前編・始まりの悲劇
※この物語はフィクションです、実際の人物、団体、事件等は関係ありません。
…一応あまり聞かないものにはしたつもりですが、人物名が被ったりするとアレなので。
「何なんでしょうコレは?」
少女は鏡を眺めながら、自分の額にある奇妙な印に首をかしげた。
少女は、古風な和装でこそあったものの、少し綺麗な普通の女の子だった。
その額に、奇妙な赤い印が刻まれてさえいなければ。
少女自身その印に覚えがなく、首を傾げることしか出来ず、いくら見ていた所で落ちるわけでも消えるわけでもないので、仕方なしに忘れる事にした。
日も沈んで、おなかも空いた。と、少女はとりあえず調理を行う為に台所へと向かう。
その時、少女はベルの音を耳にした。
「はーい!」
こんな森の奥に珍しい…そんな事を思いながらも、少女は玄関へと駆ける。
扉を開くと、雨の音がはっきりと聞こえるようになった。
奇妙な印を気にしている間に、雨が降っていたらしい。
玄関の扉を開いた先にいたのは一人の少年だった。
「アレ?子供?」
「むっ…」
少女は、少年の物言いに表情を一瞬歪めるも、すぐに思い直す。
子供と言われて怒っていてはますます子供だ、家にも私一人なのだし、ちゃんと対応しないと。
少女は強がり、小さく咳払いを一つすると…
「はじめまして、私は賽と言います。家に何の御用でしょうか?」
行儀のいいお辞儀の後、笑顔でそう対応した。
前編・始まりの悲劇
「ぃぁーはいっひゃうよ、はんへんひへはらへらろひは。」
「ああぁぁ…お願いですから喋るなら飲み込んでからにしてください…」
賽は、自身の作った料理をかきこむように食べながら喋る少年、神代勇が口から食事を吹き出しながら喋り、机を汚していく様に涙目で訴える。
女の子を泣かせかけている状態に気づいたのか、勇は一旦喋るのをやめて、口の中の料理を飲み下した。
「いやー、まいっちゃうよ。探検してただけなのにさ、いきなり雨が降り出して。森は暗いし、帰り道わかんなくなっちゃうし、おなかも空いたし。」
「そうですか…」
言うとおり、急に雨に降られたらしい勇の体はかなり濡れていた。
そのままでは気持ち悪いだろうと風呂を薦めようとした賽だったが、空腹を訴える勇の押しに勝てなかった賽は、食事を先に用意した。
ちなみに、二人分のつもりで用意した食事は、風呂を用意している間に殆ど勇に食べつくされてしまった。
同年代とはいえ男子の食欲と言うものを全く把握していなかった失敗だと、賽はむっとしたものの怒らず堪えた。
「(我慢我慢…何にも考えず騒ぐのが一番子供っぽいんですから…)」
姿相応よりは大人ぶろうとしている賽。だが、『自分は子供じゃない』とわめかない辺りは少しだけ子供から外れているようにも見える。
「ったく、母さんもちょっと探検するくらいけちけちしなくてもいいのに。俺だって高学年になったんだから子供じゃないっつの!!」
一方で勇の方は相応の子供丸出しの分かりやすい台詞を言いながら椅子の背もたれに頭を預けて天井を見る。
「…お母様にあまり心配をかけたらダメですよ。」
「なんだよ!説教か!?お前だってこんな所に一人で…」
怒られてすぐに腹が立ったのか、怒鳴りそうになった勇。
けれど、勇は賽の悲しそうな表情を見てそれを思いとどまった。
「…お前…親、いないのか?家族は?」
勇の問いかけに、賽は答えられなかった。
賽自身も、よく状況が分からないのだ。
分かるのは、森の奥にあるこの家が自分の家である事くらい。
そして、少なくともこの家には自分一人しかいない事くらい。
性格なのか適当に答える事はできず、賽が答えに困っていると、勇はそれを自分の想像通りの答えと受け取ったのか、勢いよく椅子から立ち上がる。
「よしっ!俺が兄貴になってやる!!」
「えっ?」
