世界が死ぬ日
君は切り裂かれた。
君は変わった。
変わってしまった私が、今更、誰かの手を取るなんて誰が許すと言うの。
君が少女だった頃、俺はずっと側にいた。隣にずっと控えている騎士をしていた。
私が王女だった頃、私はずっと理想論と綺麗事を並べ穢れのないフリをしていた。
けれど世界はいつだって死ぬ。跡形もなく、微塵もなく、欠片もなく。いっそ高尚な程。
ぬるい風が頬を撫でた。嫌悪感に眉をひそめながら、流れる髪を無造作に横に流して山腹から街を見下ろす。眼下に広がる荒れた街はごみにまみれて、けれど美しい。そこは少し前まで栄えていた王都。今や世界から消えた小国の首都だった場所。そしてかつて私を廃絶した場所。
「姐さんっ、今日はうまくいきましたね」
「傷付けないように、値が下がる」
「わかってますって」
数人の集団は山の暗闇の中にも関わらず、臆する事なく歩き続ける。やがてたどり着いた洞窟の中には仲間がいた。
「御苦労、アイラ」
「……………」
低く苦笑するような声が洞窟に響く。鍛え上げられた肉体を持つその男は軽々と近付いてきて当然のように私に触れた。
「久しぶりの王都はどうだった、王女様」
煽るように耳元で囁いて私を強く抱き寄せる。抵抗する事もなく腕の中に収まった私はさらりと身を預けて言い切った。
「何も感じない、あんな場所」
真っ直ぐに告げた私にそうか、と一瞬、そいつは驚いた顔をして直ぐ様、周囲に声をかける。
「よし、成功を祝って今日は宴会だ!」
賑やかな騒ぎが止み、皆が酔い潰れた頃、黙って私は洞窟の外に出る。今度の風はびくりとする程に冷たかった。
月を見上げながら私は王都を思い出す。かなり荒廃していた美しい場所。かつての面影はなく治安も悪い。
綺麗だった頃の王都は開かない塔から毎晩、眺めていた。前王妃の子供であった私は新しく王妃になった女に疎まれて視界に入らないよう幽閉されていて、毎日、外を眺めるのが習慣だった。
けれど私が唯一、許された景色。今やそれもない。
大国の勢力争いに巻き込まれて国は滅んだ。たった一瞬の事だった。私は何も知らないまま、やって来た敵兵に連れ出され、全てを見た。
敵兵は私を見て嘲笑し、私は無我夢中で逃げた。運が良かったとしか言えない。振るわれた暴力に怯えたし、舐めるような視線が穢らわしかった。
けれどそれよりも何よりも耐え難い環境の中で心を保つ為に偽善的に生きていた私は何よりも穢らわしかった。
何も知ろうとせず、生きようとせず、ただ人形だった。
「―――どこに行く?」
突然聞こえた声が、小さく震え続ける私の身体を太い腕で背後から抱き締める。
「……シウ」
気配もなく急に触れた暖かさに瞠目して身動いだ。
「どこに行く気だ、アイラ」
冷ややかな視線が射抜いて渇いた掌が私を掴む。目の前でめずらしい色の澄んだ薄い蒼と銀の散った瞳が揺れた。
「……どこにも」
その勢いに思わずかすれた言葉が風に消える。
この人、は、どうして私なんかにこんな表情をするのだろう。
痛い程に囚われた身体が熱に負けてぐらりと傾いた。
「―――行かせない。御前はどこにも」
酔いの中で反芻し混濁し、わずかに覗くシウの感情。
全てを知りたがるように、残らず奪うかのように、重なる身体の熱も、啄む唇も、力強くけれど優しい手も、今の私は嫌いじゃなかった。
誰かに求めてもらえるだけで幸せだった。純粋に熱だけを含んだ瞳が、私を安堵させ続ける。
************************
過去の自分が大っ嫌いだった。
正義、理想、大志。それらを信じて私は騎士になった。
王族からの信も厚くなり出し、官位も上がり出した頃、二つの密命を受けた。……王と新しい王妃から。
「王妃の手から愛しい王女を守ってくれ」
「王女を見張り、何か疚しい所があれば即刻殺せ」
「――はい」
ほぼ同時期に受けたその密命。街の中で王女は冷遇されていると有名で、どちらに付くかの答えも出ないまま、私は王女に出会った。初めて純白な人間に。
王女の暮らしは庶民より遥かに酷いもので、ろくな食事も、破れていない服も、広い部屋も、何もなかった。
狭く薄暗い塔の中で静かに本を読み、朝夕祈り、何かを運んでくる人間と二、三言、言葉を交わしただ外を見つめる。
………唖然とした。
これが人間の暮らしなのかと。怒りが沸いたし、何も出来ない自身の無力さに愕然としたし、なのにこんなにも優しく微笑む王女を慕うのに時間はかからなかった。
「いつも有難う、シオン殿」
「……いえ」
鎧の仮面越しにそっと彼女を眺めては劣情を抑える。
欲しかった。
知って欲しかった。
自分の想いも抱えている痛みも。
