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私、フィーネ・ホイットの婚約者、アルバン・ダナトフ子爵令息はとても優しい。何せ生徒会役員でもないのに生徒会の仕事を手伝いに行っているからだ。しかも学院がある日はほぼ毎日。
だからそんなアルバン様の役に少しでも立ちたい、そう願った私はお邪魔にならないようクッキーを焼いては定期的に届けに行ってるのである。
もちろんクッキーを渡したら生徒会室に居座らずにすぐ帰っている。貴族令嬢として節度ある行動は大切なことであるから。
だからアルバン様に早く会いたくても淑女らしく廊下を歩いているのだ。
まあ、そうは言ってもはしたなくも足早になってしまっているが。しかもつい我慢できなくなり鼻歌まで。
でも婚約者を持つものなら仕方ないと許してくれるだろう。婚約者の喜ぶ顔は誰だって見たいものだから。
絶対に。
だから私の歩く速度は気持ちに呼応するように徐々に上がってしまったのである。すぐにその勢いは消え、少し開いた生徒会室の扉前で完全に止まってしまったが。隙間から話し声が聞こえてきたからだ。
しかも信じられない会話が。
「お前、婚約者のホイット子爵令嬢の事はどう思ってる?」
「地味ですね。やっぱり女は華やかでないと。なんで僕がフィーネなんかと婚約しなきゃいけなかったんだろう」
間違いなく片方の声は婚約者のアルバン様だった。ただ、それでも信じられなかったが。
だって私の知っているアルバン様はそんなことは仰らないから。
絶対に……
だから聞き間違いかもと思ってしまったのだ。次にアルバン様が仰った言葉でいやでも現実だと突きつけられてしまったが。
「金蔓だからだろう?」
「ふふ、確かに金蔓ですけど僕のじゃなくてうちの親のですよ。全く、うちの親は借金ばかり作って経営能力がないんですよ」
「ダナトフ子爵か。で、どうするんだ?」
「もちろん……」
私はそれ以上は聞けずにその場を離れる。耐えられなかったから。好きだった相手が影であんなことを言っていたことを。
だからその後は必死に泣くのを我慢してタウンハウスへと戻ったのだ。クッキーを入れた籠をその場に落としてしまったのも気づかずに。
◇クッキーの行方
「ふうっ……」
私は大きく溜め息を吐くと布団を頭から被る。また思い出したからだ。あの日のことを。
アルバン様の本音を。
金蔓と。
正直、怒りよりも申し訳ない気持ちになってしまった。もちろんアルバン様にではない。両親にだ。何せアルバン様との婚約は無理言って私の方からお願いしたことだから。
しかも両親の忠告など全く聞かずに。
だから体調が良くなったのに申し訳ない気持ちから、二人とは今も顔を会わせられないでいるのだ。
悪夢の出来事があったあの日から。
「でも、そろそろまずいわよね……」
そう呟くとちょうど侍女のユリが部屋に入ってくる。そして独り言を聞かれていたのか咎めるように言ってきたのである。
「まずいですよ。もう五日目ですから」
姉の様な存在のユリにそう言われ私はバツが悪くなり再び布団を頭から被った。
すぐに剥がされてしまったが。
しかも勝手に熱を測ると両肩に手を置き睨んできたのだ。
「お呼びしてもよろしいですね?」
私はもう降参とばかりに頷く。
「……ええ、お願い」
するとユリは早足で部屋を出て行く。そしてすぐにブランド・ホイット子爵とその妻アマンダ、つまり私の両親を連れて部屋に戻ってきたのだ。
「フィーネ!」
「フィーネちゃん!」
両親は私の名を呼びながら駆け寄ると手を握ってきた。もちろんそんな二人の手を私は握り返す。久々に大切な両親に会えた嬉しさで頬を緩ませながら。
「お父様、お母様、この数日間、本当にご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「何を言ってるんだ。フィーネが元気なら良いんだよ」