拳を握って微笑む勇が告げた言葉に、困惑を隠せない賽。
だが、当の勇は賽の戸惑いなどお構いなしに向かいに座っていた賽の元まで近づくと、その頭を撫でる。
「な、何ですか?」
「兄貴になってやるって。そりゃ、さすがに家につれて帰るわけには行かないけど…長い休みがあったらここにくる。色々教えてやるよ。虫取りとか、魚釣りとか!」
今だって旅行中でしばらくいるし。と、勇は締めくくった。
一瞬、理解が追いつかなかった賽は、勇を見ながら立ち上がる。
「…背、同じくらいですよ?」
他に不満はなかった賽。だが、勇に兄を名乗られるのには微妙に納得がいかなかったらしく、そう呟く。
痛いところを突かれたように一瞬表情を歪めた勇だったが、すぐに怒り返した。
「いいんだよ!保険の先生が、女子の方が背が伸びだすのが早いって言ってた!だから、俺と同じくらいのお前は年下でいいの!」
少し無理やりな理屈。でも、強がりかなにかは分からないが、少なくとも自分の為にそう言ってくれていることを賽は理解していた。
だから…
「よろしく…お兄様。」
「お…おう!」
賽は笑顔で勇の優しさに答える事にした。
勇の方も、テレながらではあるが、どんと胸を叩いて強気に返した。
翌日の朝、雨が続いて外に出れないと愚痴る勇と、そんな勇を宥める賽が、朝食を取り終えた位で、家のベルが鳴る。
「はーい!」
元気良く答えた賽は、小走りで玄関へ向かう。
こんな森の奥、早々来客などある訳がないが、一つだけ考えていた事はあったからだ。
玄関を開くと、まだ若い女性が不安げな表情で傘を手に立ち尽くしていた。
出てきた賽の、こんな森の奥にいるには頼りなさげな少女の姿。
額の奇妙な印も重なり、女性には現状が不気味に思えて何も言えずにいた。
「あの…勇のお母様でしょうか?」
「っ!勇!?いるの!?」
「あ…」
賽が恐る恐ると言った感じでたずねると、女性は何かにはじかれるように勢い良く動き出した。
賽が止める間もなく家に駆け込んだ女性は、真っ先に食卓へ向かう。
「勇!帰るわよ!!」
「何だよっ…離せ!!!」
少しの間をおいて、玄関にいる賽の元まで口論が聞こえてくる。
他人が口を挟むのも躊躇われたが、自分の家だし、喧嘩も放っておけないと食卓に向かう。
「俺はアイツの兄貴になるって決めたんだ!まだ休みだし帰らないぞ!」
「何馬鹿なこと言って…つぁ!!」
口論の真っ最中、勇を掴んでいた女性が突然その手を離し蹲る。
「か、母さん!?」
喧嘩腰になっていても心配は心配なのか、勇が女性を気遣う。
勇の呼び方を聞く限りでは、どうやら彼女はやっぱり勇の母親らしい。
「あの…」
二人に歩み寄った賽が声をかけると、母親の方がビクリと反応して賽を見る。
何処か怯えたようにも見えるその表情は、賽が手にしていた箱を見た瞬間驚きに変わった。
賽の手にあったのは、十字のマークが描かれた小さな木箱。
「…ただでさえそこまで明るくない上に斜面もある森、雨も降っていて滑りやすくて危険です。足を痛めているなら尚更…とりあえず手当てしませんか?靴を脱いで…」
相当に慌てていたらしく、室内に靴のまま飛び込んだ母親に、賽は静かにそう提案する。
「賽、ナイス!靴は俺が玄関持ってくから、母さんの手当て頼むな!」
「あ、お兄様。無理にしたら痛いですよ。」
「わ、分かってるよ!」
いつのまにか仲良くなって自分の手当てを始める勇と賽に、母親は警戒心を繋ぐ事が出来ず身を委ねた。
勇の母…神代春美は、現状に困惑していた。
心霊スポットでもある森。その奥深くの館。奇妙な印を額に持つ少女。
素性を聞けば細かい部分はまともに答えが返ってこなくて、いかにも怪しい館に住んでいた。
詳しい人間でなくても、幽霊や妖怪等の『非日常』を疑って不思議はない。
だが、当の少女が、あまりにも出来た対応をするのだ。
