかの大ニュースではないだろうか。基本的に、必要最低限しか人と関わりたがらないパウゼが「人を頼った」とは。
「ひょっとして打ち上げ停止のあの時?」
ミュゼは、パウゼが宇宙局で働いていることを知っている。
「ああ。だが、別に私一人でもこなせた」
「でも、助かったはずだよ。フェリシティだって、君がいない間、世話してくれる人がいて心強かったはず。猫ってさ、ああ見えて意外と寂しがり屋だったりするから。追いかけると逃げるのに」
ミュゼは、見かけ次第わしわしと触りたがるので、フェリシティから煙たがられている。
フェリシティには良かったはずだと言われ、パウゼがぶすっと黙り込む。
確かに、フェリシティは、ことのほかアヴィに懐いている。会わせた初日、彼女は、すぐにアヴィの腕に飛び込んだ。まるで以前からの顔見知りであるかのように。
どれほどパウゼがフェリシティをかわいがっていても。
仕事に出ている間は、フェリシティは、家に「ひとりぼっち」である。もう一匹猫がいると良いと聞き、相方を探そうとしたが、どんな猫とも、フェリシティは、気が合わないようだった。
確かに、フェリシティにとっては、今の環境の方がいいだろう。アヴィになら、フェリシティを任せておける。その意味では、パウゼの気持ちが少し軽くなったのは、事実である。一抹の寂しさはあるとしても。
「そうだ、次の休み、いつ?」
不意にミュゼが尋ねた。
「土曜日だが?」
「土曜日かあ・・・んーー、お、素晴らしい。なんと珍しい。よし、もうこれは、天の配剤だ。間違いない」
ミュゼは、自分のスケジュールを確認しながら言った。どうも嫌な予感がする。パウゼは思ったが、今更どうすることもできない。
「じゃあ、この土曜日に遊びに行くよ。大体土日は、忙しいんだけど、なんということでしょう、まるっと空いてる」
ああ、やはり。パウゼは、思った。偶然とは、思えない。ミュゼは、狙ってこの土日を空けたに違いない。
「あいにく、その日は、埋まっている」
とりあえず、抵抗を試みてみる。が、ミュゼは、あっけらかんと言った。
「別にいいよ。君はいなくても、アヴィちゃんは、いるだろう」
会ったこともないくせに、馴れ馴れしく呼んでいる。パウゼは、カチンと来て言った。
「何がアヴィちゃんだ。来るな」
「いいや、行く。君の従兄弟として、一言挨拶しておかなきゃ」
「従兄弟が挨拶する必要がどこにある?」
「ある。絶対、君、酷い態度ばかり取っているだろう。この僕が謝っておかなくちゃ」
「お前に謝ってもらう必要などない。大体、アヴィは、関係ない」
「関係ないのは、君の方だろう。僕は、アヴィちゃんに用事があるの。何か持って行こう。何がいいかな・・・甘い物とか、好きかな?可愛い小物の方がいいかな。いや、それとも、花か・・・」
ぶつぶつとミュゼが計画を練り始める。
まずい。
パウゼは、思った。
ミュゼは、女性とみると、すぐにちょっかいをかける。アヴィのような、異性慣れしていなさそうなタイプは、一発で沈められかねない。
実のところ、ミュゼは図抜けて愛想良くしているだけで、どちらかというと、女性の方が勝手にはまり込んでしまう色が濃い。それが意図してのものなのかどうか、パウゼには、分からない。そして、ミュゼは、基本的に、相手の好意を無碍にしない。
---だって、はねつけたら、可哀想じゃないか---
これが、幾多のもめ事を運んでくるのは、想像に難くない。もっとも、ミュゼに言わせれば、「初めにきちんと説明してある」のだし、「相手も合意している」わけで、もめるのは、「そもそも向こうが初めの合意を破って要求してくる」のが悪いらしい。相手は、大概「騙された」と言うようだが。
そんな意味不明の泥沼に、アヴィを巻き込むわけには行かない。自分と知り合ったばかりに、ミュゼの毒牙にかかることにでもなったら---
既にミュゼのペースに巻き込まれているパウゼは、ひっそりとミュゼが笑みをこぼしたことに気づいていない。
いいぞ。
ミュゼは、密かに思った。大体において、他人が何をしようが無関心なパウゼが、ここまで抵抗をしてくるのは、「良い兆し」である。パウゼは、アヴィに自分を会わせたくないのだろう。何を考えているのか、大方の予想はついている。
ミュゼからアヴィを防ぐことに気を取られてしまっているパウゼは、ミュゼがわざわざパウゼの予定を確認したことを完全に見落としている。アヴィだけが目当てなら、パウゼがいない時を狙う方が良い。
実際、パウゼがいない時に、こっそりアヴィを「見に」出かけることも、考えなかったわけではない。けれども、今日のパウゼの様子を見、その必要もないだろう、とミュゼは、踏んでいた。
「とにかく、来るな」
「嫌だね。保護者として、挨拶するんだ」
「誰が保護者だ、誰が」
「僕」
てらいもなく、ミュゼが自分を指して言う。
---話が通じない---
パウゼは、内心、頭を抱えた。大体、ミュゼは、パウゼ以上に一度決めたことは、必ず実行するタイプである。一度決めた軌道を変えさせるのは、並大抵のことではなく、思い返せば、一度だって自分がそれに成功したためしは、ない気がする。
ミュゼが駄目なら、アヴィを動かすしかない。パウゼは、心の内で盛大なため息をついた。