#01 ENCOUNTER
この作品には、残酷な描写と多数のパロディネタが含まれます。
それが苦手な方はご注意してお読みください。
深夜、男は闇が支配する街を走っていた。
一心不乱に前へ。とにかく前へ。
もうこれは日課のジョギングとは違う。背後から迫る「何か」から逃れるため、ただ交互に右足と左足を出しているだけに過ぎない。
「何だよ……何なんだ、アレはよあああぁぁぁぁぁっ……!」
男は絶叫する。つい数分前に目にした惨状と恐怖を払拭するために。
人が死んでいた。会ったこともない赤の他人だった。
路地が鮮血で真っ赤に染まり、その身体にはあるべきはずの頭部は鬼の形相のまま血の海に浮かんでいた。
だがそんな壮絶な死体よりも男の心を恐怖で支配したのは、傍らに立っている黒髪の少女。
セーラー服は返り血で染まり、右手には炎に包まれた日本刀を携え、左手で転がっている女の生首を掴むと、まだ滴り続ける赤い液体を口元に流し込む。
その姿はまるで映画の中の吸血鬼のようにおぞましく、また淫靡さすら感じさせた。
それにしてもこれは本当に現実なのか。頭が真っ白になった男がそう疑い、何度も頭を横に振る。
そしてほんの一瞬、少女と目が合った。
少女の瞳は獲物を見つけた狩猟者のように輝き、男を捉える。
男は直感した。この少女は自分を殺す。自分は今、決して会ってはならないモノと出会ってしまったのだ、と。
本能的に男は駆け出していた。
汗と涙と吐瀉物を撒き散らしながら、どれだけ惨めであろうと、みすぼらしかろうと、とにかく逃げて逃げて逃げ続けた。
途中、何度も立ち止まり振り返りそうになりながらも必死に思い止めては、どれだけ息が切れようとも全速力で走り続けた。
だが、いくら毎晩のジョギングで鍛えた健脚といえ、いつかは体力と両足が限界を迎える。
パニック状態にある今の彼にはそれこそ火事場の何とやらが備わっていたかもしれないが、その分不効率な走り方は体力の消耗と足の負担を加速させてしまった。
ついに男の足は急激な痛みを訴え、男はその場に倒れこむ。
どれくらい走ったんだ? 流石にこれくらい走ればあの少女を撒けただろう。そうだ、少し休もう。息が整ったら警察に電話だ。それから、それから……
「あれぇ? もう鬼ごっこは終わり?」
後ろからの声に男の心臓が飛び上がる。
そして声の主を確認し、ガタガタと体中が震え上がるのを感じた。
そんな馬鹿な! 男の全速力だぞ! 追いつかれるはずがない。たとえ追いついたとしても、どうして息すら切らさずそこにいるんだ!
「でも、もうそんな足じゃ逃げられないよね。ざんねーん」
足がどうしたって? 足ならあるじゃないか、今俺の目の前に靴の底を見せて……
「……!?」
そこでようやく男は自分に起きた異変に気がついた。
そして同時にこれまで味わったことのない激痛がすでに失われた右足を襲う。
あまりにもの痛みに、それが斬られたものなのか、その刀に纏っている炎による火傷なのかさえも判らない。
「ぎいぃやあああぁぁぁぁぁっ! 足が! 俺の足があああぁぁぁぁぁ!?」
あまりにも痛みに、男は逃げることも忘れて膝を抱える。
だがそこには何もない。ただあるはずのない足の痛みだけがある。
「おじさん、普通の人間にしてはよく逃げた方だと思うよ。だから、つい斬っちゃった。ごめんね」
と、少女が冗談めかすが、男は言い返す気力もない。
「くそっ、くそぉっ……」
だが、少しでも生き延びたい。その一心から腕だけでアスファルトを這いつくばる。
おそらく頭の片隅ではもう諦めているのかもしれない。
それでも本能が男を突き動かす。
一歩でも前へ、前へ。生きるために!