礼儀正しいし、自身の息子である勇も既に食事を二度いただいている。
挙句、自分の治療まで懇切丁寧に始めてくれて、その作業も丁寧だ。
額に汗をにじませながら、一作業終える毎に笑みを零す彼女を、幽霊や妖怪だとは…
ましてや、悪い娘と思う事はどうやっても出来なかった。
とはいえ、怪しすぎる存在であるのも確かで、その不安を押し殺しながら信用するしかなかった。
「ごめんなさい…この毒、治療法良く分からなくて…とりあえず回らないようには処置したんですけど…」
「あぁ、いいのよ。私だって良く分からないし、さっきよりはずっと楽だわ。」
丁寧に謝る賽に答えた後、自分の足を…その親指を見る。
処置されているが、そうでなくても明らかに膨れ上がっていた。
治療中、親指辺りでつぶれた毒虫を見つけたので、靴の中に滑り込んだそれを潰してしまったのが原因らしい。
賽は最悪足の指を切断しなければならないらしい。それでなくても、毒が回らないように縛っているのだからいずれどうにかなってしまうと思うけれど。
それでも、鎮痛剤等の処置をしてくれていなければ、激痛でどうにかなりそうだった事を考えればはるかにありがたい。
手当てが終わると、室内なら室内なりに遊びを教えると意気込んだ勇が賽の手を引いてどこかに行ってしまったため、春美は一人で目を閉じる。
「(勇も女の子に興味を持ち始める時期なのかしらね…)」
やけに賽のことを気にしている勇が何だが微笑ましく思えた春美は、その意識しまくりな息子の様子を思い浮かべながらゆっくりと眠りに落ちていった。
「へきしっ!!!」
がりがりと紙に線を引きながら、勇がくしゃみをする。
それと同時に、線がぶれてしまった。
「あー!くそっ、まぁいいか…一マスくらい。」
勇と賽は、大きな紙に手書きですごろくを作っていた。
さいころもすごろくそのものも知らなかった賽は、とりあえず綺麗な線を適当な感覚を作って引き続けている。
「…昨日雨に打たれてるんですから、お兄様も休んだらどうですか?」
「雨くらいなんだってんだよ!」
意地になって作業を続ける勇の姿に小さく笑う賽。
「(やっぱりどう見ても子供ですね…)」
兄でいたいらしい勇を立ててお兄様と呼んでいる賽だが、賽から見て勇の様子はどう見ても子供のそれだった。
それでも、賽は勇のことを気に入っていた。
一人だと思って兄を名乗ってくれた勇の優しさが。
「(まぁ…意地っ張りで困ったお兄様ですが。)」
くしゃみをしてからもなんだかふらふらとしている勇。倒れる前にベッドに行って貰わないと、そう思った賽は勇に声をかけようとして…
一足遅く、勇がその場に崩れ落ちた。
賽がふらふらの勇をつれて戻ってきたのを見て、春美は表情を歪めた。
「ど、どうしたの?」
「熱があるみたいです…昨日雨に打たれてからお風呂に入るまで間がありましたから…」
言いつつ、肩を貸していた勇をベッドに寝かせる賽。
「く、くそー…完成させる気だったのに…」
「クスッ…無茶しないで下さいね。」
ふらふらの様子でまだ強がる勇に、思わず笑みが漏れる賽。
そんな二人の様子を、春美は少し不安そうに見つめていた。
翌日、春美は再び不安に襲われていた。
止まない雨、上がる勇の熱。
昼通して看病に料理にと賽は尽くしているが、時々勇に対して…今の勇に対して笑みを見せる賽に春美の不安は増していった。
普段なら、世話をしながら強がる勇の様子に微笑んでいるだけだと分かったかもしれない。
だが、場所が場所だけに、状況が状況だけに、春美は正常な判断が出来ないでいた。
苦しむ自身の息子を見ながら嗤う、心霊スポットの噂がある、額に奇妙な印を持つ女。
春美は、湧き上がる不安と恐怖を抑える事が出来なかった。
その日の夜、春美は勇をおぶって部屋を出た。
客間と賽の自室は、二階に別々にあった。
