1995.1.13 大阪
その時、現場に向かうタクシーの中で聞こえて曲は、たしか藤井フミヤの『TRUE LOVE』だった。
「遥か遥か遠い未来を・・・・・・」というリフの部分が、何故か今でも畑の記憶に残っている。
非番の日の昼下がり。梅田の紀伊國屋書店で本を物色中に突然懐のポケベルが忙しなくなり響き、近くの公衆電話に飛びついて捜査一課を呼び出し、耳に飛び込んだ言葉が「浪速区、難波中一丁目、サラ金『クレバーローン』で火災」
サラ金で昼火事と言えば、奉職してからこっち刑事畑ばかりを歩んできた男の脳は、自動的に『強盗→放火』か『怨恨→放火』という公式をはじき出す。
ともかく俺の仕事だと直ぐ様認識し、タクシーを捕まえ現場の住所を運転手に告げる。
臨場した頃にはすでに火災は鎮圧され、残り火や逃げ残りを探す消防署員や雑踏整理の制服警官で現場はごった返し、阻止線の外では、野次馬に混じって脚立持参のマスコミ達の垣根が出来上がりつつある。
警察手帳を持っていなかったので、顔見知りの機捜隊員(機動捜査隊)に阻止線の中に入れてもらい、ついでに情報収集。
「死亡の確認済み、男一人、重度の火傷女二人、ジャンパーの右腕、黒焦げにさせてビルから逃げ出す男を目撃した者アリ、放火の線、濃厚」
上着の袖を黒焦げにした男、そいつがマルヒだと言うのは、自然な帰結。
恐らく所轄の強行犯係や機捜隊が人着(人相着衣)を目撃者から聞き出し、地取り捜査を開始しているはずだ。
現場は目下消火作業が継続して行われ、入ることは出来ない。そもそも終わっていたとしても消防と警察の鑑識が終わるまで刑事といえども立ち入り禁止。
と、なれば出来ることは生存者からの聞き取りしかない。
畑は消防隊員から消防司令補の階級章を付けた者を見つけ出し、生存者二人が担ぎ込まれた病院を聞き出す。
幸い二人とも同じ病院。阿倍野区の大阪市立大学医学部附属病院。
素早く公衆電話を見つけ出し、本部の捜査一課を呼び出す。出てきたのは去年、強行犯捜査四係に配属されたばかりの陣内という巡査部長。
今、主任である自分の下で修行中の身である若い衆が受話器を撮ったのをこれ幸いとばかりに、畑は何故か声を潜めて命じる。
「悪いけど今すぐ俺の黒パー(警察手帳)もって市大病院に行ってくれ、難波中の火災のマル被がそこに居るんや、今から俺もタク飛ばして市大病院に向かう。ロビーで待っててくれ」
それから直ぐ様タクシーを捕まえ市立大附属病院へ、陣内より先に付いたので、二年前に完成したばかりの病院の、真新しいロビーで待っていると、捜査一課配属祝いに若くて綺麗な女房から買ってもらった、自慢のダウンジャケットの裾を翻し、陣内が飛び込んでくる。
畑より頭一つ上の高身長。すこし日本人離れした目鼻立ちの美丈夫。少し前の言葉で言うところのソース顔。背が低く、目も小さく鼻も低い完全無欠なしょうゆ顔である畑に取って少し嫌味な存在ではある。
彼から自分の警察手帳を受け取ると、早速受付にそれを示し、担ぎ込まれた二人が居る救命救急センターの場所を聞き出しそちらへ向かう。
四階にあるそこは、大勢の看護婦や医師が忙しなく歩き回り雑然としていたが、適当な職員を捕まえ二人の居場所を聞き出す。
五六人の白衣姿が群がる一隅を発見、様々な専門用語を交え、怒鳴り合うように遣り取りを交わすスタッフに向かって、畑は大声で呼びかけた。
「大阪府警捜査一課の畑いうモンや、被害者から話が聞きたいんやけど」
返事はない、先ほど同様、騒々しい会話と、様々な医療機器から発せられる電子音だけが聞こえる。
「オイ!コラ!!誰か返事せんかい!」
たまらず怒声を上げると、リーダー格らしき医師が振り返り、足早に二人の刑事の元にやって来る。