けれどそれ以上に外の世界を与えてあげたくて、でもこのままここに閉じ込めていたい薄暗い感情を持て余して苛立つ。
……王妃の言う通り、彼女を自分の手で殺してしまおうか。
自分だけのモノになる。誰にも手を出されない。その上、殺す時に見られる彼女はきっと誰も見た事のないモノ。恨み、罵り、怒り、怯え。涙の姿すら誰も知らない王女。
飽きる事もなく焦がれて執着し、夢の中で何度も犯して幾度も殺した。
―――が、やがて余りにも呆気なく、痺れを切らした王妃に私は城から追放された。
荒れた状態で酒を飲み、金の欲しさに働く事もなく盗みを繰り返し次第に麻痺していく。あの微笑を忘れる為に躊躇う事もなく麻痺し続けた。
そして気が付いたら国は大国の手に落ちていた。
王族は広場で次々と処刑され曝されていく。
でも何故か王女はいなかった。
封印した筈の想いが零れて、焦る気持ちだけが先を行く。
知りたいという思いと、知りたくないという思いが交錯し、冷たい汗が伝った。敵兵の慰みにされたと聞いた時はその辺にいる人間を全員手当たり次第に殺してやろうかと思った。
だからもう離さない。
「離してくださいっ」
「待て!よく顔を見せろ、御前の髪の色は王女と同じだ」
再び出会った時に感じたのは暗い喜び。数々の女が捕まる傍で息を潜めて隠れていた女。
高揚した感情に身を包んで、そいつが捕まる前に入り込む。
「それ、離してくださいよ。そいつが王女?」
仄かな懐かしい香りに身を寄せ顔を隠すように胸に押し付ける。
「これ、俺の馴染みの女なんで連れていかないでください。すみません。ほら、行くぞ」
堂々と軽く笑って、兵士に何か言われる前にその場から立ち去った。
「待っ……て、くだ、私は、」
「知ってる。御前は王女なんだろう。尋ね描きによく似てる」
本当は誰よりも知っているけど。何よりも優しさを身に纏った優しさを知らない王女様。
開きかけた彼女の唇を指でなぞる。少しかさついた柔らかさに多少満たされて笑う。
―――手に入れた。
ただそれだけだった。
「もちろん、ただじゃ助けない」
「……じゃあ何を、」
「今日から御前は全部、俺の物だ」
狂気染みた感情が全てを支配する。また何かを彼女が言う前に居場所から、世界から、彼女を奪った。
名残惜しいまま過ぎ去った熱の余韻から手を離す。手に入れた筈が逆に遠い存在から目を離して街に向けた。
「……帰って来ないかと思った」
街を見て、懐かしくなって。前よりは少しだけ状況も落ち着いてきて一人でも生きていけるかもしれない。まだ落ち着かない不安を騙して抑え込み、アイラを見る。そして長い金髪をすくい、弄びながら誓うように口付ける。
無理矢理、求めても虚しさは変わらない。でも近くにいないよりはずっとましで、どうしようもない。
心を繋ぐ鎖でもあればいいのに。絶対、閉じ込められるような。
………貴女はいつまで、私を赦しますか?
貴女を守る事すら、むしろいつ傷付けるかもわからない私を。
貴女が望むなら、今すぐ心でも腕でも髪でも心臓でも命でも差し出すのに。
貴女の嫌う貴女を知っているという私は、たくさんの嘘をいつまで自分の心に貴女につき続けるのだろう。
不安だけが募って心は埋まらない。昔、……あの時、言いたかった言葉が思わず小さく漏れた。
「…………愛してる。貴女が欲しい」
本気で、何もかも忘れて、ごまかす事なく。そう。あの時、ただそれだけが言いたかった。ありふれた言葉だとしても、それ以外に言葉がなかった。
堪え切れない想いで、そっと手を伸ばして触れた頬はひやりと冷えていて慌てて落ちていた自分のコートを被せる。ふっと急に開いた緑と目が合って更に慌てた。
「――嘘吐き。私の事なんて誰も本気で必要となんてしてくれないのに。その目……騎士の貴方は絶対に私を見てはくれなかったのに」
気付かれていた事実に目を見張り、けれど何よりも容赦なく自分に触れる手に狼狽えて心が波立つ。
赦すような、誘うような艶めいた表情に気がおかしくなりそうだった。わずかに躊躇だけが掻き止める。
「………俺が本気で欲しがったら御前を壊す」
壊すというよりも狂って殺すかもしれない。こんな感情が自分にあるなんて思いたくもないのに。
「なら壊せばいい」
強く言い切って俺の胸を押す。俺と同じように不安で揺れた感情が目に映る。
「壊して、一緒に壊れて」
その瞬間、
堕ちていけばいいと思った。
たとえ今が王女の一時の戯れでも本気でも。
堕として、一生、捕らえる。
ただ君だけを。
貴女が望むなら、いくらでも。
世界は回る。世界は変わる。
でも何も変わらない。
ある日、世界が死んでも、ヒトは死なない。壊れて壊れて、あっさりと時は流れる。
だから愛して。
出来るなら、一緒に死んで壊して―――