「そうよ。だから、気にしちゃ駄目よ」
「お父様、お母様……」
私は二人の優しさに感極まって涙が出そうになってしまった。ただし、すぐに唇を噛んでしまったが。別の侍女が部屋に入ってきて尋ねてきたからだ。アルバン・ダナトフ子爵令息がおいでですと。
もちろん私は帰ってもらってと答えようとした。その前に父が答えてしまったが。
「すまないが適当にあしらってくれ」
更には侍女が去っていくと私に優しい口調で尋ねてきたのである。
「ダナトフ子爵令息と何かあったのかい?」
私は口を開きかけたがすぐ閉じる。そして、しばらく考えた後に俯いたまま答えたのだ。
「……いいえ、何もありませんわ」
「本当かい?」
私は顔を上げる。それからアルバン様と会話していた人物、生徒会長のことを思い出しながら頷いたのだ。
「ええ」
「そう、それなら良いんだけど。しかし元気になって良かったよ。本当に」
父は疑いもせず笑顔でそう仰る。おかげで私は安堵しながらも内心では複雑な気持ちになってしまったのである。
まあ、これで良かったのだと今は納得することにしたが。何せ両親を危険な目に遭わせれずに済んだのだから。
特に私のためならきっと動いて下さるだろう父を。
目の前にいる私と同じ垂れ目がちな父を見つめる。子爵であると同時にやり手な商人でもある父なら本来アルバン様の件ぐらいならすぐはな解決してくれただろう。
でも、それでも頼めないのだ。王家が絡んでいるから。
しかもあの方が……
私は生徒会長であり美しき銀狼、又は冷酷な牙とあだ名を付けられ学院内でもっとも恐れられているウルフイット第三王子がしてきたといわれることを思い出す。
何人もの生徒があの方に目を付けられ退学になりその親の爵位も取り上げたことを。
要はその噂を知っていたので下手に父に相談できなかったのだ。
良い案が思いつくまでは。何せ確実にアルバン様との婚約解消、又は破棄はしないとホイット子爵家や周りに迷惑がかかるから。
しかも多大な迷惑がだ。
まあ、だからといってどうしたら良いのか私にはわからなかったのだが。それは数日経った今も。
「痛っ……」
私は額を抑える。あれから体調も良くなり久々に学院に来ていたのにあの日の事を考えていたらまた頭が痛くなったのだ。
ただ、その頭痛で良い案も思いついたが。このまま体調不良が続いて婚約解消にもっていけないだろうかと。
しかし、そんな安易な考えをするものではないとすぐに後悔する。
更に頭が痛くなる状況が起きてしまったからだ。
生徒会長、ランドール・ウルフイット第三王子……
人気のない廊下で今一番会いたくない人物に会ってしまったのだ。
まあ、すぐに首を傾げてしまったが。なぜ、こにいるのだろうと。何せ三学年違う第三王子はこの廊下は使わないはずだから。
でも、理由はすぐわかった。ボーっと考えていたら目の前に美しいお顔が現れたから。私に用があったのだ。
「もう平気か?」
ただし、仰っている意味がわからず、更には恐怖のあまり思わず謝ってしまったが。
「すみません……」
第三王子は怪訝な表情を浮かべる。
「なぜ、あやまる?」
「そ、それは……」
私は思わず言葉に詰まっていると第三王子が唐突に見覚えのある籠を出す。更には顔を背けながら仰ってきたのだ。
「……クッキー美味かった」
おかげで私の思考は停止してしまった。だってしょうがないだろう。退学でも爵位を剥奪するでもなくあり得ない言葉が出てきたからだ。
クッキー美味かったと。
正直、理解出来なかった。ウルフイット第三王子が私が作ったクッキーを食べたという事実に。
だから、私はその言葉を仰り去っていく第三王子の背中と手に持つハンカチが被さられた籠をただ交互に見ることしかできなかったのだ。