「あはははは! おじさんもしぶといねー」
そんな様を少女はまるで虫ケラでも見るように嘲笑いながら、刀を逆手に持ち、今まさに遠ざかろうともがく背中に向け刃を向ける。
「だったら、すぐに死ねるように心臓を一突きにしてあげる」
そんな死刑宣告の後、そのまま刃を男の背中に突き立てる少女。
男は「ぐえっ」と蛙のような短い悲鳴をあげ、ピクリとも動かなくなった。
まるで昆虫採集のピンで張り付けにされた男の死体を、少女は顔に笑みを浮かべながら見下ろし、刺さったままの刀を抜く。
その瞬間に傷口からゴポッと血液が溢れ出し、この場も赤い血の海へと変化させる。
そして炎を消して鞘に収めると、既に意識のない男に語りかけた。
「怨むなら、アタシと出会っちゃった自分の運のなさを怨んでよ。それじゃあね」
もちろん男に返事はない。すでに事切れているのだから。
それを確認して少女は踵を返し、再び夜の街へと消えていった。
この2人の惨殺死体が見つかったのは、それから数時間後のことであった。
フェンリルの鎖
#01『ENCOUNTER』
その日は朝の日差しで目が覚めた。
まだ眠いと訴える目を擦りながら時計を見ると、ちょうど7時を指した辺り。目覚ましが鳴るにはあと20分も余裕がある。
原因はおそらくこれだろう。と、俺は半開きになっているカーテンを全開にし、窓を開け放った。
気持ちがいいくらい快晴だ。五月晴れとは時期的にもまさしくこのこと。これでは体の方が早く起きろと命じるのも頷ける。
ただ1つだけ注文をつけるとしたら、もう少し空気を読んでいただけないだろうか。
特にゴールデンウィークの休み気分が抜け切らず、深夜までゲームをやっていた翌朝の月曜なんて、頼むからあと1時間は寝かせて欲しいものだ。
まぁ、そんなことでは確実に遅刻するのだけれど。
そうやって寝ぼけた頭で昨日の自分を怨みながら、洗いたてのカッターシャツに袖を通す。
それと同時に、頭がすっきりするのを感じた。
うん。やはり時間をかけてでもアイロンはかけておくものだ。昨日を引きずっていた自分をリセットし、新しい自分になったような気持ちになってくる。
せっかくだから今日は久々にしっかりと朝食でも作ろうか。
そう思いながら着替え終わった俺は2階の自室から1階へと降りていった。
それから諸々の身支度を整え、いざ冷蔵庫を開ける。
そこにあったのは消費期限が昨日の牛乳と、同じく賞味期限が3日程過ぎたハムと、これまた賞味期限を7日オーバーした卵が2つ。
「……うん、まだ大丈夫だよな、きっと」
牛乳は1日過ぎただけだ。まだ焦るような時間帯じゃない。
ハムは元々保存食だし防腐剤だって入っている。匂いも大丈夫そうだし問題はないはずだ。
卵に至っては生で食べられるのがこの期限までであり、火を通せばまだ食べてもいい。
なんだ、何も問題ないじゃないか。何も……
「まっ、こいつらはハムエッグにして、あとコーンフレークがあったからそれでいいか。それにしても、もう少し何かあるかと思ったんだけどなぁ」
などと呟きつつ、他にもそろそろヤバそうな食材を調理していく。
今朝のメニューはシリアルとハムエッグ、そこにレタスと玉ねぎのサラダとボイルしたウィンナー。
朝にしては少々ボリュームがあるが、俺にはちょっとした秘策があった。
ちょうどそんな時、玄関から来客を示す呼び鈴が鳴る。
「おっ、そういやもうアイツが来る時間か。ちょうどいい所に来てくれたな」
俺はニヤリとテーブルの向かい合わせの席を見る。
そこには今作ったメニューとまったく同じ朝食が用意してあった。
そう、賞味期限がほんのちょっとだけ過ぎて捨てられるのを待っていた食材達の、一生に一度の晴れ舞台。それを俺だけで楽しむのは勿体ない。そう思うだろう?