陣内といい勝負の大男、その上、ラガーマンの様なごつい体格。まくりあげた手術着の腕にはびっしりと剛毛。その彼がマスク越しの低い声で言った。
「二人ともⅢ度の大火傷、一人は意識不明、もう一人は意識はあるけど気道熱傷や、喋れるわけないやろ!」
「意識が有ったら、筆談くらいできるやろ、どっちがか二人ともか、マルヒの面見とんのや、客やったら身元も知ってるかもしれん、一刻を争うんや!」
「一刻を争うんはこっちじゃ!容態が落ち着いたら呼んだる。ロビーで待っとけ!!」
喧嘩腰の二人のやりとりを、半ばヒヤヒヤしながら聞いていた陣内は、医師や看護婦の人垣の中からガーゼに覆われた手が振られるのが見えた。同時に、畑と言い争っていた医師を、看護婦が呼ぶ「先生!患者さんが何か言ってます」
少し畑を睨みつけた後、呼ばれた医師は一人の患者も元へ、しばらくするとその場から畑を呼んだ。
「刑事さん、患者さんがお宅を呼んどる。言いたいことが有るそうや」
処置台に近づくと、スタッフの垣根が開かれ、仰向けに寝かされた被害者の姿が現れる。
白い包帯やガーゼに覆われているが、所々赤や黄色の体液が染み出し痛々しく汚れている。目だけを出して顔面を隠すガーゼの類も同様で、あいだから除く髪の毛は、焼けて縮れ元の色が解らない。そもそも、男か女かすらも解らない有様。正にミイラの様な姿の被害者に、さすがの畑も一瞬息を飲む。
しかし、意を決し彼女に近づき、警察手帳を示しながら話しかける。
「俺は刑事や、君の店に火ぃ付けた奴を探してる。誰か知ってる奴やったら教えてくれるか?」
直ぐに、小さく掠れた声で返事が有った。
「客、の、キムラ、サダオ、お店に、来て、社長室、入って、言い争い、有って、その後、出てきて、お店に、火」
ここで声が途切れ、代わりに喉から異様な音が聞こえ始める。
医師が再び現れ「もう、ええやろ!」と畑をその場から引き剥がそうとした、その時、彼女がまた言った。
「刑事、さん、捕まえて、絶対、捕まえて、私、く、くやしい」
包帯に隙間から見えた目から、透明な液体が溢れて来たのが見えた。医師の肩ごしに畑は答える。
「解った!俺が絶対に捕まえる。そやから君は安心して体治しや」
そのまま看護師に半ば引きずり出されるように救命救急センターを出されると、畑はそのままロビーに向い公衆電話に飛びつく。
電話の先は知り合いの街金。普段から足繁く通い情報源として育ててきた、言わいる『檀家』だ。
「すまんけど、キムラサダオいう男の信用情報、教えてくるか?名前しか解らんのやが、たぶん大阪府下在住。難波中の『クレバーローン』の客や」
電話の向こうでは、恐らく食事中だったのだろう、口の中に何か入っている様なくぐもった口調で「えらい適当やな」と愚痴りつつも直ぐ様「へいへい了解、了解」
一旦電話が切られ、しばらくロビーの椅子で所在なく時間を潰しているとポケベルが震えだす。ディスプレイには例の街金の電話番号。
再び公衆電話の前に立ち、電話をかける。
「通称、木村貞男、ウッドの木にビレッジの村、カタカナのトの下に貝の貞、田力の男。本名、金貞男、金はゴールドの金、名前は通称と同じ、昭和三十ニ年六月二十日産まれ、本籍は神戸市長田区、現住所は大阪市中央区島之内二丁目の昭和ハイツ三0二、以前は大阪市生野区桃谷二丁目で浪速木村組いう鳶の会社構えてたけど、去年負債一千万で潰してすわ、現在の負債総額『クレバーローン』の一千万を筆頭に総額二千五百万。多分、畑さんのいうてはるキムラサダオはこの木村貞男や思いまっせ」
と、電話の向こうは事務的に答え、その後で「これ、信用情報機構の規約違反ですわ」とまた陰気に愚痴る。対し畑は。
「お前が鯖戸会に義理欠いて平野運河に浮きかけた時、助たったんは俺やないか、この程度の話、恩返しにもならんやろ」
