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第一章 ファンタジーとは何か

 ファンタジーという言葉は幻想と訳されるべきものであるが、この言葉を多くの日本人は、空想的という意味合いで捉えている。つまり、人間の頭のなかのみで考えられたものであり、決して現実に即すものではない、と考えている。そして現に、日本のファンタジー書きが書く多くの物語は、単なる空想話であり、現実の世界に持ち込むことができない。日本のファンタジーが空想である限り、その物語の中身は空――からっぽ――なのだ。言い換えれば、実がない、とも言えよう。私は決して日本のライトノベルを卑下したりはしない。しかしライトノベルが空想的である以上、それは実のない話にすぎないのだ。実のない空想だからこそライトノベルという呼び名なのだと反論するファンタジー書きはいないと信じる。仮にこう言う者がいるのであれば、読者にとっても、また自分自身にとっても、書く意味合いそのものがなくなってしまう。

 ファンタジーとは、あくまで幻想であるべきものなのだ。だがこの訳では、まだファンタジーの本質を正しく理解することはできないだろう。幻を想う、と書かれている以上、この言葉もまた、空想的なものへと繋げられてしまうことも否めない。事実、幻想物語と呼ばれる古今東西の物語は、人の想像であり、または神話をモティーフにされたものであり、決して読者は、幻想物語の中身を現実に即して読んだりはしないだろう。幻想とは、その性質上、読み手をそういった方向に誘ってしまう。これは幻想そのものが持つ葛藤と言えるだろう。

 私はここで、ファンタジー、つまり幻想が、単なる空想ではなく、事実に基づいたものであることを説明しなければならない。幻想の性質を正しく理解する者であれば、その葛藤を昇華することもできるだろう。

 空想が実のないものを想うのに対し、幻想は幻を想う。誤解してはならないのが、ここでいう幻とは、決して空想的なものではなく、我々が五感で感じる現実と同じように、世界に存在しているものであるということである。だがひとつの問題がある。幻想という言葉が示す「幻」は、文字通り、五感で感じることができないものなのだ。だからこそ「幻」と表現される。だがそれが本当に実在しないものだと思ってはならない。幻想とは昔、優れた幻視者達によって知覚され得た、真実に基づく世界、プラトン哲学が言うところのイデアに他ならない。我々はここで、五感で捉えられないものは存在しないと早合点してはならない。五感でのみ世界を語るのは、生まれつき視力のない者が、光という概念抜きで世界を描写することと同じである。第六感という言葉が存在するのは正しい。人間には五感以外の確かな感覚が存在するのである。そしてその感覚は、通常の生活では全く感じることができないものを捉えることができる。だからこそ、五感のみで生きている者にとって、この真実の世界は「幻」なのである。繰り返すが、「幻」という言葉は、存在していないことを示すものではなく、知覚できないことを示すものなのだ。

 その知覚できないものは、人類の歴史の初期には神話という形で表現された。神話の世界を深く観察するならば、そこに世界の真理とでも呼べるものが存在していることに気が付くだろう。そして少し時代が下ると、人類は神話をモティーフにして物語を創るようになった。その時代には、人間にとってそれら幻想、つまりファンタジーが必要であった。なぜならば、ファンタジー、幻想とは、人間が生きるうえでなくてはならないエネルギーそのものであったからだ。

 しかしさらに時代が下り、人間の頭脳は科学を成長させた。科学は幻想に代わるエネルギーを人間に提供するようになり、幻想は廃れ、現代のファンタジー書きのほとんどは、自らの書くものに、エネルギーを持たせていない。なぜなら、ファンタジーからエネルギーを得る必要性を、人間そのものが感じていないからである。

 だが我々は、そう、ファンタジーを書く者は、ここで今一度根本的な問題に立ち返り、考えてみなければならない。人間に、人類に、ファンタジーがそもそも持っていたエネルギーは果たして本当に不必要となってしまったのであろうかと。

 私はこの問いに、NOと答える。ファンタジー、幻想とは、その文字が語る通り、幻であり、同時に想いでもある。想いとは心である。心が必要とするエネルギーこそ、かつてファンタジーが持っていた力なのだ。仮に、本当にファンタジーの持つエネルギーが全く人間に不必要であるとするならば、科学の力はもっと効果的に人間のなかから精神疾患を駆逐することができているはずである。だが現に、現代科学の力、つまり抗精神病薬と呼ばれるもののみで精神病を完治させられることはまずないと見て良い。薬のみで精神病が治るのであれば、カウンセラーという職業や心理学という学問が生まれることはなかっただろう。人間は科学がここまで発達してきた時代においても――いや、こういう時代だからこそと言うべきか――、ファンタジーがかつて持っていたエネルギー、真理そのものが人間に与える無限のエネルギーを必要としているのである。そしてそれは、決して科学で代用できるものではない。人類は傾向として、その根本的事実を忘れて現代を生きている。それは、ファンタジーを書く多くの者も例外ではない。

