第130話
千葉市郊外に建っている、書院造りの日本式家屋。ここには住んでいる人物の趣味で、剣道や柔道といった武術を磨くための道場が敷地内にある。
道場の外には、弓道場も存在した。高い天井が設けられた射場から、中庭を挟んで的が並び、稽古用の巻藁も設置されている。
射場で一人の女が弓を構えていた。足踏みから胴造り、弓構えまでの射る前の準備動作を終え、いよいよ矢を番える。
弓と矢を持った両手を上に上げた。体に対し正面ではなく左斜め前の位置でやや弓を押し開き、両拳を左前方に打起こす。その状態から、弓を押し開きつつ右腕を引き下ろす。己の眉毛の高さに番えた矢を保持して、弦を三分の二まで引いて一度動作を止める。一呼吸置き、さらに引いた。
これは儀礼的な射法ではなく、武士の弓術が元の武射系に由来する構え方だ。
弓を引き切り、的に狙いを付ける。この「会」の状態に入ると、第三者からは静止しているように見えるが、射手の身体には力が掛かり続ける。その証拠に、女の表情は変わらないのに、汗が噴き出始める。
顔から流れる汗が、顎まで伝わり、雫となって落ちた。
矢が放たれる。
弦を引いていた右腕が大きく右に伸びた。そのままの姿勢を保って心身ともに一息置く。
高速で飛翔した矢が、的の中央を貫いた。
「お見事」
射手とは別に、射場内にいた人物が称賛する。その人物は、日本式の弓道場には馴染みのない、銀髪を揺らした。
「貴女もやってみませんか、綾目さん?」
「遠慮しますよ、喜三枝さん」
残心を終え、構えを解いた喜三枝美妃の誘いを、綾目留奈は断った。
「私は、弓より銃の方が合いますので」
「静かに的を射るより、粉々になるまで撃って憂さを晴らしたい、ということですか」
冗談混じりのルナの言葉に、淡々と美妃が返す。
「何のことでしょうか?」
ルナは怒鳴るような真似をしなかったが、言葉の端に隠し切れない怒気が漏れていた。
「ご安心を。別に揶揄したわけではありません」
そう言い、美妃が母屋の方を見た。
「むしろ、怒ることが出来るだけ貴女はまだスレてませんよ。私は、むしろ見損なったものですから」
一切の感情が籠もらない声で、美妃は吐き捨てた。
ルナはその言葉からゾクリとしたものを感じ取る。
「見損なう、ですか?」
思わず尋ねていた。
美妃が、ルナに顔を向け直す。
笑みこそ浮かべてはいるが、その目に一切の感情がない。何事にも関心を向けようとしない。その目の奥には、全ての光を吸い込むような「闇」があった。
ルナは震えた。その目で見られるだけで、鋭利な刃物を突きつけられている気分になる。
結局、ルナの方が母屋の方角を見るように目を逸らした。すると、視線の先に、侍女が一人、歩いてくるのが見えた。
「奥様、太刀掛様がいらっしゃいました」
太刀掛仁が喜三枝美妃の邸宅兼道場を尋ねてきたようだ。
「すぐに参ります、と伝えて。着替えたら行きます」
侍女が美妃の命に「かしこまりました」と応え、その場を後にする。
「綾目さんも先に応接間へどうぞ」
美妃から勧められ、ルナも応接間へ向かった。
ルナが応接間に通ると、太刀掛が茶を飲んでいるところへ遭遇した。
「お疲れさま――と言いたいところではあるんだが……明智はどうした?」
太刀掛の問いに対し、ルナは思わず溜息を吐いてしまった。
とはいえ、黙っているわけにもいかないので、仕方なくルナは説明する。
「例の女学者にご執心です」
幾分か内容にトゲが籠もってしまった。
太刀掛は気にした様子がない。ただ一言、「そうか」と返すだけだ。
ルナからすれば、その反応が却って怖かった。美妃もそうだが、この組織の年長者達は一見変哲もない動作で、一々緊張を煽ってくる――もっとも、こちらがそう感じているだけで、彼らはごくごく普通に接しているつもりなのだろうが。
太刀掛は残った茶を飲み干し、
「明智は離れ屋かな?」
と、問う。
ルナは少し考えた末、頷く。
現在、明智はテロリスト、CIA双方から狙われている細菌学者の玉置みどりを警護していた。
ただし、一つ問題があった。玉置みどりの容姿が、明智の婚約者であった村雨さやかにそっくりだったのだ。
ルナの目から見ても、明智の彼女に対する執着ぶりは異常だった。
婚約者とそっくりの人間に出会い、動揺するのはまだ分かる。
しかし、顔が似ているだけで赤の他人なのだ。それに面影を重ねて接する明智の姿に、ルナは説明の難しい嫌悪感を抱く。
「その様子から察するに、明智のおかげで大分ストレスを溜めているようだな」
「そんなことは――」
ルナが否定する前に太刀掛が眼前に手の平を出して静止した。
「まぁ、私も思わんところがないわけじゃない。ひとまず、奴については私に任せてもらっていいかな?」
一見、太刀掛は穏やかに言っているように見えるが、言葉の底から有無を言わせぬ威圧感を感じる。
「――それでは、お願いします」
ルナとしては、こう答えるしかない。
太刀掛は頷くと、
「そういえば、君宛の新しい装備が届いていた。本部に行って確かめるついでに、憂さ晴らしに訓練でもしてはどうかな?」
と、教えてくれる。
どうも、こちらの精神的ストレスを察して、明智から離そうとしているようだ。装備や訓練というのは、完全に方便だろう。
ルナは、それに乗ることにした。
「それでは、お言葉に甘えて」
ルナが退室したのと入れ替わるように、美妃が入ってきた。
彼女は先程まで着ていた弓道着から、紺色の生地に花菖蒲の柄があしらわれた着物に着替えている。
「お待たせいたしました、先生」
「いや」
美妃は、太刀掛のことを「先生」と呼ぶ。それは、彼女の剣術の師であることに由来していた。太刀掛から見ればとっくに自分の元を離れた生徒ではあるが、美紀は師への敬意を払って呼び続けている。
「あまり好ましい状況ではなさそうだな」
「はい」
太刀掛の問いに、美妃が頷く。
先程のルナとの会話で、太刀掛は明智の状態を察していた。
「明智と話がしたい」
「こちらです」
美妃は太刀掛を案内し、母屋から離れ屋に向かった。