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第二章 小説におけるファンタジーの力、その適応

 ファンタジーとは本来、芸術であれば、全てのものになくてはならないものである。ファンタジー、幻想とは、五感で捉えることのできない世界の真理とも言えるものであるが、通常、これを表現するためには、どうしても比喩的方法を取らなければならない。五感で捉えられないのであるから、理屈から言えば直接的には表現不可能なのである。仮に言葉で表現するとして、五感以外の器官で感じた真理は、新たな言葉を創造しなければ、直接的には表現できない。もちろんこれでは読み手に伝わらないため、書き手は否応なく比喩的表現を持ちいらなければならないのである。

 かつてこの真理は、人間のなかで神話という比喩表現がされた。その当時、人間はより真理を感じることができていたと言えよう。しかし現代において、我々が真理だと考えているものは、果たして本来的な真理であろうか。言葉で直接的に書かれていることは真理とは言えない。だが現代の書き手はそれを真理だと捉えて物語を創る。ここに、ファンタジーの堕落がある。

 例えば、生まれ変わりは真理である、という言葉を信じた作者が、生まれ変わりの物語を書いたとして、それが本来のファンタジックな力を持つかどうかは、作者がどこまで生まれ変わりについての真理を理解しているかにかかっている。残念なことに、現代におけるファンタジー小説においては、生まれ変わりという事象そのものだけが使われているだけであり、生まれ変わりという概念が持っている本来的な意味合いはほとんど無視されている。仮に、生まれ変わりについてあまり深く書いてしまうと宗教になってしまう、と反論があるならば、それは生まれ変わりについての真理を理解していないだけだと答えよう。真理とは宗教や思想に左右されるものではない。本来的に真理とは、どんな宗教、どんな思想よりも崇高なものでなくてはならない。

 ファンタジーの正確な適応の問題は、いわゆるライトノベルにのみ見られる傾向ではない。文学と呼ばれるような小説においても多々見受けられる。大江健三郎、安部公房などは日本でも名高い文学者であり、その作品はファンタジーだと言える(魔術的リアリズムとも言われる)。彼等の技法は、幻想的、空想的な事柄と現実世界リアリズムの融合である。日常生活のなかでファンタジックな要素が出てくるが、登場人物たちは平然としてそれを受け入れている。この魔術的リアリズムについては、ラテン文学において、アストゥリアス、ボルヘス、マルケスなどを読めばすぐに理解できるだろう。だがここでもファンタジーの力の問題がある。これら一流の文学者作品においても、やはりファンタジーの素質である、幻想の世界をどれだけ信じ切れるか、が徹底されているかは疑問なのである。

 ファンタジーとは、決して文学でなくてもかまわない。むしろ、文学として唯物論的に研究されることには、何の意味も持たない。ファンタジー小説の目的とは、読み手に真の意味での生きる力を与えられるかどうか、それだけなのである。だからそれ以上の文学的探求は必要としない。

 だが真のファンタジー書きは本当に少ない。本当に「真の」という言葉を適応させるならば、まずファンタジー書きは幻想の世界を感じることができなければならない。つまり幻視と呼ばれる力が必須なのである。ノディエやブレイク、ノヴァーリスにはこの力があった。では、幻視の力がなければ、ファンタジーを書くことはできないのか、と問われるならば、私はNOと答える。確かに、「真の」という言葉をより正確に適応させるのであれば、もちろん幻視の力は必要である。しかし素質としてまず必要なのは幻想の世界を信じ切ることであり、これだけでも、ファンタジー小説が持つエネルギーは変わってくる。ファンタジー書きの全員が幻視者でなければならないわけではない。だがより良いファンタジーを求めるために、ファンタジーの書き手は幻想の世界を感じるための努力を怠ってはならない(この方法については、今回割愛させていただく)。

