③【完】
頭はこんがらがったまま。
気持ちはグチャグチャのまま。
仕方なくわたしは、プリントを捲った。
『或いは』
【巨大な換気扇の向こうからは、朱色が漏れている。
向こう側は朝焼けか夕焼けが広がっているのだろうか。
わたしの目の前にある巨大な換気扇が立ちはだかっていてわからないけど、そこを通過したら向こう側の世界が開けるのだろう。
朝焼け、もしくは夕焼けを浴びることもできるのだろう。
わたしには歩いて通過する足もないので仕方なく、その場から動かずにいる。】
さっきと内容が違う?
いや、巨大な換気扇が本文に出てくるから同じか。
でも、違いを見つけたことで少し安心した。
もしかしたら、わたしは昨日の記憶と混合していただけなのかもしれない。
三竹先生の授業が自習ばかりだから、同じことを繰り返しているような気がしちゃったんだ。
そうだよね?そうであって欲しい。
「祥子~、わたしの…わたしの仇をっ!!」
妙に芝居がかった声がすぐ側から聞こえてくる。
プリントから顔をあげると、目の前いっぱいに液晶画面が広がっていた。
「え?」
「だーかーらー!!コイツが強くてさ、負けちゃったの!だから、仇を!お願い、祥子!」
そう言って、拝まれる。
いや、お願いのポーズなのだろうか。
さっきまで感じていたピリピリとした雰囲気はどこにもなく、いつも通りの明日香がいる。
彼女の機嫌がなおったってことでいいのかな?
これは、仲直りしたってことでいい……のかな?
心に引っかかるものがあったけど、わたしはそう受け取った。
「本当にごめんね」
「えーっ!!仇とってくれないの?ケチ祥子!」
「そうじゃなくて!さっき、お菓子をくれるって言ってくれたのに、わたし嫌な態度をとったでしょう?」
「ちょっ、ストープッ!!何の話?」
やめて。この感覚は数分前にも味わったばかり。
この明日香の表情。何を言っているんだろう、という表情をわたしに見せないで。
「さっき、リュックにしまっていたじゃん!!あとで食べるって言ってさー」
背筋がゾクリとした。
唾を飲み込もうとして、口の中がカラカラなことに気づく。
「なになに~、まだ欲しいのかい、祥子くん」
明日香はそう言ってリュックの中を探り始めた。
わたしも自分のリュックの中を祈るような気持ちで見た。
「…何であるの?」
「そりゃあ、わたしがあげたからに決まっているじゃん!!ちょっと大丈夫?なんか様子がおかしいよ?」
「うん。そうかもしれない。だって…」
わたしがついさっきヒドイ断り方をした一口だいのチョコが中にちゃんと入っているなんて。
絶対におかしいよ。
混乱した頭で何とか整理しようと試みる。
もしかして、今日じゃなくて昨日の出来事もごちゃ混ぜにしている可能性もあるよね。
「ねえ、昨日もこのチョコくれたよね?」
「今日、発見したばかりだよ!」
「…そう」
頭が痛い。わたしはこのチョコをさっきは断った。
その前は明日香と一緒に食べた。
ちゃんと味も覚えている。
じゃあ、リュックの中に入っている、このチョコはいつ貰ったものなの?
頭が割れるように痛い。
教室がざわめき始めた。
課題を終わらせた人たちが話でもして盛り上がっているのだろう。
「ねえねえ、写しちゃってもいい?」
冷静になる間も与えてくれないらしい。
ただ、時間だけが過ぎていく。
頭がズキズキ痛くて痛くて泣きそう。
明日香がわたしのプリントに書いてある答えを書き写している。
もちろん、書いた記憶はない。
『或いはの解答』
【この世界はまた拡張されました。
『わたし』はまた一つ先の世界へと進んだのだと思います。
ですが、自身が人間である答えが未だに見つかりません。】
わたしの字がわたしの考えを無視して羅列している。
「ちょっ?!祥子!!」
明日香が驚きの声をあげる。
教室が一際、ざわめき始めた。
床にはわたしが破り裂いたプリントが散らばっている。
「なんてことをするの?!」
「だって、そこに書かれた文字はわたしを混乱させるんだよ?」
「何を言っているの?」
今やクラスメイト全員の視線が突き刺さっている。
ーーーような気がした。
だけど、そんなことはもうどうでも良かった。
むしろ、羽音を立てながら無数の小バエがビリビリに破いたプリントの上を飛び交っている方がおかしい。
ううん、もっと前からおかしかった。
『或いは』が何なのかを考えようとした時からおかしくなった。
考えるようになったのはいつからだろう。
わたしは小バエを見つめる。
こんな異常な状況でジッと小バエを見つめる、わたし。
逃げることもしない、わたしもおかしい。
でも、仕方ないよ。だって、わたしには小バエを払う手も逃げる為の足もないんだから。
それらはいつからなかったのだろう。
ボンヤリと考える。わたしは今、どこにいる?
確か教室で自習課題をやっていたはずだ。
それならば、明日香はどこに行ってしまったのだろう?
