第49話
夕方、赤く染まった海沿いの道を、一台の黒いバイクが駆ける。
ヤマハのFJR1300。同社がスーパースポーツ車両で培った技術を基に長時間のツーリング用に作られただけあって、低振動ながら滑らかな動作で、乗り心地のいい。欧州各国では用途と設計との親和性の高さから警察車両として採用されている事例が多く、日本警察でも二〇一四年に白バイとして導入された。
運転しているのは、明智真だ。いつもの黒一色のスーツに、これまた真っ黒なフルフェイスのヘルメットを被っている。婚約者だった村雨さやかの墓参りを済ませた帰りだった。
警察官になる前、もしかしたら白バイに乗ることもあるかもしれないと思い、学生の内に、大型バイクの免許まで拾得してしまった。実際は白バイに乗ることは一度もなかったが、私生活で乗ることは多かった。育ての親である祖父の数少ない趣味がバイクで、子供の頃によく後ろに乗せてもらっていた。その時感じた風を切るように走っていく感覚が忘れられなかったのだろう。自動車の普通免許を取った後も、車よりバイクばかり乗り回していた。
さやかとも一度だけ二人乗りしたことがあったが、彼女は恐かったらしく、残念ながら二度と一緒にバイクに乗ってくれることはなかった。
――もう一度くらい、一緒に乗りたかったな。
そんな感慨に浸っていると、歩行者信号が点滅しているのが視界の隅に留まった。まずい、と思いアクセルを緩めて速度を落とす。走らせている内に市街地に入っていた。運転に集中しないから事故が減らんのだ、と自戒し、ブレーキを掛ける。
エンジン音が弱まったところに、女性の悲鳴が耳に届いた。
悲鳴はすぐ近くから聞こえた。前方を注視すると、数十メートル先の小学校の校門前で、生徒の母親らしい女性が上げたものだと分かった。何が起きたのか確認するため、明智は目を凝らす。
帰宅しようとしているたくさんの小学生達の列と少数の保護者の前に、一人の男が立ち塞がっている。
その男の手には、出刃包丁が握られていた。
その姿を目に留めた瞬間、停まろうとしていたバイクのアクセルを再び回した。再度速度が上がり、あっという間に数十メートルの距離を走った。
明智は男と小学生の列の間に、バイクを無理矢理割り込ませる。
今にも小学生達に襲いかかろうとしていた男が、突然の乱入に動きを止めた。
さてどうだ、と明智は子供達を見る。何人かの子供は学校へ向かって逃げていくが、恐怖のために腰を抜かしている子供もいた。そして保護者は母親のみ。
明智は溜息を吐きながらバイクを降り、男の前に立ち塞がった。
荒い息遣いの男が、明智を血走った目で睨みつける。
一方、明智は男を見て、眉間に皺を寄せた。男が麻薬中毒者であることに気付いたのだ。警察官時代、麻薬の取引現場にまで踏み込んだ経験もあるのだ。目と顔色を見れば、すぐに判る。中毒者ほど、顔面の肌荒れが酷いものだ。頬が紅潮しているのは、麻薬の効果で興奮を通り越して凶暴化しているためだろう。薬物乱用の末に理性を失って、近くの包丁を掴んで部屋を飛び出したのか、と明智は検討を付ける。
そういえば、この前も大規模な麻薬密輸を摘発したばかりだった。あの密輸船は摘発まで何度も大量のドラッグを運んでいたはずだ。もしかしたら、摘発前に出回ったものを使ったのかもしれない。
麻薬中毒の男が、出刃包丁を振りかぶった。幸いにも、刃に血は付いていなかった。この手の犯罪者は目に付いたものを無差別に襲うものだが、運が良かったというべきなのだろうか……
男が斬り掛かってきた。はっきり言って、遅い。つい最近、日本刀の達人と生死を賭けた斬り合いを繰り広げたばかりだ。素人の、麻薬中毒者の動きなど、スローモーションにしか見えない。少し上体を反らしただけで回避した。男はさらに乱暴な包丁捌きで襲い来る。縦、水平、袈裟にと振り回される包丁の刃を明智は数歩と動かず避けていく。