 ではこの章の最後に、小説においてファンタジーの力が、具体的にどう現れるかについて見ていく。前章では、ファンタジー要素が持つ本来の力について述べた。ここでは、ファンタジーの力を五つに分け、それらがどう小説を生かすのかについて述べる。


 ○創造の力


 まずは創りだす力について。物語を創るという言葉が示す通り、ファンタジー小説を書くことは新しい世界の創造に繋がる。だが創りだすとは、ある者の完全な自由意志のみで遂行されるものではない。むしろ、真理という法則を無視して行われる創造には何の価値もない。真の意味での創造を助ける力については後述する。ここでは、創造の力そのものが、どうファンタジー小説を息衝かせるのかについて触れる。

 何よりもファンタジー小説とは、読み手にある衝動を喚起させなければならない。そのある衝動とは、創造衝動である。優れたファンタジーは、読み手に、自分も何かを創りだしたいという抑えきれない衝動を駆りたてさせることができる。それは、作品そのものが持つ(作者によって練り込まれた)創造の力によるものである。

 これは、作者もまた、何ものかに喚起させられてファンタジーを創作したという経緯と同じである。おそらく作者は、幻想の世界そのものに創造衝動を駆りたてられた、ということになるだろう。この時作者が感じたものと同じものが、作品にも現れていなければならない。これこそが創造の力である。そして創造の力は、他のどの力よりも、幻想の世界を信じ切るという素質を必要とする。

 創造の力は、生命そのものを感じる器官により育まれる。作者は世界のどこまでを生命と捉えることができるか、生命をどこまで感じることができるか、その力が、作品に創造の力となって現れる。幻視者は、世界の至る所、あらゆる場所に生命を感じることができる。いやむしろ、世界とは生命そのものであると言えよう。その躍動感は、必ず小説のなかで美の形を取って表現される。


 ○熱力の力


 熱力はエネルギーとも呼ばれる。だがここでいうエネルギーとは、エネルギーそのものではなく、その動きや働きを指す。例えば、目の前に火があるとする。ファンタジーの力のひとつである熱力の力とは、目の前の火が持つエネルギーが、空気中にどのように伝わっていくか、を描くことに似ている。熱力とはあらゆるものの仲介者とも言える。エネルギーは世界のあらゆる場所にある。幻想の世界にも、測定できない形のある種のエネルギーが存在する。そしてこのエネルギーに乗ってあらゆるものは別の形、別の場所へと遷移するのである。

 ファンタジー小説も、この熱力を必要とする。仮にある作品が大きな創造の力を持っていたとしても、熱力の力がなければ、読み手に創造衝動を喚起させることはできないだろう。熱力の力は作品から読み手へとあらゆる力を伝えるための仲介者となる。熱力は作品と読み手の間のみに流れる力ではない。作中においても、そこに見られる遷移の全ては、この熱力に相応するものでなければならない。

 熱力の力を育むためには、作者は世界の移り変わりにより敏感にならなければならない。そして見られる全ての移り変わりを、熱力で説明できなければならない。通常人間は、個体、液体、気体であれば、その移動をある程度目視で確認することができる。だが本来見なければならないのは、その変化に伴う熱力のほうなのである。熱力を追うことで、人間は真理に一歩近付くことができる。


 ○破壊の力


 破壊の力は、創造の力と対を成すと考えられがちだが、実のところは、創造の力を助けるものと理解しなければならない。破壊なくして創造はありえないが、この両者が同じ割合で作者のなかに存在してはいけない。作者はあくまで、創造するために破壊の力があるのだと考えていなければならない。

 ファンタジーにおいて、破壊の力は、読み手に創造衝動を喚起させるために触媒的働きを担う。読破という言葉が示すように、読むという行為は、読み手の破壊行為だと言える。この際読み手が破壊するものとは作品そのものであり、その破壊行為により得られたエネルギーをもとに、創造行為を行うことになる。