それにアイツが腹の調子が悪くなったという所をこれまで見たこともない。きっとこの子達だって、ぺろりと何事もなく平らげてくれるさ。
「おーい、カズくーん! 起きてるー!」
と、なかなか返事がないのを不思議に思ってか、玄関先から少女の声が聞こえてくる。
俺は慌てずインターフォンを取り、平静を装いながらこう返した。
「よぉ、佳歩。おはよう。今鍵開けるからちょっと待っててくれ」
それだけ言うとインターフォンを置き、玄関の鍵を開けると、元気よく1人の少女が扉を開けて入ってくる。
「おはよっ。今日はちゃんと起きれたみたいだね」
セーラー服に身を包み、栗色の髪を肩辺りまで伸ばした童顔の少女は、俺の格好を見るなりそう挨拶を交わしてくれた。
彼女は花咲佳歩。俺の家のお隣さんで昔から付き合いのある、いわゆる幼馴染みと言うか、腐れ縁のような存在だ。
こうやって俺の生存と起床を確認するのが日課であり、さっき言っていた「アイツ」でもある。
チャームポイントはなんといってもクリッとした大きな瞳だろう。
背丈はあまり大きい方ではなく最近成長も止まってしまったようだが、代わりにある一部分だけがご立派に成長しているのが小さな自慢と悩みであり、逆に伸び悩む背は大きなコンプレックスでもあるそうだ。
そのせいか、2つ3つ年下に見られるのはいつものことで、去年くらいまでは子供料金で通れたところもあるそうだ。
もっとも最近ではその胸の大きさからして小学生とは思われなくなったらしいが。
「まぁな。そういや今から朝食だけど、佳歩も食うか?」
「え、本当!? 朝ごはんは食べてきたんだけど、ちょっと物足らなくてさー」
それから最大の特徴と言えば、その食欲に尽きるだろう。
その量たるや一般的な高校男子である俺の3倍は食べる。恐らくその気なら3倍と言わず5倍、10倍は食べそうな勢いだ。
しかしそれでも佳歩からはダイエットだの、体重が増えただの泣き言を聞かないのは、単に彼女の努力の賜物なのか、それとも全ての栄養分は胸の大きな膨らみに回っているのか。
あぁ、神様。願わくは彼女のコンプレックスとは裏腹に、そのままの成長率を維持してください。
「……今、カズくん変なこと考えなかった? なんだか悪寒が走った気がするんだけど」
「いいや、まったく。天地神明に誓って。それより早く食わないと冷めちまうぞ」
「あ、そうだった! ごっはん~♪ ごっはん~♪」
奇怪な即興ソングを歌いながら佳歩はダイニングへと上機嫌で向かっていく。
ふふふ、おいしく二度目の朝食を食べた後に、「実はすべて賞味期限切れの食材でした」とドッキリのネタ晴らしをした時、一体この童顔の少女はどんな反応をするのだろうか。考えただけで少し顔がニヤけて引きつってしまう。
だが駄目だ。まだ笑うな俺。アイツは抜けているようで委員長を任されるくらいにはしっかりしているし、これだけ長い付き合いとなると些細な違いからでも何やら勘付かれるかもしれない。
平常心だ、平常心。クールになれ、クールになるんだ、坂本一貴……!
そうして朝食は始まった。
佳歩は「わー、まるでホテルの朝食みたい!」とはしゃいで、次々に目の前の料理に手を付けていく。
この程度でホテルの朝食とはかなりの過大評価だが、朝は家族の好みからいつも和食である佳歩からすれば、洋食の朝食=ホテルの朝食という方程式が成り立っているのだろう。
一方俺はネタバレを知ってしまっているせいか、恐る恐る少しずつ口にし、味を確かめながら食べ進める。
それにしても、コイツは本当においしそうに食べるな。
なんだか真実を告げるのが酷なような気がしてきたぞ。
「ん? カズくん、もう食べないの?」
と、すでにあらかた平らげてしまった佳歩が、何か物欲しげな表情でこちらを見つめる。
いや、正確には俺の皿か。確かにまだ半分くらいしか手をつけておらず、いつものペースとしては遅い方だろう。
それに警戒して何度も咀嚼してしまったためか、少し満足感も覚えつつある。
正直言うと朝だからこれくらいで十分だ。足りなければ昼食の他にカ□リーメイトでも買って腹を満たせばいい。
「あぁ、ちょっと早起きしたからって調子に乗って作り過ぎたみたいだな。……よかったら食うか?」
「うんっ!」
待ってましたと言わんばかりに、俺の食器へと手を伸ばす佳歩。
本当にコイツは食ってる時が一番幸せなんだろうな。
すまない佳歩よ、貶めようとした憐れな俺を笑ってくれ。
「悪いな、佳歩」
「ん、何が? むしろこっちがお礼を言いたいところなんだけど」
「いや、なんでもないよ。忘れてくれ」
これで一応の謝罪はしただろう。内心で胸を撫で下ろしながら、食べかけのコーンフレークにスプーンを落とす佳歩を何気なく見る。
あれ、今気づいたがこれって……
いやいやいやいやいや!