無言で電話が切れると、畑は内容を記入したメモ用紙をコートのポケットに詰め込み、陣内を呼ぶ「おい、今から日本橋行くぞ、マルヒのヤサが解った」
病院の車だまりでタクシーを捕まえ、堺筋を一路北へ、日本橋一丁目の交差点を右折させ国立文楽劇場の前まで行かせる。
タクシーから降りると、早足で先ほど街金から聞き出した住所へ向かう。
たどり着いたのは築二十年以上は経過してそうな鉄筋コンクリートのアパート。エントランスのドアのガラスは割れ、ヒビの部分にはガムテープ。床のPタイルは劣化して割れ剥がれ、集合ポストの蓋にはどれ一つまともな物は無い。
階段を駆け上がり三階のフロアーへ、廊下にはごくごく当然の様に冷蔵庫が置かれ、強烈なキムチの匂いが立ち込める。
表札も何もない三0二号室の呼び鈴を押すが返答は無い。ドアを叩き「木村さん!木村貞男さん!!」と、何度も大声で呼ぶが返事は無い。
代わりに隣室から眠たげな目の細い女が顔を出し、ニンニクが臭う口を開いて「うるしゃいよぉ、しずかにちぇよぉ!」と文句を言ってまた引っ込む。
「管理会社に電話して合鍵持ってこさせますわ」と、陣内が階段を駆け下りた後、廊下側の窓が少し開いていたので、そこから室内を覗き込んでみる。
開け放たれた台所と居間を仕切る襖の向こうに、白い布で覆われた低いちゃぶ台が見え、花が飾られ燭台や線香立ても僅かに見えた。誰かを弔う祭壇だろうか?
しばらくすると「あと二十分ほどで管理会社の人間が来ますわ」と、陣内が缶コーヒー二本を片手に戻ってきた。
男二人、寒々しく薄暗くにんにく臭い安アパートの廊下で、温い缶コーヒーを啜りながら待っていると、六十代半ばの作業着姿の男が鍵束を手に階段を上ってきた。
警察手帳を示し、ドアを開けさせる。白手袋をはめ、室内に上がり込み、雑然とした台所を通過し、まっ先に居間を目指す。
実に質素な室内。タンスが二つ、小さな鏡台と、ちゃぶ台が一つ、そして位牌も遺影も無い祭壇が一つ。
遺骨とまとめて木村が持ち去ったと直感し、彼の逃亡と彼こそが本ボシであると言う事を畑は確信した。
「おい、木村の写真さがせ、どっかに有るやろ」と畑「礼状は?」と陣内、鼻で笑って畑は答える「突きつける相手が居らんがな」
半時間ほどの家探しの結果、鏡台の引き出しからサービス版の写真が一枚出てきた。
背景は、どこかの旅館の客室だろうか、浴衣を着た、色白の、のっぺりとした顔を持つ、引っ詰め髪の女性と映る、同じく浴衣姿の細く小さな目と、張り出した頬骨を持つ五分刈りの男。二人とも愉快げに笑っていた。
「俺はさっきの店員の子にこの写真見せに行ってくる。自分、ここで待機しといてくれ」そう言うなり畑は写真を懐に納め部屋を駆け出す。
近くのタバコ屋の公衆電話から、まだ府警本部に居た四係メンバーに島之内のアパートまで急行するように指示を出したあと、千日前筋まで出てタクシーを捕まえ市立大病院へ走らせる。
病院に到着し、エレベーターを待つのももどかしく、エスカレーターを駆け上がって四階へ。
救命救急センターの前に到着すると、あの、畑とやりあった大柄の医師が、暗い表情で部屋から出てくる所に出くわした。
畑の存在を認めると彼は、頭を何度か振ったあと、沈んだ声で「あの子、アカンかったわ」そして、このフロアーの喫煙エリアに向かって肩を落とし歩いてゆく。
胃の底に重いものを抱えたような感覚を抱きつつ、救命救急センターに入ってゆくと、看護婦たちが被害者の体に取り付けられていた心電図などのコード、輸液チューブや人工呼吸器のホースを取り外している所だった。
傍らには号泣する中年女性と、呆然と立ち尽くす中年男性。おそらく両親か?
手近に有ったスチールドアに拳を一発叩き込み、腹のそこから湧き上がる感情をその拳の痛みで誤魔化した後、畑は警察手帳を懐から出し、その男女の元に近づいて行った。