心もどき
自分の人格という人格はなく。ただそこに己がいる。
誰かに嫌われたくないから。
誰かに叱られたくないから。
打算で人の言動から人格をつくり、他人が欲しい言葉と反応をしめす。
ご機嫌取り、と人からは言われる。
だが、機嫌も何も己の生き方がそれなのだから、どうしようもない。
それが、自分の見出した生き方なのだから、どうしようもない。
変えようとも思わないし、かえられるものでもないと自覚している。
心がないのか。いつかつい口を滑らせて本性を知られてしまった知人から言われたことだ。
全くその通りだ。
己には心がない。
心という概念はわかるが、概念は概念のまま。
それが己に備わっているとは思わない。
あるとすれば、誰かに教えられた心という、とてもおぼろげな、いわば、心もどきだ。
心もどきは感情を浮かべる。しかし、その感情は着色された感情で、バラエティにいる客の笑い声にそっくりだ。
中身のない演出としての感情。それが己に備わった心もどきの限界だ。
しかし、それでも生きる上では事欠かない。
ただ生きるだけならば、何の不自由もない。
けれど、回りには気づけば人が消えている。
自分一人。たった一人でそこにたっている。
寂しそう。と他人は言うだろう。
そして私も寂しいと、言葉にし、また寂しいそうな自分を演じるのだ。
しかし、残念なことに寂しいという感情を、自分の心もどきではとうてい理解することはできない。