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短編

ラブレター

『この手紙を君が読んでいる時、私はもう死んでいるだろうか? もし死んでいないなら、これ以上読まずに元の位置に戻してくれ』


 そう書かれた手紙を私が見つけたのは、彼が死んでから一週間後の昼時だった。


 彼の遺物を整理しているときに出てきた本。時折開いているのは見たことがあったが中を見たことは一度もない。私は休憩するついでに開いてみた。


 中身はまったく分からない。というのも日本語ですらなく、ましてや英語ですらなかった。


 私は未知の文字を目でなぞりながらページを捲っていった。半分ほどいって、彼の手紙が挟まっているのを見つけたのだ。


 しばらく手紙の続きを見ることが出来なかった。生きてまた私に会いに来てくれたのかとそんな気さえして、見てはいけない気がしたからだ。


 読む前に入れた熱いお茶が冷めてしまったことに気付いて、私はようやく読む決心が付いた。


 一枚目を横に置き、二枚目を見る。


『ここを見ているということは私は死んでいるんだな。お前は固いところがあるから死んでいなかったらすぐに戻すだろうし。でも死んだのか。書いている私は生きているから実感はあまりない。私は安らかに死ねているか。ちゃんと寿命で死んでいるか。今はそれが心配だ。体の強さだけが取り柄だとお前は言うから、きっと病気ではないだろう。だがもし病気で、お前に迷惑をかけていたなら謝りたい。どちらにせよ、私が初めに言いうことは変わらない』


 二枚目はそこで終わっていた。


 迷惑をかけた、か。そういえばそうだったかもしれない。私の人生、彼に迷惑をかけられてばかりだったと今にして思った。


 いつか行こうと約束していた結婚旅行は結局行かずじまい。彼のいない食卓なんて当たり前。酔った勢いで殴られたこともある。


 迷惑だった。けれど、それでも満ち足りていたのは間違いない。


 そうだ、私は満ち足りていた。彼が不器用にでも私を愛し続けてくれたから。いつも変わらぬ仏頂面は私だけを見つめていた。


 二枚目を横において三枚目を見る。


『ありがとう。お前がいてくれたから、私は幸せな人生を全うすることができた。そして、すまない。もう遅いだろうが、それだけは言っておきたかった。生きているうちに言うと、お前はきっと気持ちを押し殺して私を叱咤するだろう。そして私はそれに甘えてしまう。だからこその手紙だ。臆病な私を許してくれ』


 まだ余白があるが三枚目はそこで終わっていた。消した跡がはっきりと残っていた。言いたいことが纏まらなかったのだろう。手紙を書くなんて彼の柄じゃない。


 たった四枚の手紙を書くのにどれだけの時間をかけたのだろうか。頭を捻りながら一文字一文字丁寧に書いていく彼の姿がはっきりとイメージできた。


 彼が会社を興して安定した軌道に乗るまでの年月は、娘が生まれて結婚し孫が生まれた年月とさして変わらない。


 それまでは悪いときは娘の学費だけで収益がもっていかれ、旅行の資金まで削った。今、娘は立派な主婦となり、夫を支えていることが誇らしい。でもどうか私のようにはなってくれるな。


 三枚目を横に置き、四枚目に目を通す。


『お前がいてくれて良かった』


 最後は真ん中にそれだけ書いてあるだけだった。思わず笑ってしまう。


 なんて不器用なのだろう。もうちょっと気の利いた台詞でも言ってくれれば、もっと感動したかもしれないのに。けれど、やっぱり、これでいい。彼は彼なのだから。


 私がいて良かったですか、それは私の台詞ですよ。


 あなたがいてくれて良かった。


 声に出して言ったことはないけどずっと思っていました。


 私は揺れる眼で外を見ました。通り雨がきているようです。しばらく見ていよう、なんとなくそう思いました。


 通り雨が過ぎ、手紙を纏めた私はまた本に目を通すことにしました。相変わらず未知な文字が描かれた本、彼は読めたのだろうか。いや、果たしてこれは文字なのだろうか。


 私の知る限りではこんな文字は見たことがない。どうせこれから何もすることがないのだ、暇つぶしに死ぬまでこの本を読んでみるのもいいかもしれない。


 そうと決まればまずは遺物の整理を終わらせなければ。私は休憩を終わり、放置していた整理に戻った。


 遺物の整理が大分終わった頃合に玄関のチャイムの鳴る音が聞こえて、お母さんと私を呼ぶ声も響いた。娘夫婦が来たようだ。


 次にドタドタと廊下を走る音が響き、孫の一人が私に抱きついた。よしよしと頭を優しく撫でてゆっくりと立ち上がった。孫と手を繋ぎ唯一ものがあり休憩していたリビングへと戻ることにした。