疲れたのか、一昨日は調理すらしていた時間だと言うのに賽はもう自室に戻ってしまっていた。
一方、熱に疲れたのか勇の方も静かになってしまった。
故に誰も現状に気づかない。
ただ春美だけがゆっくりと玄関に…1階へ繋がる階段へ向かい…
「っ!」
足に嫌な感触を感じた直後、その体が階段に向かってぐらりと傾いて…
凄まじい音を立てて、階段から転げ落ちた。
「う…勇…」
全身を打ちつけたものの、転げ落ちたのが功をそうしたのか、春美はそれほどの大事には至っていなかった。
痛む体を流して、息子である勇の姿を探す。
春美はその姿を見つけて、安心し…
息を呑んだ。
倒れている勇。
投げ出された腕。
その右小指が千切れてなくなっていた。
「ゆ、勇…勇っ!あ…ぐっ…」
体を起こそうにも全身が痛む上に足が何より痛んでまともに動けない春美。
そんな中、物音を聞いたのか賽が階段上から顔をのぞかせた。
賽が見たのは、階段の途中の手すりあたりに見えた血の痕と、階段の途中に落ちている指。
そして、更に階段の下に転がっている二人の人影。
「お兄様!お母様!?っ…」
惨状に気づいた賽が、慌てて救急箱を取りに走る。
春美は、その光景を見ていられずに目を閉ざした。
手当ては済んだ。
賽も医師ではないため詳細までは分からないが、触診や全身を見た所酷い怪我はあまりなかった。
再度二階に上がる事を危惧した賽は、リビングの椅子に二人を寝かせ、二階から掛け布団を運んでくる。
さすがに目を覚ました勇だったが、春美も勇も何も言わなかった。
手当てが済んで、静かになった居間で、賽がうつむいたまま口を開く。
「…私が怪しいとか、変に思えるのは分かります…でもっ…お願いですから…無茶しないで下さい…お願い…ですから……」
搾り出すような賽の声。
うつむいてその顔が見えない事が、かえって深く賽の悲しみを伝える。
自身の息子に一生ものの怪我を負わせ、その息子と自身の手当てに全力を尽くした賽の悲痛な声を聞いた春美は、横たわったままで静かに涙を流した。
翌朝、春美の足の指を切断する事になった。
「ごめんなさい…」
「あぁ、いいのよ気にしないで。私が悪いんだから。」
ただでさえ毒の抑え方が分からず困っていた所に、そんな足で動いた事が不味かったのか、朝になって異常な色に変色しつつあったのだ。
指じゃすまなくなる前に…という事で、足の指を切断し、断面の止血を行う事になった。
賽自身、単に森で一人暮らしを行うに当たっての毒虫や軽傷の治療の為の知識しかない。
指一本切断するとなると、どうしても慣れずに春美にそれなりの負担があった。
だが、春美は叫ぶ事もなく堪えた。
自業自得…ならまだ良かったのに、息子が大怪我をして、その治療に疑っていた賽が必死になっている。
そんな中で、痛いなんて理由で喚き散らす事は春美には出来なかった。
処置が終わり、家の中には暗い空気が立ち込める。
無理もない。
体の一部を失うような怪我を二人が負うような事になって、明るくしていられる人間なんてそうそういない。
更に一日が過ぎた。
指こそ失ったものの、勇の熱は引きつつあった。
足の指の痛みに慣れた頃、春美が傍の勇に謝り始める。
「勇…ごめん…」
「俺の事はいいけどさ…賽にはホントに謝れよな?メシ食わして貰って手当てして貰って怖いって何だよ…オマケにそれで母さんまで足やっちゃうし…」
すねたように告げる勇。
だが、勇が軽く告げた一言は、春美の心を深く抉った。
「…そうね…ごめんなさい、賽ちゃん。」
「いえ…私もごめんなさい…自分でもこの模様の事とか良く分かってないのに、お兄様みたいに怖がられないのが当たり前だと思ってました。」
謝る春美に対して、賽も頭を下げた後で自分の額を指でなぞる。
洗っても消えない奇妙な印。森の奥で一人暮らしの少女。
