1995.1.14 神戸
浪速署の会議室に置かれた『消費者金融放火殺人事件特別捜査本部』は、死者三名、七回建ての雑居ビルの三フロアー全焼、言う重大事件の割にはこじんまりとしたものだった。
まず、本部からやってきたのは管理官と畑ら捜査四係、機動捜査隊、現場鑑識、所轄からは刑事課の強行犯捜査係と生活安全課と地域課からの応援。これだけかき集めても総勢五十名程。
本来ならこの三倍、四倍は居てもおかしくない内容の事件にも関わらず、この小所帯は何だ?と、畑は自分の捜査の成果を報告しつつ、まだスペースに余裕のある会議室を見渡し内心で疑問を募らせる。
そもそも、なぜ重大事件にも関わらず、最初の号令を捜査一課長自らがかけず、管理官に託した手紙一枚で済ませるのか?他に力点を入れるべきヤマがある訳でもないのに?
まさかたかがサラ金への放火だし、マルヒの面も身元も割れてるから、早々に解決するだろうとタカをくくって居るのだろうか・・・・・・。
そんな疑念を抱きつつ、畑は自分の報告を終え、席に着く。
地取り、鑑取り、マルガイの解剖所見、鑑識からの報告が一通り終わり、マルヒの一人である『クレバーローン』の従業員、小森由美の死亡間際の証言と、目撃者の証言、ほか、地取りや鑑取りの成果と合わせ、『クレバーローン』から多額の借り入れをしていた木村貞男を本件の被疑者と断定、逮捕状を請求しつつ捜査員は一刻も早い同人の身柄確保を目指すこととして、本日の捜査会議は終了し、捜査員一同は一斉に各自の持ち場へ飛んでいった。
しかし、畑だけは不満面ひとつ下げて捜査幹部の居並ぶひな壇へ向かう。
その様子を察した彼の直属の上司である四係長の輪島警部は、近づいてくる畑に向い「君の言いたいことはわかる」と先んじて声を掛けた。
天満署の強行犯係から彼をスカウトし、以降手元で捜査一課のデカとして育て上げた言わば師匠、弟子の頭の中身くらい簡単に察しが着く。それに彼も同様の不満を抱えていた。
「俺も正直、在庁の五係あたりが応援に来るか思うてたんやけど、来てみたらこの有様や、新聞でもテレビでも派手に取り上げてるヤマやのに、上はどうみとるんか?」
と、自分の腹の中を、隣に座る管理官の方をわざと見ずに言う。その更に向うに座る署長は、意地悪げな笑で口角を釣り上げ囁く。
「まさか、オウムとか言う妖しい宗教がらみの案件で人員を確保したいからちゃうでしょうね」
一瞬、目を見開き署長を凝視しした管理官だが、鼻で笑って取り繕い。
「まぁ、今回は四課係の主任の活躍で、事件発生後直ぐにホシの身元も割れているし、経歴を見たら立ち寄り先も少ない男だろうから、早いうちガラ(身柄)を確保できるだろう、大所帯の帳場は不要だと思うね」
ほんのわずか、輪島はその彼を横目で睨む。そして、小さなため息をこれみよがしにこぼしたあと畑に言った。
「ま、そう言う事らしいから、なんとか頑張ってや。で、君は今から木村の母親の所か、神戸の長田やったな」
「はい、アパートで一人暮らしのようです。潜伏してる恐れは先ず無い思いますけど、立ち寄った可能性が有るんで行ってみます」
「ほな、よろしゅう頼むで」との輪島の言葉を聞きつつ、会釈を残し、相棒の陣内を伴い会議室を後にした。
木村貞男の母、木村常子のアパートは高速長田の駅から歩いて十分ほどの場所に有った。
周囲は同じような木造アパートか靴を生産する零細の町工場がひしめく下町。
狭い通りに製品を運ぶ軽トラと住民の操る自転車が行き交い、工業用ミシンのモーターの唸りが時折聞こえ、ゴム糊の香りが不意に鼻先を掠めたりする。
築三十年は余裕で経過してそうな錆だらけのトタンで外壁を覆われた安アパートの、これまた錆だらけの鉄階段を登り、目的の部屋まで来てベニヤ張りのドアを叩く。
現れたのは木村そっくりの細い目を持つ初老の女。今年で五十六歳だと資料にあるが、それより五六歳は老けて見える。
彼女が自分たちの身元を聞いてくる前に畑は警察手帳を示し「大阪府警やけど、お宅の息子の件で」
その言葉を聞いたと当時に、彼女の目には動揺の色が現れ、瞳は小刻みに揺れ動き、やがては伏せられ刑事二人の足元を見つめ始めた。
「ともかく、中へどうぞ」そう言いながら二人を室内に招き入れる。
2Kほどの間取り、周囲は建て込んでおり薄暗く、真昼でも照明が無いと薄暗い。調度はタンス二棹、ちゃぶ台、水屋、鏡台、ビニール製の衣装ケース等など、それなりには整理整頓されているが、何もかもが古びてくたびれ切ってる印象が強い。
ちゃぶ台に置かれたふぞろいの湯呑二つを前に、畑は目の前に小さく座る常子に切り出した「息子の件は、知っとるな」
「さっき、パートに行ってる工場のラジオで、聞きました」聞こえるか聞こえないかの小さな声で答える。
「ほな、話は早い、貞男、ここに来たんか?」帰ってきたのは弱々しく左右に振られる頭の動き。
「立ち回りそうな先に心当たりは無いんか?」今度は消え入りそうな声で「いいえ、知りません」