 ファンタジーというものを、多くの者はあらゆるジャンル、分類のうちのひとつとして捉えている。だがそれは、ファンタジーの本来的な意味合いを考えると正しくない。ファンタジーとは分類ではなく、いわば技法としたほうが正確であろう。本来的に、芸術とは全てファンタジーを含有しているべきものである。なぜなら芸術とは、まさしく人間の心の部分にエネルギーを与えるものであるからだ。それも限りなく、永遠に。それが可能かどうかは、その作品がファンタジーという技法を持ってして創られているか、作者の力量としてファンタジーを使えているかどうか、にかかっている。決してファンタジーとは、作品の雰囲気や世界観のみを語る言葉ではないのだ。

 では具体的に、ファンタジーと呼ばれる作品に見られる、言わばファンタジー要素とでも呼ぶべきものについて、少し詳しく触れていこうと思う。ここで取り上げる事柄には、出来る限り日本のライトノベルと呼ばれる小説で良く見られるものを選ぶことにする。それは、日本のファンタジー書きが用いているファンタジー要素、しかし人間が本来的に求める心のエネルギーを持ってはいないものに、エネルギーの可能性を見出すという作業を行いたいからである。


 ○異世界


 ファンタジーを空想的に捉えている者ほど、異世界という概念を好んで用いる傾向があるのかもしれない。しかしもちろん、異世界概念が悪いと言うのではない。トールキンの指輪物語やグウィンのゲド戦記も異世界の話であるが、特にゲド戦記は、より幻想という言葉を忠実に用いている作品であろう。ゲド戦記における異世界は、象徴的に用いられている。この物語においては、世界観のみではなく、魔法の概念も象徴的であり、生活は我々が属する世界に即している。つまり、ゲド戦記における異世界――アースシーと呼ばれている――は、単なる空想という羽を自由に羽ばたかせるための土台ではなく、真理そのものが作者というフィルターを通り描かれた世界と言えるだろう。日本のファンタジー書き――アマ作家のみではない。プロ作家であっても――は、現実に即した書き方から逃れるために異世界を用意する。現実世界から異世界へと移動してしまった登場人物を中心に書く場合、異世界の出来事は現実世界にも影響を与えなければならない。そしてこの場合の異世界とは、現実世界よりも精巧に創られた、真実により近いものでなくてはならない。

 また、異世界の可能性としては、死後の世界もあるだろう。ダンテの神曲において、主人公は地獄、煉獄、天国を巡る。正確に述べるならば、これらを異世界とするのは間違っている。だがここで、異世界という言葉の定義そのものを変えるのであれば、問題は解決する。そしてこの定義の変換こそが、異世界概念にエネルギーの可能性を見出す作業となるであろう。

 これまで私は、異世界という言葉を、現実世界とは異なる次元の世界、という意味合いで用いてきた。次元が違うのであるから、そこにはある意味無限の可能性がある。だが注意しなければならない。形に多様な可能性があるとしても、真理そのものはたったひとつしかないということに。この真理を正しく捉えられなければ、異世界は瞬時に空想の産物となり、実を持たない空の存在となる。

 私がここで、異世界という言葉に与える新しい定義は、次の通りである。前述した、五感では感じられない、しかし確かに存在している世界。このいわゆる幻想の世界は、感じられないだけで、我々が属する現実世界と同質のものである。ダンテの描いた地獄、煉獄、天国は、決して現実世界とは次元の異なる場所にあるものではない。現実世界に即した、新しい世界の可能性に他ならない。

 この新しい定義のもとでなら、異世界はファンタジーが本来的に持つエネルギーを展開していくことができるだろう。ダンテが描いた地獄に始まる異世界は、真理の比喩的表現空間(ここで比喩的という言葉を使うのは正確ではないのであるが)だと言える。ゲド戦記におけるアースシーは、真理が象徴的に表現されている現実空間だと言える。これらは決して、ただの空想世界ではない。読み手もまた、自らの心のうちに、展開されている幻想世界をエネルギーの源泉として思い描くことができる。ファンタジーそのものがそうであるように、異世界とはエネルギーの供給源なのだ。


 ○人間と同質あるいはそれ以上の生命(人外)


 古来よりこれらの生命は数多く人間によって想像されてきた。神話における神々から始まり、巨人、妖精、小人、様々な怪物たち、天使や悪魔、吸血鬼、竜、日本ならば妖怪など。これらはもともと、世界の一部を象徴的に表したものであった。異世界が世界そのもの(全体)であるならば、人外は世界の部分的要素であると言えるだろう。しかし現代のファンタジー書きの多くは、これらの要素をあまりにも表面的にしか用いていない。物語の構成として、もしくは物語の色付け程の意味合いしか持っていない。

