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2005.2.7 新潟

頭の上は見事な冬晴れで、青黒いまでに高い空が広がっていたが、西の方には重苦しい色の雲の壁が出来上がっていた。

 昼頃には雪か?雨か?

 未舗装の砂利道の上を走る新潟県警の捜査車両であるクラウンの後部座席で、西の空を眺めながら畑警視は気分を紛らわせるように考える。

 隣の座席には、新潟県警本部刑事課の坂崎警部が、西郷隆盛並みの太い眉毛の尻を下げ、沈鬱な表情で前方を睨む。

 その視線の先には、土煙を上げ走るダンプ。鎌首を振り回すバックホー、軽々と巨大な鉄板を持ち上げるラフタークレーン。そして、無機質な重機の足元を歩き回る無数の作業員たち。

『この中に、ほんの数日前まで木村貞男は居たのだ』

 そう思うと畑も『忸怩たる思い』とやらが腹のそこから湧いてくる。木村の持つ動物並みの『逃亡者のカン』にしてやられたのだ。

 窓のガラスの一枚しばきたくなる心境ではあるが、それ以上に腸を煮えくり返らせているのが坂崎警部だろう。

 警視庁と並ぶ天下の大阪府警が十年間も取り逃がし続けた殺人犯に、自分の手でわっぱを嵌められると言うこれ以上ない栄光を目の前で取り逃がし、本来なら胸を張って出迎えるはずの上級職の畑を平身低頭で迎えねばならない屈辱は、慚愧に耐え難いなどと言うものではなかろう。


 昨年十月に発生した新潟中越地震で、痛めつけられた道路や橋梁の復旧工事を請け負っている二次協力会社の現場監督が、自分の班に入ってきた土工の中に、木村貞男そっくりな男がいるとの通報を現場近くの交番に通報しに来たのが一週間前。

 その後、坂崎警部が率いる県警本部刑事課の捜査員が工事現場の近くの藪の中に潜み、越後平野を吹き渡る寒風に耐えながら双眼鏡で監視し人相を確認、本人に極めて似ているとの確証を得て大阪府警に連絡を取り、継続捜査係の到着を期してその人物が寝起きしていた飯場に踏み込んだものの逃亡した後だった。それが三日前の事である。

 上司である現場監督の態度から察したのか?それとも周囲に迫る捜査員の気配を、それこそ『逃亡者のカン』で嗅ぎ取ったのが?まさに絶妙なタイミングで姿を消した。


 新潟駅で特急を降りたとたん、出迎えた坂崎が深々と頭を下げ「誠に申し訳ありません!」と悲痛な詫びを述べた時も、畑はその肩を叩いて。


「ま、気にせんといて下さい。愛知県警も北海道警も、うちですら逃がした『逃げの天才』ですから、木村は」


 と、慰めたが、それは半ば自分に対する言い訳でも有ったかと、言ったあとで少し後悔しながら坂崎に案内されるがままに木村が直前まで居た工事現場に向かった。

 だが、『逃げの天才』という感想は決して的外れでも言い訳でも無いと畑は確信している。木村には一種独特の『逃亡者のカン』が備わっているのだと、彼が逃げた現場を回るたびに思い知らされた。

 確かに、初動の段階において、阪神淡路大震災やオウム真理教事件などでまともな捜査が行えなかったもの原因ではあろうが、その後の十年にも及ぶ逃走を支えたのは、その『逃亡者のカン』だったのだろう。

 最初に木村の尻尾を捕まえた名古屋では、潜伏先のアパートの大家が、公開捜査番組を見て直接大阪府警本部の継続捜査係に通報してきたのだが、木村もその番組を見ていたらしく、カンを働かせ通報のその日の深夜にアパートから姿を消し、真夜中の名阪国道を飛ばしに飛ばして駆けつけた畑らの手から見事すり抜けた。