聞こえよがしの大きなため息をついて見せて、畑は身を乗り出し、うつむいたままの彼女に向かって声のボリュームを上げて言った。
「おたく、母親やろが、いくら四十前の息子やいうても、立ち回りそうな先くらい思いつかんか?」
帰ってきたのは「思いつきません」のか細い声。畑は更に声を荒げた。
「おたくの息子に刺されたサラ金の社長、嫁さんと子供が二人居るんや、俺の同僚がお通夜の様子見に行ったけど、そりゃもう見れたもんや無かった言うてたで、奥さんは放心状態、上の娘さんは泣き喚いて、下の息子さんは最初から最後まで「パパ、どこいったん?」いうて上の空の母親に聞いとったらしいわ」
そう言いつつ畑は敷かれた座布団を離れ、常子の前に移動する。そして彼女の耳元で更に言葉を続ける。
「あと、あんたの息子に焼き殺された二人の女の子、一人はあんたと同じ母子家庭の子や、母一人子一人で二十五まで育ったんや、成人式の時の写真、見せてもろうたけど、べっぴんさんやったわ、それをおたくの息子は化物見たいにして殺したんや」
正座の姿勢のまま畑から逃れようとする常子、それでも畑は止めることはない。
「残りの一人はあんたのむすこが犯人や言うて教えてくれた子や、気道熱傷いうて、喉の奥まで火傷してたのに、俺に犯人が誰か教えてくれたんや、ほんでなぁ、最後にどない言うた思う?「くやしい」言うたんやで、涙流して、呼吸さえままならんのに「くやしい」ぃて、これがあんたの息子のしたことや、さぁ、あんた、人殺し産んだ母親の責任として、貞男の立ち回りそうな先、全部言え!」
突然、常子は畑に向き直り、涙で濡れそぼった顔を見せたかと思うと畳に頭を打ち付けんばかりの勢いで土下座し、叫ぶように「すんません!すんません!!」を連呼し始めた。
その余りにもの勢いに、畑の後ろにいた陣内は思わず顔を背けたが、畑は冷ややかに見下ろすだけ。
やがて、嗚咽に混じり、常子が絞るような声で言い出した。
「あの子、気ぃが弱い子なんです。気ぃが弱いから子供の頃もワルの仲間に入って、仲間はずれにされた無いから人怪我させて少年院に入って、出てからもここに居るのが怖いからあちこち転々としてたんです。そやから今度も絶対にここには戻ってきません、自分のしでかした事から逃げたい一心で、昔みたいに日本中転々としよる思います」
そして、彼女は顔を上げた、髪を振り乱し、赤く泣きはらした目で畑を見つめ叫ぶように言った。
「刑事さん、お願いします!貞男を、絶対に、絶対に捕まえてください!!その為やったら何でもします、テレビに出ろ言うたら出ます、そんで捕まって死刑に成るんやったら私もその後死んで三人の方にお詫びします。そやから刑事さん、貞男を絶対に捕まえてください!」
しばらく常子は畳に頭をこすりつけ泣き叫んでいたが、暫くして落ち着くと立ちがりタンスの一番上の引き出しを開け、大きな菓子の缶を出してきた。
蓋を開け、中身を畑と陣内に見せる。そこには古びた年賀状の束が幾つも詰め込まれている。
「十六で少年院から出てから、結婚したいうて三十で大阪に落ち着くまで、あちこち転々としてる最中貞男が送り続けてくれた年賀状です。あんまり頭のええ子や無いから、前に自分の居った所に行くんやないかと思うて・・・・・・良かったら、使うて下さい」
中身を取り出し、一枚一枚差出人をチェックする。
金釘流の下手くそな文字で書かれた、木村貞男の名前の横には、まったく一年ごとにその名を変える住所が記載されている。
北海道、青森、宮城、新潟、福島、東京、神奈川、静岡、愛知、石川、島根、香川、福岡、鹿児島・・・・・・。
もし、これら全てが木村の逃亡先の候補になると考えると、彼を追う事はおよそ雲を掴むような作業になるだろう。
ひょっとして、この女は捜査をかく乱する意図でこれを自分に押し付けたのか?そんな疑念も一瞬浮かんだが、身も世もなく泣き崩れる姿から考えるとその可能性は薄い。
ひとまず畑はそう判断して、菓子箱の蓋を閉め、後ろで身じろぎ一つせず一部始終を見ていた陣内にそれを押し付けた。
「これは一応預かっとく、また聞きたいことが有ったら来るし、なんか思い出したり、息子から連絡が有ったりしたら、ここに電話してくれや、ええな?」
そして、ちゃぶ台に捜査本部の特設電話の番号を記入した名刺一枚を置くと、陣内を引き連れ部屋を立ち去る。
常子は玄関先までついて行き、ドアが締まるまで深々と二人の刑事に向かって頭をたれていた。
階段を下り切り、いくつかの路地を曲がってアパートが見えなくなる頃、陣内は口を開いた「あれ、やり過ぎやったんちゃいますか?」
立ち止まり、振り向いて陣内を睨む畑。しかしまた向き直り歩き始めながら陣内に命じた。
「あのおばはんの証言、ウラ取るぞ、この辺の住人に聞き込みや、木村をこの辺で見かけてないか片っ端から聞いて回るんや」
畑は背後から「了解」との陣内の沈んだ声を聞くと、懐から警察手帳を出し、一番身近に有った家の呼び鈴を鳴らした。