その異常を理解するだけの頭は賽にはあった。
一方春美も、この状況で自分に対して本当に申し訳なさそうに謝る賽に対して、罪悪感が募っていた。
暗い空気。
誰も笑顔になれない、なれるはずがない空気。
そんな中で、賽も春美も自身のことでいっぱいの状態で…
勇が一人、拳に力を込めたことに気づけるわけがなかった。
翌日、続いていた雨も上がったその日の夜中、勇は一人で家を抜け出した。
体調も大分回復してきた、雨も降っていない。
森の中は暗くてろくに視界が利かないが、懐中電灯は持っている。
「コレなら…何とかなるさ、楽勝だ。」
勇は笑みを浮かべて森の中を歩き回る。
しばらくの時が過ぎて、目的のものを見つけた勇だったが…
雨が、再び降り始めていた。
オマケに、無理に夜中に動き回ったせいか、再び体調が悪化しつつある。
「やば…早く帰らねぇと…」
と、勇は改めて帰ろうとして辺りを見回す。
取り立てて目印のない深い森の中、雨のせいで懐中電灯の光も遠くに届きづらくなっている。
「…帰…れっかな?はは…」
浮かんだ嫌な妄想を振り払うように頭を振る勇。
そして…
「待ってろよ母さん…賽!!」
弱った体を押して、勇は再び森の中を歩き始めた。
朝になって、勇がいないことに気づいた春美は、今度は真っ先に賽を頼る事にした。
杖を使って、痛む足で階段を登る。
「お兄様がいない!?」
部屋で眠っていた賽は、無理を承知で杖を使いながら二階に上がって来た春美に知らされた突然の知らせに飛び起きた。
眠ってからいなくなったのだとすると、何時間になるのか。
昨夜は止んでいた雨がまた振っている。
もし外にでも出ていたら…
賽は飛び降りる位の勢いで階段を駆け出し玄関へ向かう。
と…正にちょうどその時、玄関の扉が開かれた。
「ただいま…」
「お兄様!!」
ふらふらと、力無く家に入ってきたのは、全身を雨に打たれた勇だった。
慌てて賽は、タオルを取りに駆け出す。
賽が戻ってくると、勇の右手から一匹の虫が歩き出した。
「カブト…ムシ?」
「へへっ…見たか…指一本位無くったってこれくらい…」
苦しそうな呼吸。
濡れているのに熱い身体…頭。
そんな体調にもかかわらず関わらず笑顔の勇が告げた言葉を聞いて、賽は全てを理解した。
恐怖に負けた春美に、自身の異常を感じていた賽。
その二人が、勇に申し訳無さそうに笑顔と明るさを失っていた。
勇はただ、ソレが嫌で、意地を張って、虫を捕ってきたのだ。
「馬鹿っ…馬鹿ですっ…そのためにこんな…」
涙を流す賽。
だが、勇は笑顔だった。
苦しそうな呼吸と高い熱。それらに負けないくらいの笑顔。
「教えてやるからな…風邪治ったら…雨やんだら…虫取りも釣りも俺が…教えてやる…」
うわごとの様な呟きを最後に、勇は目を閉じた。
翌日の夜、春美と賽の賢明な介護も虚しく、勇は動かなくなった。
二度と…動かなくなった…
一晩を置いて冷たくなってしまった勇の身体を背負う春美。
雨も上がり、足も治るわけがないが、落ち着いてはきたという事で、帰る事にしたのだ。
春美は小屋を出ると、賽に向かって小さく頭を下げる。
賽は何の声も上げることが出来ずにお辞儀を返す。
頭を上げた賽は、ただ去っていく二人の姿を眺め…
岩が転がってきた。
一瞬だった。
悲鳴すら聞く間もなく賽の目の前を岩が横切っていき、二人の姿が消えた。
消えた…訳がない。
賽は理解が追いつかないまま…理解したくないままに岩の転げ落ちていった先を覗き込む。
その先にあったのは…さっきまで動いていたはずの…赤いカタ…マ…
「あ…ぁ…」
目をそらせないまま後ずさりする賽。
でも、その塊は依然として存在し続ける。
ソレがなんなのか、考えられない…考えたく…ない…
「うあぁぁぁぁぁっ!!!」
賽の悲痛な叫びが、深い森に響き渡った。
「もう一週間…か。」