 北海道では、入り込んでいた釧路川の護岸工事の現場で、同じ班にいた同僚から通報され、道警の指示でその同僚が飲み屋に誘い出し、本人確認と身柄を確保しようと画策したが、当日になって姿を消してしまった。

 子供の頃から人の顔色を伺うのが得意で、表情から相手の気持ちを察して行動してきた。臆病者の処世術が彼の逃亡を支えたのだろう。


 信濃川の広大な河原に建てられた二階建てのプレハブの現場事務所では、通報した監督が待っていた。

 四十半ばのよく日焼けした如何にも職人然とした小太りの男。パイプ椅子に座り、熱い茶を啜る畑の前に一冊のファイルを差し出す「これが『北村豊治』君の新規入場者票と顔写真です」

 そうか、此処では『北村豊治』を名乗っていたのか。北海道の潜伏先にいた同僚の名前を拝借したんだな。そう思いながら畑は作業員が現場に入った初日に記入が義務付けられる書類に目を通す。氏名、血液型、年齢、生年月日、住所、所属会社の有無、緊急連作先等など。無論、書いてあった内容はほとんどデタラメ、ただ、嘘をついてもしょうがない血液型と生年月日は本当だった。あと、現住所。この後、ここに行くことも予定に入っている。新潟県警がガサ入れし、めぼしい物は何もないとは思うが一応は見ておきたい。

 次に顔写真を見る。

 細い目尻にはカラスの足跡の様な皺、頬にはいくつかのシミ、頭髪は幾分後退している。名古屋、釧路と、その度に木村の最新と思われる顔写真を拝んできたが、歳月と逃亡のストレスが確実に木村を老いさせている。

 翻って見れば、自分も確実に歳を食っている。心身、そして立場上、事件発生当初ほど自由が効かなくなった。今回、新潟を訪れることが出来たのも、自分が仕切っていた帳場が事件解決を期して畳むことができたからだ。

 

「しかし、あの大人しい北村君が、三人も殺した凶悪犯だったとはねぇ、未だに信じられませんよ」そう誰に言うとなく現場監督。犯罪者を知らず知らずのうちに抱え込んでいた人間の定番のセリフ。


「ま、木村いう男は、もともとは気の小さい大人しい男ですしね、おまけに逃亡中やから余計に大人しいしてたんでしょ、こちらでもなんの迷惑もお掛けしてなかった思いますわ」


 そう答える畑に、監督は相槌を打ちつつ。


「遅刻も無断欠勤も一切なし、作業中の態度も真面目でしたしね、ほかの人間との付き合いもそこそこ、逆に言えば、なんの特徴もない人って事ですけどね」

「見事な逃亡者ぶりですね、畑警視。私はこいつが小心者なんて信じられませんね、産まれながらの悪党としか思えませんよ。三人も殺しておいて、平然と暮らせるんですから」


 折りたたみテーブルの上に置かれた木村の写真を睨みつけながら坂崎、逃げられた直後の怒りがまた湧いてきたのか?

 畑は何も答えず立ち上がり、監督に「ご通報有難うございました」と頭を下げてから「ほな、木村のヤサ、案内していただけますか」と促す。

「解りました」と、坂崎、彼も深々と監督に向かって頭を垂れ、現場事務所を辞した。




 木村が暮らしていたマンションは、長岡駅の南側、国道三五二号線から少し路地に入った場所に有った。

 築二十年、三階建ての二階部分。間取りは六畳一間と四畳半の台所。管理人によると月々三万五千円程度の家賃との事、勿論、延滞などは一切無い。

 一応、白手袋をはめ室内に入る。調度品といえばプラスチック製の衣装ケース一個、ちゃぶ台一卓、テレビが一台、台所には食器類といえば茶碗に皿、湯呑程度で、調理器具はやかん手鍋程度。正に寝に変えるだけの部屋と言うか、いつでも引き払える程度の家財しかない。

