2012.1.10 大阪
退庁時間をこれほど待ち遠しいと思ったことは、警察官を奉職してこの方思ったことは無かった。
もし、万が一捜査一課長が出張らねばならないような重大事件が発生すれば、もはやその時点で退庁はかなわず、帳場(捜査本部)設置まで府警本部に居なければならない。
今日に限ってその様な成らなかった事を神仏に感謝しながら、畑 健二警視はコートハンガーにかけてあったバーバーリーのダスターコートを羽織りつつ、内線電話を一本かけた。
相手は目下専用車の運転主役を任せている内田信康巡査長。昨年、曽根崎署の刑事課強行犯捜査係からやって来た刑事だ。
「すまんが、課長室まで来てくれるか、今から行きたい所があるんやが」
そういう畑の命令に「了解しました。今からうかがいます」との簡潔な返事。
暫くして課長室に姿を現したのは、五分刈り、一重瞼、角ばった輪郭の顔を持つ、体格の良い青年。
たしか今年で二十八歳になったと聞く。そろそろ巡査部長への昇進を真剣に考えても言いはずだが、捜査一課に配属された事で毎日が緊張の日々なのだろう。昇進試験を受ける云々の話は耳に届かない。「三十路越えて、巡査長はなかなかしんどいぞ」と、いつかは言ってやろうと思う。
「ご帰宅されるのでは無いのですか?」そう問う彼に畑は笑いながら。
「チョット新世界のジャンジャン横丁まで付き合うてくれるか?串カツと生中奢ったるから、もちろん運転はせんでエエ、タクシーで行こ」
不思議そうな顔をしながら「了解しました。では、お言葉に甘えて」と彼が答えると「ほな、行こか」と退室する。
府警本部前でタクシーを拾い、畑は運転手に「ジャン横まで頼むわ」と告げる。
「解りました」とメーターのスイッチを入れながら運転手は答え、上町筋をタクシーは南下を始める。
マンションやオフィスビルが立ち並ぶ両脇は、本格的な商業街である谷町筋とは違い、この時間ともなると少々彩を無くし暗く沈むようになる。
対して次に入った松屋街筋は、営業時間の終わったおもちゃのや人形の問屋街を過ぎれば、アーケードを彩る電飾や行きかう人々で賑やかに見える。
今や電気街から、東京の秋葉原に互するサブカルの街になった日本橋界隈は、畑が刑事として駆けずり回った時代から完全に街の時間割が変わったようだ。
浪速警察署の前を通過し、通天閣が車窓から見えるようになると、不意に畑が言った「お、明日は曇りかぁ」
隣の内田が怪訝な表情で上司を見つめ、ハンドルを握る運転手も「へぇ、こないに晴れてるのにでっか?」と小首をかしげる。
しかし、その後始まったラジオの天気予報は畑の予言を補強することに成った。
『明日の大阪は、一日曇で、朝から強く冷え込むでしょう』
「課長、なんで解ったんですか?」と内田、運転手も「大将、よう解りましたなぁ」と半ば本気で驚いて問う。
それに対し畑はニヤニヤ笑うだけで答えない。
タクシーが通天閣の真下で止まると、王将の碑を過ぎて、有名な串カツ屋の前に並ぶ観光客ばかりの行列を横目で眺めつつ更に南に下り、龍やら虎やら訳の解らない刺繍を施したジャージを並べる洋服屋を通過して、狭苦しいアーケード通りに入る。ここがジャンジャン横丁。
何件もの寿司屋やホルモン焼き屋、立ち飲み屋を過ぎ去り、畑は迷うことなく一件の串カツ屋へ。黙って内田もそれに続く。
狭いというより薄いと行ったほうがぴったりくる店内。テーブルは壁際にある三つほどの四人掛け席だけで、あとは厨房を囲むカウンター。
曜日が問題なのか、時間のせいか、客は疎らで空席が目立つ。その中でなぜか畑はカウンターを選びそこに陣取った。ここからは丁度店の中全体か見渡せる。
腰を落ち着ければ今更の様に気づく、カツをあげる油の匂いと、土手焼きの味噌の香り、そしてソースの匂い。これらが混ざり合い空腹者を切なく攻め上げる。
「いらっしゃい!」声をかけてきたのは調理帽をかぶった五十絡みの口ひげの男、だいぶ畑とは馴染みらしく「いつものでよろしいでんな?」と聞いてくる。
問われた畑も「おう、かまんで」と答え、傍らの内田には「君、何する?好きなん言えよ」
彼は「有難うございます」の一言の後、店内のお品書きを一通り眺め、ついで目の前のパウチされたメニュー表をにらみつつ。
「牛、豚、イカ、えび、ソーセージ、じゃがいも、うずら、それから生一つ下さい」
「ホンマ遠慮せんなぁ」と愉快げに笑いながら畑「若い子らしいチョイスでんな」と店員、内田は恥ずかしげに頭を掻く。
やってきた生でまず二人は意味のない乾杯。ついで目の前に現れた牛の串カツを、内田はソースを並々と湛えるステンレスの器に漬け込み先ず一口。
