第二章 打ち上げ停止(3)
身体が鉛のように重い。パウゼは、ベッドの上に身体を投げ出した。なんとか必要な業務は、完遂した。幸い、明日は休みである。
ふつふつとこみ上げてくる怒りは、抑え込もうとしても、抑え込み切れない。あと少しで、上司のカドロスを殴り倒すところだった。
無論、そんなそぶりは、おくびにも出していない。自分が格納庫下に投げつけられかねない状況にあったなどと、彼は、露ほども気づいていないに違いない。そして、それを回避するため、どれほどの努力とエネルギーをパウゼが費やしているかも。
それでいい。というより、そうでなくては、困る。
分からない。皆は、何故ああも平気に平然と日常を送れるのか。笑ったり怒ったりはする。泣くこともある。それでも、そうした彼らの喜怒哀楽は、パウゼを襲いかかる黒いもやとは、全く性質を異にするように思われる。彼らは、ただ、泣きたいから泣き、笑いたいから笑い、怒りたいから怒り---それで、大した問題もなく過ごしているように見える。
それとも、彼らもこんな風に苦労しながら、黒いもやを抑え込んでいるのだろうか?それでいて、あんな風に何でもないような顔をしているのだろうか?
とてもそうは、思えない---パウゼは、のろのろとカッターシャツのいちばん上のボタンを外した。片手で、一つずつ外して行く。
こうして片手を動かすことさえ億劫で、このまま地面にめり込んで惑星の内でどろどろに溶けてしまいたいような、そんな気持ちがする。
---そうしたら、きっと楽になれるだろう---
そう思うと、心の奥底が震えた。
あるいは、逆にこの世界を滅ぼすか。黒い怒りに身を任せ、全て破壊し尽くせば、あるいは、気が晴れるのだろうか。
---愚にもつかぬ妄想だ---
破壊的な怒りに占拠された心の片隅で、意識の欠片がつぶやいた。馬鹿馬鹿しい。世界を破壊する力なぞ、どこにある?無関係な存在を巻き込んで、それが、何になる?そんな無茶をするより、ずっと簡単な方法がある。この世界の全てをを手っ取り早く捨て去りたいなら---
慣れた手つきでパウゼがフライパンをあおっている。辺りには、香ばしい、おいしそうな匂いが漂っており、それだけでもう空腹感が5割増しである。
パウゼは、なかなか料理が得意らしく、凝ってはいないものの、酷くおいしそうな食事を手際よく作っている。
料理上手がうらやましい。アヴィは、冷蔵庫を開きながら、そんなことを思った。どうも料理は、苦手である。何故か外は焦げるし、生焼けになる。材料一つ一つは、普通のもののはずなのに、謎の珍味ができあがる。
一方、パウゼは、アヴィの強い視線に困惑していた。一体彼女は、何をしているのだろう?冷蔵庫を開けたまま、何故かこちらをじっと見ている。中身を出すなら、さっさと出せば良いのに。
「出すなら出すで、早くしないと中身が傷む」
パウゼは、低い声でそう言った。はっとしてアヴィが、ことさらに冷蔵庫に頭を突っ込む。
全く何を考えているのやら?
程なくして、アヴィは、冷蔵庫からハムとトマトとレタスを引っ張り出した。パンを用意しているところを見ると、サンドウィッチにするつもりなのだろう。
仕上げの香辛料を振り、皿に移す。そこで、再びアヴィの視線に気づき、パウゼは、何か、と尋ねた。
「え、ああ、いや、ごめんなさい。その、おいしそうだなーと思って」
アヴィは言い、慌てたように、パンにスライスしたトマトを載せた。
「おい・・・」
そんなことをしたら、トマトの水気でパンが台無しになってしまう。
「うん?」
アヴィが物問いたげな目を向けて来、パウゼは、しまった、と思いながらも言った。
「バターは塗らないのか?」
「え?バター?ああ、うん、まあ・・・面倒だし、うまく塗れないから、いいかなーって。塗った方がいいかな?」
アヴィがそう聞いてくる。意味が分からない。パウゼとしては、そもそも、バターを塗らない、という選択肢の存在自体が、あり得ない。
「だが、塗らなければ、パンが水でぐずぐずになってまずくなるだろう?全体の味も落ちるし」
「あ・・・そっか、そうだよね」
アヴィは言い、冷蔵庫から、バターを出してきた。バターナイフで一角を切り取り、そのままパンに載せてぐいぐいと押しつけている。バラバラ、ボロボロとパンの表面が崩され、そしてとうとうパンには、穴が開いてしまった。
---見ていられない---
パウゼは、とうとう我慢ができなくなり、貸せ、とバターナイフを取り上げた。
薄くバターを削り取り、皿に置き、トマトとレタスの準備を整える。トマトとレタスの水気を取り終わる頃には、バターは、良い加減に柔らかくなっていた。
パンにバターを伸ばし、ハムを載せる。そこへトマトを載せ、更にレタスを載せて、今一枚のパンを上に載せた。布巾で包み、重しを乗せ、しばし待つ。待つ間に、説明を加えた。
「パンに水分が移るとまずくなる。だから、バターは、塗った方がいい。バターは、冷蔵庫から出して少し待てば、柔らかくなる。分厚いと時間がかかるから、薄く削るように取る。残りのバターは、すぐ冷蔵庫へ。トマトは塩を振って少し置いたら、水気を取る。レタスも、洗ったままにせず、適切な大きさにちぎって、水気を取る。載せる順番も大事だ。いちばん水分が出やすいトマトがパンから遠い位置になるように置くといい」
本当は、今少し時間をかけた方がいいが、これ以上相手をする気になれない。それで、パウゼは、重しを取り除き、サンドウィッチを切り分けると、皿に盛り付けた。
「本当は、もう少し待った方がきれいに仕上がる」
言いながら、アヴィの前に皿を置く。
「すごい、きれい」
アヴィは、思わずそう声を上げた。いつも自分で作るサンドウィッチは、パンにとにかく具材をただ挟んだだけのもので、もっとぐちゃぐちゃしている。食べれば、あちこちの端から、ボロボロと中身がこぼれ、口の周りも手もべたべたになってしまう。
「食べてみて」
パウゼに言われ、アヴィは、一口かじってみた。いつもとは、全然味が違う。
「おいしい!」
思わず笑みがこぼれる。パウゼは、ふん、と鼻を鳴らしたようだった。半ば冷めてしまった自分の皿を取り上げ、部屋へと戻って行く。その背に、アヴィは、お礼の言葉を投げかけた。
「ありがとう」