仕事を片付けて時間が出来た男は、ふとカレンダーを見ながら呟いた。
男の妻が息子を連れて旅行に出て、一週間が過ぎた。
仕事で忙しかったとはいえ、音信不通で帰って来ないとなると不安がかさむ。
気がかりを覚えた男は、二人の旅行先に出向いた。
すると、心霊スポットで名高い森の奥に、妻らしき人が向かう姿を見かけている人がいた。
暗い森の中、遭難でもしていれば危ないと、ナイフやロープなどの道具を買い、森に入る男。
男の家庭は、けして裕福とは言えなかった。
だが、最近ようやく軌道に乗った仕事のお陰で、旅行なんかもさせてやれるようになった。
「(こんな時に訃報など…)」
祈る様な気持ちで進む男。
だが、地面に穴を掘る賽の姿を見つけた瞬間…その脇にある二つの赤い塊を見た瞬間、全てが吹き飛んだ。
賽が男に気づいて視線を向ける。
視線があった。
男から見れば、額に印を持つ不気味な女が、今まさに殺した家族を埋め…
「貴様…」
「えっ…」
「貴様あああぁぁぁっ!!!」
絶叫と共に、男はナイフを抜き放った。
そのままナイフを賽に向かって振り抜く男。
一方で、賽の方は何が出来るというわけでもなく、少し逃げる。
「いつ…っ!」
肩を切り裂く痛みをこらえながら、賽は屋敷へと駆け出した。
男は発狂していた。完全に我を忘れて賽に襲いかかるため屋敷に入り…
逃げる賽の背に、ナイフを突き立てた。
激痛が賽を襲う。
息をする度に傷む身体に賽は叫ぼうとするが、声が声にならない。
「ああぁぁぁぁっ!!」
断末魔の様な叫びを絞り出して前のめりに倒れる賽。
そんな賽の背に、男はナイフを連続で突き立てる。
「勇が!春美が!何をした!返せ!返せ!返せえぇぇぇっ!!」
涙を流し、血を吐くほどに叫びながら、何度も何度も賽の背にナイフを突き立てる。
「(ごめん…なさい…)」
賽は、遠のく意識の中、声にならない声で謝った。
しばらくして、男の目の前には傷に傷が重ねられグチャグチャになった賽の背中があった。
男が動かなくなった賽からナイフを抜く。
その時、有り得ない事が起きた。
男の目の前で賽の身体が、傷が回復していったのだ。
原型を留めないほどの傷が、瞬く間に。
「(あ…れ?)」
地獄のような苦しみから解放されて間もない賽には、事態の異常について行くだけの頭が働かない。
だが、目の前でそんなものを見た男は、殺しきれない賽を恐れ、ナイフを取り落とした。
「ば…化け物…」
恐れをそのままに呟く男。
賽は、言葉なく組み伏せられた体勢のまま首だけ背に向けて男を見る。
男の目には、自分を見上げる額に奇妙な印が写る。
「ひ…ひいいぃぃぃぃぃぃっ!!!」
「あ、ま…」
恐怖に勝てなかったのか、男は走り去った。
賽はそんな彼を呼び止めようとしたが、刻まれた激痛の記憶を恐れ、最後まで言葉に出来なかった。
あれから何日か経った。
死なない身体でも何も食べずにいるのが辛くなったのか、賽はのろのろと台所へ向かった。
「(化け物…)」
男が…勇の父親が、去り際に残していった言葉が賽の頭の中を埋め尽くしていた。
賽自身、額の印を見つけた時から自分がおかしいとは思っていた。
普通洗っても薄れない印何て刻めるわけがない。
いつついたものかすら分からず、気にもしていなかったけど、本来こんなものあるはずがないのだ。
まして…背中に何度も深々とナイフを突き立てられても治ってしまうなんて、そんな事あっていい訳がない。
だが、賽が力無く失意に沈んでいるのは、自身の異常そのものについてではなかった。
「(私が呪われた化け物なら…お兄様とお母様が死んでしまったのは、私のせい?)」
賽の頭を閉めている唯一絶対の不安。
自分を疑っていた春美には、悪意がないと伝えるために懇願して、分かって貰えていた。
だが、それが意志に関係ないとしたら?