「ホォ、流石本場、美味いですね」といった意味の言葉を熱々の衣を口の中で持て余しながら述べたあと、半分かじり残した牛カツを眉を潜めて見つめる。
「どないした?」と、ジョッキを煽りながら畑。困った顔で彼を見つめ内田は「二度漬け、禁止ですよね」
見れば、彼の手にしてる牛カツには殆どソースが掛かってない。
「ええか?こないしたらええねん、よう見とれよ」と、自分の注文したゲソカツを取り皿に置き、サービス品の生のキャベツを皿から取り出すと、そのキャベツをたっぷりソースに着けた。そして。
「こないして、キャベツを刷毛替わりにしてカツにソースを塗るんや」と、ソースに塗れたキャベツでゲソカツを撫で、ソースをかけてゆく。
「へぇ、なるほど」と内田。早速真似をして半分かじった牛カツに、キャベツの刷毛でソースを塗ってゆく。
畑は店員と何故か最近読んだ本の話で盛り上がり、いつの間にか、本といえばここ最近は昇進試験の参考書しか読んだことのない内田の、読書不足ぶりが話のタネになり、散々に彼を二人してからかい、少しふてくされた内田は腹いせに牛カツを二本も注文し、仕掛けた畑が苦笑いする。
そんな、実にたわいもない遣り取りをしつつ、何故か畑は客が来る度に視線をそちらの方に飛ばし、隣に座るサラリーマン風の男性の肩ごしにその顔を観察する。
「いらっしゃい!」と、また店員の声が聞こえ、畑は視線だけを新しく入ってきた客に飛ばす。
一瞬、周囲の音が消えた。そして直ぐ様風景は目の前の男の周囲だけに凝縮された。彼のすべての感覚は、今、店の玄関をくぐり、空席に成ったテーブル席に向かう男に集中する。
今年、男は五十五に成るはずだが、今はどう見ても六十代後半しか見えない。いや、七十といっても納得できる。
残り少ない頭髪はほとんど白髪で、整える努力は既に放棄された様。細い目はただただ目の前のテーブルだけを見つめ、貼りでた頬には艶はなく、シワとシミがやたらと目立つ。
濃紺の作業用ボア付きナイロンジャケットに、着古したベージュの作業ズボン。足元は合皮の防寒靴。手荷物は何も無し。
テーブル席に付いた男は、メニューに目を通すことなく、やってきた店員に短く注文。出された物は串カツ盛り合わせと瓶ビール。グラスは何故か二つ。
店員が引き上げ、男が二つのグラスにビールを注ぎ込むと、畑は内田に囁いた。
「今から俺は、あの紺色のドカジャン男の前の席に座る。君はあいつの後ろの席についてくれ、逃亡しようとしたら取り押さえろ、抵抗したら制圧せい。ただし、可能な限り静かに、他の客の迷惑に成らんように」
そして、徐に立ち上がり、テーブル席へまっしぐらに向かう。内田も慌ててそれに従う。
男が、急速に接近してくる二人の気配に気づき身じろぎした時には、既に畑は彼の目の前の椅子に滑り込むように座り、内田も男の斜め後ろのカウンター席に陣取り、少々高い位置から男の退路を塞ぐ。
明らかに狼狽している男に、畑は静かに低く、しかし重く響く声で言った。
「木村貞男やな?」
男は、強く激しく一回だけ頭を振るう。
「誤魔化してもしゃぁないぞ、木村」
今度は二度、三度、まばらな白髪頭を振り乱し頭を横に振る。
「ほな、右腕、見せてみぃ」
テーブルの上においていた右腕を、男はテーブルの下に引っ込めようとしたが、一瞬早く畑の手がそれを引っつかむ。
ビールの瓶が激しく踊るように揺れたあと、テーブルの上に倒れこみ、残った中身が床に流れ出す。
店内の視線が一斉にこの一角に注がれる。しかし、畑は構うことなく男の腕を強く掴み続ける。男の額には玉の汗、内田は半腰になり次の動きを待つ。
畑は、強引にとった右腕のナイロンジャケットの腕を、下に着ていたシャツごと捲り上げた。
現れた腕は、大きく引き攣れ歪んだ火傷の跡に覆われていた。
「コレは、お前が、『クレバーローン』に火ぃ付けたときこさえた火傷の跡やろ?ちゃうか?」
男は硬直し、小刻みに震え始め、また頭を二度三度強く降る。
「ええかげんに観念せい、木村。お前、火ぃ付けたあと、火傷看てもらうために西成の『坂東皮膚科』いう病院行ったやろ?その時のカルテ、捜査資料としてまだ残してあるんや、照合したら一発や」
腕を引こうとする男の力が緩み、さっきまでテーブルの上ばかりを見ていた男の目が、やっと畑の顔を捉えた。
力のない、光すら失せたような、澱んだ瞳が畑を見る。目尻だけが小刻みに震えている。
その瞳の奥を睨みながら、畑は言った。
「木村貞男、お前を殺人と現住建造物等放火の容疑で緊急逮捕する」