序 日本のファンタジー書きへ
日本のファンタジー書きの方々、私はあなた達の作品に不満があることを先に述べさせてもらいます。この、私の抱く不満に対して誤解が生まれないよう、次の三点を付け加えておきます。まず、私の不満は、ファンタジー書きの方々の、いわゆる文章技術にあるのではない、ということ。ふたつ目に、決して、いわゆるライトノベルと呼ばれる作品群をけなしているわけではない、ということ。そして最後に、私自身もまた、ファンタジー書きであり、今から私が長々と書く事柄を、私自身の作品が完全にクリアしているとは言わない、ということです。
そもそも、日本はファンタジー先進国ではありません。海外のファンタジー勢力に比べると、日本のファンタジーレベルは圧倒的に劣っている(もちろん全てとは言いません。全体としてその傾向がある、というぐらいに捉えていただきたく思います)と言わざるをえません。
では、日本人が書くファンタジーは何がいけないのか、私は一体、日本のファンタジー書きの何に不満を感じているのか、その点について、少し詳しく述べようと思います。
現在、日本人が書くファンタジーのほとんどは、書き手の意識、無意識に関わらず、イギリスの偉大なファンタジー作家であるトールキンの影響下にあると言えるでしょう。さらに言いますと、その源流であるケルト神話、ギリシャ神話、ゲルマン神話、それら西洋の神話群の流れの最下流のほうに位置しております。これら神話群は確かに魅力的であり、私もまた、自分の作品にそれらのモティーフを取り入れることが少なからずあります。しかしここに、まさにこの点に、私の不満と、そしてファンタジー本来の意味合いから外れてしまい、全くもってファンタジーの力を失ったファンタジー作品群が、日本に溢れていることの原因があると考えるのです。
ファンタジー書きとしての素質は、ただひとつに尽きると思います。それは決して文章技術や崇高な思想や哲学ではありません。それはある意味、誰にも可能な、本当に単純なことであり、しかし、現代日本においては実に困難なことであると言えるかもしれません。ファンタジー書きとしての素質、それは、ただ純粋に信じることです。フランス幻想文学の生みの親であるシャルル・ノディエは、その作品「青靴下のジャン=フランソワ」のなかでこう述べています。
すぐれた幻想物語を書く第一の根本的な条件は、それを堅固に信じることである。(中略)記憶のなかのごくありふれた事柄や、日々の生活の些細なことに対するのと同じように、幻想物語にも誠実な信頼を寄せることができないのであれば、私は決して、そんな物語を書きはしない。
自分が書こうとしているファンタジーの世界を、自分の五感で捉えることができる現実世界と同じくらいの、いや、むしろそれ以上の現実味を持って、作者自身が感じられなければいけません。しかしこれは、前述したように実に単純な素質でありながら、現代日本においては実に困難なことでありましょう。
日本人というのは特定の信仰を持たれている方が少ない。八百万の神という素敵なファンタジー要素を身近に持っておきながら、今やそれら神々を心の底から信じている方が、一体どれだけいらっしゃるでしょうか。そして日本は自然科学分野において、世界トップクラスに位置しております。自然科学的見地(しかしながら、本来の科学の意味合いを正しく理解されている方というのも、どれだけいらっしゃるでしょう。あまりにも、あまりにも現代の自然科学は唯物論的過ぎると言えます)から見た時、八百万信仰は未開の思考、低次の文化と見なされます。この背景を持つ日本の教育制度のなかで育った者であれば、当然、神々の世界を信じきることはできないでしょう。もちろん、天使や悪魔の存在も、比喩的なものとしてしか捉えることができないでしょう。
これに加えて、日本のファンタジー書きのほとんどの方は、世界観のモティーフを、西洋を中心とした神話群に求めます。自らの国の神々も信じられない者が、どうして他国の神々を信じることができるでしょう。この結果生まれる日本のファンタジーの大半は、亜流であると言わざるをえません。いわば、クッキーの型を使って作ったクッキー、を見ながら作ったクッキーなのです。ですから、日本のファンタジーは世界という舞台に立つことができないのです。
私ははっきりと言いたい。日本のファンタジー書きの方々、あなたが信じていない世界が、読み手である私に魅力的に映るはずがない、と。箱に入ったプレゼントを前にした時、心が躍るのは、なかにプレゼントが入っていることが確実であるからです。しかし私の前にあるファンタジーのほとんどは、中身が入っていないプレゼントの箱なのです。そして中身がないということを、私は作者自身から伝えられているのです。
さて、ここで、ひとつの反論が出てくることでしょう。ファンタジーとは幻想、つまり人間が想像する架空の世界であり、だからこそ自由に物語が広がり、そこに面白さがあるのだ、と。しかしこの考えは、あまりにも唯物論的であり、作者のこの考えこそが、ファンタジーというものを低俗なものにしているということを、述べさせていただきます。
現代日本においては、ファンタジーという言葉はライトノベルや児童書に繋げられ、決して成人が好んで読むようなものではないという風潮があります。しかし、ファンタジーとは、本来人間が生きるうえでなくてはならないものなのです(これについては続く章で詳細を述べさせていただきます)。ファンタジーとは、それ自体が既に崇高なものであり、空想ではなく、何よりも世界の真実であらなければなりません。
先に引用しましたシャルル・ノディエは、優れた幻想小説作家でしたが、彼には幻視の力がありました。それは病的に見えないものが見えるというのではなく、人間が、本来誰しもが持ってはいるものの、ほとんどの者が使うことのできない五感以外の感覚によって世界を捉えることを意味します。幻視の力を持っていた作家や詩人は彼だけではありません。ブレイク、イェーツ、リルケ、ノヴァーリス、ゲーテ、まだまだたくさん挙げることができるでしょう。そしてこの力を持つ者にとって、神話の世界は現実と同意であり、天使や悪魔は比喩以上の存在だったのです。
彼等幻視者によって書かれたファンタジーは、決して低俗という扱いを受けていません。それらは文学であり、芸術として称賛されています。そう、ファンタジーとは、芸術という花の、見事な種なのです。
ここでもうひとつ、反論が出るかもしれません。自分は芸術を書きたいわけじゃない。誰もが気軽に読めて楽しめるような、いわゆるライトなファンタジーが書きたいのだ。読み手もファンタジーに対してそんな崇高なものを求めてはいない。むしろ、それが完全な作り話だからこそ、暇つぶしに読もうかという気になるのだ、と。これに対して私は、なぜファンタジーが芸術的であらねばならないかを述べなければならないでしょう。しかしそれは、ここから続く、この少しばかり長い話の最後に触れさせてもらおうかと考えています。ただし、ひとつだけここで私が述べなければならないのは、誰しもが、ファンタジーというものを芸術的なものとして創ることができる、ということです。