昔拾った仔犬はなんと獣人でした。
休日の朝は遅い。特に趣味もなく彼氏もいない一人暮らしの独身女ならなおさらである。
寝るだけが幸せ、と言わんばかりに惰眠を貪っていると、玄関のチャイムが来客を知らせた。
寝起きでぼんやりとしていると、ドアを叩く音がする。せっかちだなあ、何の配達だろう。
はて、何を注文してたっけ、と寝ぼけた頭で考えながら私は玄関に向かった。その間もドアは連続的に叩かれている。
「はいはい、今開けますよー……」
ろくに確かめもせずドアを開けるのは私の悪い癖だ。今回もついチェーンを外し、無防備にドアノブを回してしまった。
そして珍客と対面する。
「こんにちは。――綾月ゆず、さんですよね」
「……チガイマス」
その通り、私は綾月ゆずだ。しかし、とっさに否定してしまったのには訳がある。
「え。いや、違っていないのに……?」
戸惑った様子で首をひねっているのは、明らかに見覚えのない青年だったのだ。髪は黒だけど、彫りの深い顔といい青色の瞳といい、どうみても外国の人だ。
それだけならまだしも、後ろに五人も横一列に並んでいる。おまけに青年も含めて全員映画俳優顔負けの美形ぞろい。はっきり言って安アパートの背景に浮きまくっている。怪しい。怪しすぎる。
「失礼」
つい否定してしまったけど、さてこの後どうしようか。
私がそう考えていると、青年はいきなり顔を近付けてきた。整ったやや野性的な顔を間近に見ることになり、私が赤くなる中、なんと彼は。
くん、と私の匂いを嗅いだのだ!
「ああ、やっぱりゆずさ――」
「こ、この変態がぁああ! いっぺん死んでこい!」
「がふぅっ!」
「ああっ!?」
「アルフ様!」
思わず青年を殴り飛ばし、私は怒鳴りつけた。後ろに待機している男性達が慌てて青年を助けおこし、私を睨み付けるが、そんな彼らを制して青年は再び私の前に立った。
「違いますよ、ゆずさん。僕は変態じゃありません!」
「殴られたことよりそれが問題なの? じゃなかった、嘘つかないでよ! 今、匂い嗅いでしょうが!」
「そ、それはゆずさんを確認するためで――ああ、もう!」
青年は苛立ったように黒髪を掻き上げると私を見据えた。
「ゆずさん! 僕ですよ。“クロ”です! ――覚えていませんか?」
「黒さん? ……どこかで会ったっけ?」
私が首をひねると黒と名乗った青年はさらに言い募った。
「拾ってくれたじゃないですか! 十四年間に、公園で!」
「あ、あなたみたいな人を拾った覚えはないわよ! だいたい十四年前なら私は小学二年生で――」
――小学二年生。公園。拾った。
言い掛けた言葉が途中で力を無くして消えてゆく。
クロ――その名前には、確かに覚えがあった。
「……えっと。確かに私は小学二年生の時、黒い仔犬を拾って、クロと名付けたけど」
「思い出してくれましたか!?」
目を輝かせる青年に、私は怪訝な顔をしたままで尋ねた。
「でも、どうしてその事を知っているの? あ、もしかして、クロが私の所からいなくなった後、拾ったとか……」
そこまで言って、それでもおかしい話だということに気づいた。
公園で拾った事などは、私と両親、あとは妹くらいしか知らないはずだし、そもそもどうして私がクロを拾ったことを知っているのか理由にならない。
やっぱり怪しい。怪しすぎる。
警戒の視線を青年に向けると、彼は首を横に振った。
「違います、さっき言ったでしょう? 僕はクロです、って」
「……えっと」
「クロなんです。ゆずさんが拾って、世話をしてくれた」
「…………」
……これはあれだろうか。ちょっとやばい人ではなかろうか。
イケメンなのにもったいない、救急車を呼ぶべきかな、それとも警察……と、私が一歩後ろに下がりながら検討していると、自分を犬だと言い張る危ない青年に、背後に立つ男性の一人がなにやら耳打ちした。
青年は真剣な表情で頷き、私へと視線を向ける。
「そうだな、確かにそれしかないか。……ゆずさん、中に入って下さい。証拠を見せます」
「え、ちょっと!」
青年は私を部屋に入れ、なんと自分も中に入ってきた。ドアが閉まり、狭い部屋の中に青年と二人きりになる。
うわ、どうしよう。大声を上げたらアパートに住んでる他の人が助けに来てくれるだろうか。
「きゃ……え?」
悲鳴をあげようとした私は目を丸くした。部屋に押し入った青年が、何故か靴を脱いで中に入ると四つんばいになったからだ。
これは一体どうしたらいいのだろう。
もはや理解不能でただ青年を見つめていると、それが起こった。伏せた青年の頭が変わってゆく。手に顔に黒い毛が生えてきて、身体がどんどん縮み、体格も変化して……着ているシャツとズボンがぶかぶかになってずり落ちる。
「……ふう」
数秒後、私の目の前には艶やかな黒の毛並みをした大きな……犬がいた。
犬は円らな青色の瞳で私を見上げ、口を開く。
「どうですか? これで僕がクロだって信じてもらえますか?」
「…………」
「ゆずさん?」
このあたりで私の意識は限界を迎えた。
「わああ、ゆずさんーっ!?」
あ、部屋散らかってた。後で片付けないとなー。
現実逃避なのか、そんな呑気な事を思いながら私はゆっくりと倒れたのだった。
*****
――あれは、そう、今ぐらいの季節だった。
あの日は雨が降っていた。
私は学校のクラブ活動が遅くなってしまって、急いで帰ろうとしていた。近道をするには公園を通った方が早い。
そうして公園に足を運んだ私は、そこで雨に濡れる一匹の仔犬と出会った。