拳銃があれば、腕なり足なり一発撃ち抜いて動けなくするんだが、と考えたところで、明智はその考えを振り払う。特殊部隊として非日常に関わっている間に、危険な思想に毒されてしまいかけている自分に気付く。
第一、自分に銃があったとしても、こんな無関係の人間がたくさんいる場所で撃つこと事態が間違っているし、うまく相手を無力化したとしても、もしも当たりどころが悪ければ……
――あの時のような思いは、もう御免だ。
ここで好機が訪れた。男が思いっきり振って攻撃を外した。バランスを崩し、前につんのめる。
体勢が崩れたところに、明智は蹴りを打ち込んだ。右足が男の右手を捉え、包丁を弾き飛ばす。
今度は明智の反撃が始まった。まず、掌底打をアッパー気味に放つ。男の顎を打ち、脳を揺らす。今度は握った左拳を鳩尾に叩きつけた。踏み込みと同時に放ったボディブローを受け、男の身体がホンの一瞬宙へ浮く。
立て続けに急所にダメージを与えたが、男は倒れなかった。薬で、痛覚が麻痺するぐらい高揚しているのだ。
武器がなくなった男が、明智に掴み掛かってきた。
明智は慌てず伸びてきた男の右腕を掴むと、引き寄せる。わざと姿勢を低くして男の下に潜り込み、タイミングを見て腰の捻りを加える。明智の背中が男に触れたと思われた瞬間、男の身体が宙を舞い、背中からアスファルトに叩きつけられる。
男が獣の咆哮の如く絶叫した。柔らかい畳の上ならともかく、硬い地面の上で行う柔道は殺人技に等しい。背負い投げで地面に投げ出された男の右手はまだ明智に握られたままだった。肘に一気に負荷を掛け、腕を本来曲がらない方向へ曲げてしまう。骨の砕ける音と共に、激痛で男がのたうち回る。
そろそろ大人しくしろよ、と思いつつ、明智は男の首に腕を回した。気道を圧迫しながら、男が逃げないように抑えつける。男はしばらくもがいていたが、やがて身体から力が抜ける。首から腕を放すと、再度呼吸を再開したが、目覚める様子はない。意識を失ったようだ。
ここまで痛めつければ、学校の教師程度でも押さえつけられるだろうし、警察も直に来るはずだ……
そこまで考えたところで、明智は正気に返った。そして、非常にまずいことをしていることに気付く。やり過ぎた、という意味ではない。自分の今の立場を思い出したのだ。
明智は大急ぎでバイクを起こした。バイクに跨がると、何か言おうとしている保護者達を振り切るようにこの場を去る。フルフェイスのヘルメットのおかげで、顔はばれていないはずだ。
――自分は何をしているのだろう……
高速でバイクを走らせながら、自身に問いかける。
麻薬中毒者による被害が出る前に、取り押さえた。文字に起こせば簡単だ。端から見れば、褒められる行為なのだろう。
――警察官、真智明が行った行為であれば。当然だ。それが警察官となった真智の使命なのだから。
だが、真智明は死刑囚として処刑された――本来なら存在しているはずもない男だ。
そして、ここにいる男は――今の自分の名は明智真。先程のような戦闘を行う必要もなかった。今の自分は警察官、真智明などではないのだから……
明智の混乱する考えを裂くように、前方からパトカーのサイレンが聞こえ、慌てて速度を落とす。パトカーがすれ違い、明智が走ってきた方向へ急行した。今頃かよ、と思わず毒づいてしまう。
ただ、一度頭を冷やす切っ掛けにはなった。
落ち着いて考えれば、自分はとてつもなく「甘い」ということを認識させられる。
渥美瞳の時もそうだった。正義漢ぶって首を突っ込んでしまった結果が、このザマだ。死んだと割り切り、捨てたはずの「真智明」の偽善者染みた思想が、この「明智真」の足を引っ張っている。
――復讐のために殺人を起こした男が、正義を語る資格などないのにな――
喉の奥から何やら苦いものがこみ上げてきた気がした。ちょうど進路にあった自販機の前でバイクを止め、ミルク代わりに練乳が入ったカフェオレを購入する。
甘ったるいコーヒーを一気に呷ったが、こみ上げる苦みは流し落とすことは出来なかった。