 リビングに入ると慣れない正装をした男が立っていた。いつも普通の服でいいと言っているのに聞かないこの男こそ娘の夫だ。私にお邪魔しますと頭を下げた。


 私はいらっしゃいと答えてから、リビングを見渡す。するとあの本を持った娘が目に入る、その横顔は懐かしいものを見るようにしんみりとしていた。


 その本を知っているのと声に出すのを我慢出来なかった。娘は私を見て、それから小さく頷き、お父さんがいつも読んでた本だもんと言った。


 私はお茶を人数分淹れてから椅子に座る。その本読めるのかと聞くと、娘は読めないと答えて対面の椅子に座りお茶に口をつけた。娘の夫は娘の隣に、孫は私の隣にそれぞれ座った。


 何語で書かれているかもわからないんだから当然か。


 しかし、娘はどうして読んでいたかは知ってるよと続けた。淹れたお茶が熱い、なかなか冷めてはくれないようだ。


 それはね、と娘は勿体ぶってから、お母さんに愛してるって言うためだったんじゃないかな、ととんでもないことを言った。彼が私に愛してるって言うため、そんなこと本当にあるのだろうか。


 お母さんの知らないお父さんの癖だよ、難しい本を読んで読み終わったら決意したことを言うって、と娘は笑いながら言う。確かに私はそんな癖は知らなかった。とすれば彼が大切に並べていた四冊の英文書は彼の決意しつきた数で、この五つ目の未知の本は達成されなかった決意なのか。


 彼の決意してきたことは何なのだろうか、少し考えると面白いほど手あたりが少ないことに気がついた。初めて声をかけられた時、結婚しようとプロポーズをされた時、会社を興すと言われた時、娘の結婚を許した時。おそらくこの四つだろう。


 やったことは少ないけど、やったことは成功してきた彼。その影には強い決意と芯の通った信念があったのだ。


 ところがだ。私はふとおかしなことに気がついてしまった。他の四冊は英語なのに、最後の一冊だけは未知の文字なのは何故なのだろうか、と。


 そっか、だからその本にしたのか。そう口にしたのは娘の夫だった。納得したように頷いている。私がどうしてと訊ねると居住まいを正して真面目な顔を作った。そして、言う。


 お義父さんにとってお義母さんに好きと言うことは出来ないことをするくらいの決意が必要なことだったんです。


 その後、私は何を考え、何を思ったのかはよく覚えていない。気がついたら荷物の整理が終わって、娘家族を見送るところだった。


 一緒に暮らさないかと言われたが、この家を離れたくはないと何十年ぶりかの我儘を言った。寂しさから泣きそうになる孫を抱きしめ、また来ておくれとこれまた我儘。溜まった分を一気に吐き出す勢いだ。


 娘家族を乗せた車を見送り、私は家に入った。静まり返っていてどこか懐かしい感じがした。簡単に晩御飯を作った。二人前だと気付いたのはテーブルにご飯を並べていた時だ。


 一人分の料理を食べ終え、残った一人前を仏壇へそのまま持っていく。


 仏壇の前に正座し、かけられた彼の写真を見つめた。こんな時まで仏頂面、一番格好いいからこれにしたのだけど、今はやっぱり正解だったと思える。


 灯した蝋燭の火が、線香の煙が揺れる。窓も扉も閉まっている部屋は暗く、今にも化けて出そうな雰囲気だ。


 愛しています。私は小さく呟いて、蝋燭の火を消し立ち上がる。


 仏頂面は相変わらずだ。いつも通り何も答えてくれない。私は部屋を出て行った。


 線香の煙だけがいつまでもまっすぐ上に上り続けている。




ぜひ、感想や厳しい批評をよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 終わり方が良いです。 私はいつも"最後の文、どうしよう?"と悩んでしまうので。 [一言] 素敵なお話でした!! ありがとうございました。
[良い点] ・「遺書」ではなく「ラブレター」というタイトル。夫の死を受け止め切れていない心理を巧く表現していると感じた。 ・洋書と見たことのない文字で書かれた書物の使い方が素晴らしい。 ・不器用な夫と…
2011/11/28 22:49 退会済み
管理
[良い点]  いい話でした。  しみじみと心に染み入り、読了後も余韻にひたらせていただきました。  何よりも、この『ラブレター』の文面が良いです。  便箋を一枚一枚分けたところからにじみ出る夫の性格…
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