 名古屋でも釧路でも、木村はこんな暮らしをして来た。もはや体に染み付いた生活習慣だ。


「押収品の中に、遺骨はなかったでっか?」窓際に、小さなテーブルに白い布を掛けて作られた祭壇と思しき物を眺めながら畑は、坂崎に尋ねる。

 使いさしの線香とロウソク、冷酒の瓶で代用した花咲、小さな二枚の皿には、それぞれ干からびた飯。

「木村の妻の奴ですね。ありませんでした、恐らく、そこに安置されて居たんでしょうが・・・・・・」彼が指差す先には、布の上に四角くついた痕跡。しかし、なぜか祭壇の真ん中にはなく、あえて中心をずらして置かれていたようだ。


「ご飯ですが、なぜ二膳なんでしょうか?一つは事件直前に亡くなった妻への物でしょうが、もう一つは?」


 そう訝しげに尋ねる坂崎、畑はその祭壇を眺めながら答えた。


「自分の母親のためちゃいますかねぇ、事件直後、あの震災で亡くなっとるんですよ」


 震災の翌日、畑は兵庫県警に木村常子の安否に関する照会状を出し、その後二ヶ月半ほどして、全壊し全焼したアパートの焼け跡から発見された女性の焼死体が、歯の治療後などから木村常子と断定されたとの回答を得た。遺骨は、引き取り手が無いので市営墓地の納骨堂に収められたと言う。

震災直後、しきりにニュースで流された、まるで空襲に遭った様に全てが焼け落ちた長田の街を目にしたとたん、常子の生存に対する希望が怪しく成っては居たが、その耳で訃報を聞き、FAXで送られてきた死亡診断書と死亡届を目の当たりにして、彼女の死を認識できた。

 息子の逮捕を刑事に泣いて懇願し、貴重なはずの私信の束を託したあの哀れな初老の母親は、結局息子の罪の清算を見ることなく死んでいった事になる。

 非業の死を遂げた母に、線香の一本も上げられぬ究極の親不孝者に木村はなったのだ。人を三人も殺した男にはまだまだ軽すぎるツケだが、まともな神経を持った者には耐え難い仕打ちだろう。ましてや、毎年郷里の母親に年賀状を送り、成功した時には手元に呼び寄せるほどの普通の孝行息子にとっては・・・・・・。

 そして、その報告を受け取った畑自身は、大阪市内で起きたオウム真理教によるVXガスを使用した会社員殺害事件の捜査に合流することになり、実際に常子の遺骨と対面し、馬鹿な息子に代わって線香を上げることができたのは、年が改まった一月十七日の事だった。


後年、畑は間接的にではあるが、木村にこの事を告げる機会を得る。

 民放局が制作した指名手配犯の公開捜査番組でこの事件が取り上げられ、当時捜査の指揮を採ってきた彼が出演し逃亡中の木村に呼びかける事が番組サイドより依頼された。

 顔にドーランを叩かれ、強烈な照明に曝され、慣れぬカメラに狙われつつ、それでも司会から「では警部、お願いします」と言われた途端。頭の中にはあの哀れな母親の姿しかなく、先程までの緊張は吹っ飛び、一切の言いよどみも無く、これを見ているかもしれない木村に向かって呼びかける事が出来た。


「おい、木村よ、木村貞男よ、お前の最後の味方やったおかんはなぁ、あの一月十七日の震災で亡くなりはったんや、お前がちゃんと法の裁きを受けることを望んでな、逃げ回ってもお前のしでかした事からは逃げられへんのやから、おかんの願い通り、罪と向き合え、それからおかんの菩提にちゃんと手ぇ合わせ」