ぐったりとベンチの下で丸くなっていた仔犬を連れて帰った私は、当然のように親に叱られたけど、なんとか飼うことを許してもらえた。
仔犬はかなり人間を警戒していたけど、それも時間が経つと慣れたのか気にならない程度になり、次第に懐いてくれるようになった。
クロと名付けた仔犬は、利口で可愛かった。だけど、クロとの生活はたったの一月で終わりを迎える。 ある日散歩をしていたら、何故かいきなり吠えて暴れだしたのだ。突然のことに驚いた私はリードから手を放してしまい、クロはどこかへ走りだした。
慌てて追い掛けてけど、クロは一目散に駆けていて、私がどんなに呼んでも振り向いてもくれなかった。
どんどん遠くなるクロの姿に、泣きながら名前を呼び続けたことを、まだはっきりと覚えている。
――泣きじゃくる私を冷静な私が見ていた。
ああ、これは夢なんだな、と思ったらとたんに目が覚めた。
「ああ、ゆずさん。気が付きましたか?」
見慣れた天井を遮るように覗き込んできたのは、夏の空を思わせる明るい青の瞳の青年だった。
「……あなた、確かクロ、よね?」
「はい。そうです。やっと信じてくれたんですね」
嬉しそうに笑う青年――クロを見ているうちに、過去の記憶がよみがえり、苛立ちが膨れ上がった。
人間が犬になった不可思議現象よりも怒りが勝り、私は寝かされていたベッドから起き上がるとクロを睨み付けた。
「なによ。今更なんで戻ってきたのよ」
「え……」
クロが目を見開いて驚きを顕にするが、一旦喋り出した口は止まらなかった。
「あの日、逃げたあんたをどんだけ探したと思う? 車にひかれたりしてないかと心配して……」
「……すみません」
クロは深々と頭を下げた。
「実は、あの時知っている匂いがして、いてもたってもいられず……」
「……知っている匂い?」
「はい。そもそも、どうして俺がこの世界にいたのかも説明しますね」
そう言って頭を上げたクロは真剣な顔をしていた。
クロの話によると、こことは違う世界があり、そこではクロのように動物の姿になれる“獣人”と呼ばれる人がいるらしい。
クロは獣人の国で生まれ、毎日駆けずり回って遊んでいた。そんなある日、歪みと呼ばれる異世界へと繋がっている場所を発見し、一緒にいた友達の制止を振り切って中に入ってしまう。
しかも、それだけならまだしも、たまたま走ってきた車に驚いて逃げ出してしまい、道に迷ってしまった。雨で匂いを辿ることも出来ずに公園で途方に暮れているところを私に拾われた、らしい。
「知人が探しに来てくれて、ようやく俺は元の世界に戻ることが出来ました。落ち着いてすぐゆずさんに会いに行こうとしたんですけど、もう歪みが消えかけていて両親に止められたんです」
「……じゃあ、どうして今はここにいるの?」
「歪みは一度できると一定の周期で現れます。ここへの歪みはどうやら十年に一度のようで、ついこの間現れて……ようやく、ゆずさんに会いにこれました」
クロは目を柔らかく細めて私を見つめる。私はなんだか急に部屋に男性と二人きりという状況が気恥ずかしくなり、クロから目を逸らした。
「そ、そういえば犬の姿でも喋っていたわよね? なら、どうして昔は喋らなかったの?」
「……最初は警戒していたからですが、後になるとゆずさんが怖がるかもしれないと思って……」
でも、とクロは緩く首を振る。
「帰った後、後悔しました。俺は自分のことを何一つあなたに告げていない。保護してもらえてすごく助かったのに感謝も伝えていない。……ちゃんと伝えたかったと思いました」
そっとクロが私の手を握り締める。温かな大きな手の感触に、私の心臓がどきりと跳ねた。
クロは私を見つめると、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、ゆずさん。あなたのおかげで俺は無事に元の世界に帰ることが出来たんです。感謝しています」
クロはかなりのイケメンだ。いつもの私なら真っ赤になっていたと思う。
でも、今の私はあの日のクロの姿が青年のクロに重なって見えていた。
クロがいなくなって、落ち込む私に両親は新しい犬を飼うことをすすめてくれたけど、断った。もうペットはこりごりだったから。
それでも、小さい仔犬を見かける度にクロを思い出すことは止められなくて、いつもどこかで気になっていた。
「……無事で、良かった」
ようやく言えたその一言に、クロが嬉しそうに笑って頷く。
もうすっかり、目の前の青年が犬になれることや、昔拾ったクロだということを受け入れている自分に、苦笑がもれる。
でも、悪い気分ではなかった。
私が微笑むとクロも嬉しそうに笑う。そんなほんわかムードの中、クロが言った。
「ゆずさんにはたくさん良くしてもらいましたから、頑張って恩返ししますね」
「え……いいよ、そんな」
「いえ。両親にもしっかりと恩返ししてくるようにと言い付けられていますし。なにより、僕がそうしたいんです。――だから、覚悟して下さいね」
「え?」
覚悟? 期待じゃなく?
私は疑問符を頭に浮かべてにこやかに微笑むクロを見つめた。
この時の私は、クロことアルフが実は獣人族の王子だということも恩返しの方法もわからず、呑気に首をひねっていた。
数日後、アルフがアパートの空室にお付きの青年達と引っ越してきて、どたばたとした生活が始まるのだけど、今はまだ平穏だったのである。
お読みいただき、ありがとうございました。