 破壊の力は、人間がそもそも持っている知への好奇心を刺激する力、とも言い換えることができる。書き手は、この力の育成のために、より多くのものを日常生活のなかでも自ら破壊しなければならない。そしてそこから得たエネルギーで思考し、真理に一歩だけでも近付く努力を続けなければならない。

 ここまでで述べた、破壊、熱力、創造のプロセスは、厳密にファンタジー作品と呼ばれるものでなくても見られる。だが、ファンタジーは人間が生きるうえで最も重要な生命のエネルギーを与えられなければならない、という重要な点を忘れてはならない。人間の創造行為はあらゆる場所で行われているが、ファンタジーが喚起させるものは、決して一時的な流行としていずれ消えてしまうものへの創造衝動であってはならない。ファンタジーが喚起させるものは、より真理に近い、永遠性を持つものへの創造衝動なのである。


 ○運命の力


 運命の力も、創造の力を助けるもののひとつである。ここでいう運命とは、言い換えれば真理の形そのもの、となるだろう。創造の力の項でも述べたように、書き手は書き手自身の自由意志のみで物語を創ってはならない。ファンタジーに必要なものは真理に沿った世界の創造なのである。この力が作中にあるかどうかは、どんな読み手であってもすぐ判断することができるだろう。何か違和感を覚えるストーリー展開であれば、運命の力は作用していない。どんな結末であれ、読み手に「なるべくしてこうなった」という感想を抱かせられなければ、ファンタジーは破綻している。

 熟練したファンタジーの書き手は、プロットを練るという作業なしでどんなに長い作品でも書けるようになる(ただし、効率的な執筆進行のために、ある程度の覚書はもちろん必要であろう)。彼はプロットの代わりに、自分の目の前に巻物のように広がっている運命の力を見ることができるからである。

 運命の力は、物語に必然性と世界への畏敬を与える。この力がしっかりと流れている物語であれば、十数枚の物語であっても、読み手はそれを巨大なもののように感じるだろう。

 書き手が運命の力を育むためには、何よりも書き手自身が運命の力を世界に感じなければならない。物事に対して偶然という言葉を使ってはならない。起こり得ること全てが必然なのだと考えるようにしなければならない。その作業を繰り返していれば、ある時彼は自らの内から沸き起こる世界への従順な気持ち、創造衝動を支える大きな力を獲得することができるだろう。


 ○自由の力


 自由の力は、運命の力と対を成すものだと考えられがちだが、このふたつは全く切り離して捉えなければならない。この力もまた、創造の力を助けるもののひとつであるが、その際に運命の力とお互いを補完し合うものだと言える。

 創造の力の項で述べたように、ファンタジー小説を創るということは、新しい世界の創造なのである。だが、これまでの項で述べた通りのやり方で、仮に純粋に運命の力にのみ従って物語を創ったとしても、それはただ現存する世界のただの模倣に過ぎない。いわば、模写である。確かに、ファンタジーの創造という行為はそこから始まる。だがこの行為の最終目標は、人間による新しい世界の創造なのである。このためには、書き手はただ運命に従うやり方ではなく、運命の力を適応させた、現存するものとは異なる世界を自分で生み出さねばならない。ここで必要となるのが、自由の力なのである。この力によって、物語は独自性のある面白さを獲得する。

 この力は本来誰もが当然のように持っている。ある意味、これ以上育む必要性もない。だがその力を統御できる者は少ない。自由の力があるからこそ、人間は次々と物語を生みだすことができるが、同時に空想という実のないものを創ってしまう原因でもある。この力を正確に使うためには、まず何よりもその脆弱さを自覚しなければならない。そして他の諸力を十分身に付けた上で、厳格に使用することにより、自由の力は物語に独自性を与える。

 人間はそもそも、自らの経験や知識に基づいたものしか想像することができない。この特性が自由の力を曇らせている。本来自由の力とは、偏見や固定観念に打ち勝つためのものであるが、そのためには、思考力や感覚力を鍛えなければならない。そして自由の力の本当の獲得は、幻視の力への一歩でもある。


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