 恐らく、木村はこの放送を見ていたのだろう。

 もう一つの皿の飯や、妻の遺骨があったと思しき場所の横に設けられた空間は、母親の為のものかもしれない。遺骨も位牌も遺影すら手元にない母の霊を弔うための。



 木村の潜伏先のマンションを出ると、畑は坂崎に訪ねた「この辺に串カツ屋って有りますか?」

 キョトンとは正にこの顔といった表情で彼は「串カツ屋?ああ、駅前に一件ありますが・・・・・・」と答えた後、笑いながら「ご夕食でしたら、一席設けさせてもらいますよ」

 対して畑は手を振って。


「いやいや、晩飯には早すぎますわ、ちょっと捜査の一環でその串カツ屋に聞きたいことが有りましてね」


 不思議そうに彼を見ながらも、坂崎は部下に長岡駅前の商店街に行くように指示を出す。

 ロータリーを通過し、地方都市にありがちなアーケード通りを暫く行くと、クラウンは一軒の店の前で止まった。

 屋号は『天狗』たしかに、ショーケースの中には串カツの食品サンプルと立派な天狗のお面。一枚檜の立派な看板には屋号の他に『本場大阪の味』とある。

 ランチタイムの営業が終わり、これから夜の営業のための仕込みの時間なのか玄関には『準備中』の札。無視して引き戸をに手をかけると開いた。

 とたんに「すんません、昼の営業は終わりまして」との関西弁の返事。畑も大阪弁丸出しで「いや、私大阪府警のもんでして、事件の捜査で寄せてもらいました」と、三年前に手帳型からバッジスタイルに変更になった警察手帳を示す。

 奥から出てきた店主は、如何にも板前然とした三十代の細面の男で、調理帽を取り一礼すると「あの、サラ金放火事件でしょ」と行き成り切り出してきた。当然ながら報道は見ていた様だ。畑も「そうです。お察しの通り」と返す。

 

「あの木村いう犯人、うちの常連やったんですよ。給料日なんかなぁ、毎月末に来て九百八十円のほろ酔いセット食べて帰るんですわ、大人しそうな男で、まさか三人も殺した凶悪犯には見えませんでしたねぇ」


 坂崎は驚いた風でその席に視線を飛ばすが、畑は続けて店主に尋ねる「月末以外に来るときは?」対して店主は少し考えたあと「あ、そうそう」とうなずき、洒落た意匠の一枚板で出来た四人がけ席を調理帽で指すと言った。


「先月の十日に来ましたわ、あの席に一人だけで座って、盛り合わせと瓶ビールと、なんでかグラスは二つ、二つともにビールは注ぐんでっけど、一つは飲まんとそのまんま、なんか陰膳でみたいで・・・・・・」


 店主に礼を述べ、店を離れ再びクラウンの後部座席へ、隣に座った坂崎が尋ねる「畑警視、さっきの話は一体?」


「一月十日は、木村の嫁さん雅弓の命日なんですわ、結婚当初、始めた鳶の組が軌道に乗る前は、ふたりしてよう通天閣の下の串カツ屋で盛り合わせ一つと大瓶一本でデートしてたらしいです。ま、その頃が木村にとっては一番しやわせな時期やったんでしょうなぁ、逃亡後も、行く先々で串カツ屋を見つけては毎年一月十日に四人掛けの席を占領して、盛り合わせと大瓶一本、グラス二つを注文して、二つともにビールは入れるのに一個は口もつけんと帰る。供養のつもりなんでしょうな」


 畑の答えに坂崎はやりきれんとばかりに首を振り「人を三人も殺しておいて、自分は女房の供養に陰膳ですか!ふざけた奴ですな!!」

 そうだ、正にふざけた行為だ。と畑も腹の中で同意する。

 木村よ、妻も母親も、まともな供養の一つもできないそんなふざけた異常な状態を、お前はあと何年続けるつもりだ?

 殺人の公訴時効は今年ついに十五年から二十五年に延長された。あとまた十五年も逃げ続けるつもりか?妻の遺骨を抱きながら、母の墓前に線香も上げられないまま、自分のしでかした事を清算できないまま。


 畑は車窓の流れゆく景色を眺めながら、心の中で木村に呼びかける。

 今朝、西の彼方に見えていた雨雲は、ついに頭上に低く垂れこめ始めた。

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