病気は善人からだって感染する。呪いだとしたら尚更…
「(考え過ぎ、考え過ぎです。)」
賽は強めに頭を振って不安を振り払う。
賽には一つだけ、不安を払うための材料はあった。
蘇った賽を見て怯えて逃げた、勇の父親。
もし、呪いなんだとしたら、彼が無事逃げられるわけがない。
自分のせいだという考えが、二人とも賽と出会ってから大体同じくらいの時間の後に死んでいる等の不思議な共通点が、気のせいで考え過ぎだという証。
気づけば、賽は全て食べ終えていた。
いつ何を作ったのか、どんな味だったのかまるで覚えていない。
「(重症ですね…)」
気持ちを軽くするために、力無いままで笑みを浮かべる賽。
食器を手に、台所へ。
何気なく側にあるラジオのスイッチを入れ、食器を洗い始める。
『…続いて、つい先程入りました交通事故のニュースです。』
することなくゆっくりと聞いていると、殆ど毎日聞いている気がする話。
「(森の中にいる私には縁の無いものですが…痛いでしょうね。)」
転がってきた岩に直撃した春美の凄惨な遺体を目にしている賽は、そんな光景をリアルに想像してしまい…
『この事故で、神代一樹さん、一名が亡くなられました。』
死亡者の名前を聞いた瞬間、賽の手から食器が滑り落ち、派手な音を立てて砕け散った。
「(嘘…です…そんな…そんなはず…)」
賽の支えが崩れ始める。嫌な汗が止まらない。
『事故車を運転していた神代一樹さんですが、妻の神代春美さん、息子の神代勇さんも行方不明と』
「っ!!」
賽はとっさにラジオを殴りつけた。
チャンネルがズレて、砂嵐の様な音が響く。
砂嵐のような…雨のような…音。
自身の境遇を聞いて、兄を名乗った優しい少年。
そんな少年を心から慈しんでいた母親。
二人と会った日の…雨のような音。
そんな二人を死なせたのが自分じゃないと、信じることが出来ていた柱が、よりにもよってその最後の家族を死なせることで折れてしまった。
カタカタと、小さく震える手で、賽は包丁を握る。そして…
自身の首に深々と突き立てた。死ねるように願って。
砂嵐のような音の鳴る台所で、仰向けに倒れたまま賽は涙を流した。
生きている…生きてしまっている…
「私の…せい…だ…」
賽が呟くと、頬を伝う涙が増した。
人間がこんな事をして生きているわけがない。
望む望まざるに関わらず、出会った人間が死んでしまう。
しかも、自力でソレを止めることも出来ない。
「あ…ぁ……」
賽はいつ止まるともしれない涙を流しながら、ただ台所の天井を眺め続けていた。
と言う訳で前編終了です。
…長っ!必要な条件とか、あくまで『賽』自身はいい娘な所とか、色々と入れていたら結構な長さになっちゃいました。
後、各人視点で話を書いていた期間が長かった事もあって、誰の会話文でもないのに『私』とか入っちゃって中々大変でした(汗)
定期投稿が難しくなるかも知れませんが、ご了承願います。
でも、夏中には完結させます。今ホラーやる意味がなくなっちゃうんで(笑)。