 巨人、妖精、小人、これらの存在を広く普及させ、ファンタジー分野の土台を作り上げたトールキンの業績は、ある意味、これらの存在の低俗化であったとも言えるだろう。しかしこれは、トールキンに非があるのではなく、それを受け取る側の問題である。異世界の概念が現実に即していたように、人外もまた現実そのものでなくてはならないが、おそらく大半のファンタジー書きにとって、人外は空想上の生き物としてしか存在していない。だが真に人外要素をファンタジックにするためには、何よりも書き手が強固にそれらの存在を信じ切り、それらと対話ができなければならない。それらの発する声を聞き、それらが自分の目の前に存在することの意味を深く考えなければならない。

 人外の概念をより良く使用するための基礎訓練は、それらに関する辞書を自らで作成することであろう。たとえば巨人という概念に関して、まず巨人が関与するエピソードを取り上げる。次にそれらの生態を考える。そして忘れてはならないのが、それらが世界において果たしている役割や意味合いを考えることである。これを繰り返すことで、ファンタジー書きそれぞれが抱くファンタジー世界は、圧倒的に現実味と豊かな色彩を帯びてくる。だが注意しなければならいのは、これらを考える時、決して空想してはいけないということである。深い自然の洞察から考えられること、推測されることのみを記していかなければならない。この訓練法は、忍耐強く続けることで、いずれ異世界概念そのものにも繋がっていく。部分を創り続けることで全体を見渡せるようになっていくのである。

 異世界概念よりも人外概念のほうが、創り手にとっては容易にファンタジー要素として用いることができるだろう。異世界がエネルギーの供給源であったのに対し、人外はそのエネルギーを擬人化したものだと言える。人外もやはり、描かれる上で真理の比喩的表現、もしくは真理の象徴的表現であらねばならないが、そのやり方は世界そのものを描くよりも容易である。

 だが人外を描く者は、常にそれらと人間との関係性を意識しなければならない。巨人は人間にとって何なのか、天使や悪魔は本来的に人間に何を与えるものなのか、それらの関係性のうえにしかこの概念は活かされない。それはつまり、人間が登場しないファンタジーは本来的にありえないということだ。

 それぞれの人外にどのような真理的意味合いを持たせるかは、完全に書き手に委ねられるだろう。ある書き手とまた別の書き手で、巨人が持つ意味合いが違うことは問題ではない。ただし、そこから読み取れるものは必ず真理でなければならない。これは、日本神話とギリシャ神話において、太陽神の性別が異なるという例を挙げれば納得できるであろう。

 人外概念において注意しなければならないことのひとつは、宗教的観点を真理と間違えてはいけないということである。宗教的意味合いもまた、比喩や象徴されたひとつの形であり、我々はその奥に真理を見つける作業をしなければならない。


 ○魔法


 魔法はしばしば、科学と対立するものとして描かれる。科学が物理法則等に従うのに対し、魔法はそれらの影響下を越えて存在するものとされる。この扱われ方は確かに間違ってはいない。そしてファンタジー要素のなかでも、魔法は最も本来のファンタジックな力を持って描かれているものとも言えよう。

 異世界は、五感で感じることはできないが、確かに存在している世界そのもののことであった。そして人外は幻想のエネルギーを擬人化したものであった。魔法は、幻想のエネルギーそのものであり、またその動きと言えるだろう。書き手の意識、無意識を問わず、魔法はある程度本来的な描かれ方をする。特定のルールを持って描かれていればなお良い。ファンタジーの世界には特別な力が流れているということは、ファンタジー書きであれば誰でも認識している。そしてそれに、物理法則に代わるような法則を見出すことができた者は、より現実的に魔法を描くことができる。

 魔法のルールとは、真理に他ならない。魔法を描く上で気を付けなければならないのは、このルールを書き手の都合で決めてはいけないということである。異世界や人外がそうであったように、魔法もまた、空想によるものではいけないのだ。

 ファンタジーにおける魔法のあり方は、多種多様である。だが現代になるにつれ、魔法のあり方はより人間にとって内面的なものになってきたように思う。たとえばゲド戦記では、魔法は言葉の力そのものであり、言葉と魔法の繋げ方は、どこか現代科学のあり方に通じるところがある。だがハリー・ポッターになると、内面の――精神性と言ったほうがよいか――働きが魔法を生み出す。これは自己と世界の合一と見ることもでき、より本来的な魔法と言えるだろう。だがこの方法の場合、自己と同一する世界の側に難題がある。ここで自己が合一する世界とは、もちろん我々が属する現実世界ではなく、幻想の世界である。つまり、幻想の世界をより理解する者ほど、魔法を正確に描写できる。魔法を描くのに重要なことは、魔法の結果ではなく、経過である。なぜそのような結果をもたらすことができたのか、その部分次第で魔法の生き死にが決まる。


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