羽音がうるさい。小バエが鬱陶しい。
どこに今わたしはいる?自身が人間である答えはどこに?
わたし。手。足。なに。
うるさいくらいに鳴っていた音は、頭の中で形作られていく。
これは、何?
ああ、チャイムの音だ!!
寝坊した時のような勢いで、わたしは起き上がった。
背中や額が汗でぐっしょりだ。
制服なんかは身体に張りついて気持ちが悪い。
「夢で良かった」
でも、あまりにもリアルだった。
その内容を思い出すだけでも鳥肌が立つ。
今日のわたしはどこかおかしい。
昨夜、遅くまで苦手な教科の予習と復習をしていたせいかもしれない。
本鈴が鳴る前に教室に戻らないと。確か次の授業はーーー次の授業は何だっただろうか。
とにかく、教室に行けばわかるだろう。
待っていてくれればいいけど。
ーーー一体、誰が?
頭が痛くなってきた。吐き気もする。だけど、授業には出ないと。
フラフラする頭と身体のまま、わたしは保健室から出た。
自身が人間である答えは未だに見つかりません。
背後から、そんな言葉が聞こえてきた。
ーーーような気がした。
わたしは教室に入ると、一番最初に黒板を見た。
そこには『自習』と書かれてあった。
「またか」
何が『また』なのかを考えるのが恐い。
何かが足りない気がする自分自身も恐い。
その『恐い』ことを静かに蓋をして思考を停止させた。
自習と書かれた文字の横から矢印がまっすぐに伸びている。
それを視線だけで辿れば、廊下にプリントが一枚置かれてあった。
教室には大量の小バエが飛び交っている。ここにはいたくない。
わたしは仕方なく廊下に向かった。
プリントを拾い上げ、内容を確認する。
『或いは』
【わたしと共に小バエがいる。
何故、小バエは向こう側へと行こうとしないのだろう。
その小さな身体を巨大な換気扇によって、散り散りにされるのを恐れているからだろうか。
わたしには散り散りになる身体もないので、小バエの気持ちはわからない】
小バエと共にわたしもいる?
そうだ。どの場所でも『いる』という意識は鮮明に生きている。
わたしは人間である証明をすぐには見つけられない。
だけど、『わたしだ』という感覚は在る。
ない。だけど、在る。
この矛盾した中にわたしはいつから存在してきたのだろう?
小バエはいつから、小バエか?
わたしは何故、小バエではないわたしなのか?
小バエはいつから、周りを飛び交い始めたのだろう?
一度生まれた疑問は洪水のように溢れだして、次から次へと『何故』を生み出す。
物体としてのわたしはとうとうなくなった。
手も足も身体そのものがない。
それなのに『わたし』という意識は在る。
小バエはわたしの意識の中を飛び交っているのか?
それならば、わたしがわたしをやめたら消えてしまうのか?
巨大な換気扇は何を隠しているのか?
朝焼けなのか?それとも、夕焼けなのか?
わたしには目もないのに…何で、視覚だけはハッキリとしているのだろう?
生まれたばかりの赤ちゃんみたいな新鮮な感覚。
物事を覚え始めたばかりの子どもみたいな不思議な感覚。
それらを同時に感じながら『何故』がプリントの解答欄を埋めていく。
プリントはずっと先まで置かれてあった。
それを意識だけのわたしが……それでもなお、わたしで在ろうとするわたしが追いかける。
プリントが途切れた先に巨大な換気扇が立ちはだかっていた。
こぼれてくる朱色がとてもキレイだ。
温かい風に吹かれたわたしの意識がフラフラと何かにぶつかる。
わたしはその『何か』に『視線』を向けた。
ああ、三竹先生。
そこにいらっしゃったんですね。
ーーーー
放送室から出るとため息を吐いた。
何もあんなに怒らなくたっていいじゃんかっ!
部長っていうだけでエラソーにさ。
これは祥子に愚痴を聞いてもらわないと、だ。
そういえば、祥子はこの頃、保健室に行ってばかりな気がする。
入院しなくちゃいけないぐらいの病気とかになったらどうしよう。
考えているだけで苦しくなってきた。
ウケ狙いのこのチョコで元気になってくれたらいいけど。
東校舎にある保健室はすっごく無気味でわたしはあまり好きになれない。
ドアには【退出中】と書かれたプラカードが今日もぶら下がっている。
保健の先生をずっと見ていない。
ーーーような気がするけど。
ソーッとドアを開けて、中を覗いてみる。
窓際を好む祥子の姿はない。
ただ、小さなハエの群れが室内を飛び交っている。
教室に戻ったのかな?
保健室のドアを閉める一瞬、あのハエの群れの中に祥子を見たような気がした。
ーーーー
『或いは』
【わたしは小バエを意識の中で飼うことにした。
いや、わたしこそが小バエの一部なのかもしれない。
それならば、わたしは巨大な換気扇の向こう側へと行ってみたい。
例え散り散りになったとしても、世界は揺るがない。
大丈夫。
何も恐れはいらない。
わたしをわたしとわたしが呼ぶだけで、わたしはわたしでいられるのだから】
【完】