俺は一体何を考えているんだ。佳歩との仲は兄妹みたいなものじゃないか!
それを今更そんな目で見るなんて、俺は腐っている! 腐りきっている!
えぇい、卑猥な俺よ、俺の中から立ち去れ!
だけど夜にはこっそり戻って来い……って、何を馬鹿なことを考えているんだ!
絶望した! 欲望だらけのこんな俺に絶望した!
「ねぇ、そういえばさ。かんせ……」
ドキリと心臓が脈打つ。それはこれ以上先の単語を言われたら、爆発しそうになるんじゃないかというくらいで、胸を締め付けるような痛みにも似ていた。
「完成したんだってね、駅前のドーナッツショップ」
そして一気にクールダウン。そりゃあもう、遊園地とかにある氷点下40℃の世界に入った時くらいに、サァーっと汗が引くような感じで。
「そうだったな。今日の放課後にでも行くか?」
「あ、今日は委員会の会議があるから少し遅くなるけど……」
「いいよ、それくらい。どうせ暇なんだから待っといてやるよ」
「ありがとっ! できればオゴってもらえたらうれしいかなー」
「調子に乗るなっ」
そう言って俺は軽くチョップを見舞うと、佳歩は可愛げに舌を出した。その仕草は彼女の見た目も相まって、さらに幼そうな印象を与える。
そんなんだから子供に見られるんだぞ、と言ってやりたい所だが、そこまで言うと佳歩が本気で不機嫌になりかねないのでこの辺でやめておこう。
『次のニュースです。昨夜未明××県天ノ原市において、連続して2人の市民が命を落とすという残忍な事件が起こりました』
と、垂れ流しにしていたテレビのニュースから、俺達の住んでいる街での殺人事件が報道される。
それには談笑していた俺も佳歩もピタリと話し止め、食い入るようにテレビ画面に注目していた。
『亡くなったのは男性と女性の2人で、日本刀のような刃物で斬られた後に遺体を燃やされており、現在警察が身元の確認をしております。また一連の異常能力者による連続焼殺事件との関連性も示唆され……』
異常能力者。別名をストレンジャー。5年前に突如として現れ始めた、人にあらざる能力を持った人間達。
その種類は炎や雷を自在に操るもの、空を飛ぶもの、体の一部を変異させるものなど様々で、また誰もが例に漏れず超人的な身体能力を得る。
現にこの5年でスポーツ界の記録はすべてこの異常能力者によって塗り替えられ、非能力者とは別に競技すべしとの声も出ているほどだ。
『それでは次のニュースです』
気がつくと、俺はそのニュースが終わってもテレビ画面を見つめ、奥歯を強く噛み締めていた。
一体、この犯人はどんなクソ野郎なんだ。ただ斬り殺しただけじゃ飽き足らず、その遺体を燃やすなんて、どれだけ死者を冒涜するつもりだ。
やり場のない怒り拳が震え、自分でも表情が険しくなるのを感じる。
「カズくん、そろそろ出ないと学校遅れるよ?」
そう声を掛けられて、やっと我に返ってテレビから目を離す。
その方を見ると、何か心配そうな目をした佳歩がじっとこちらを見つめていた。
「あ、あぁ……。早起きしたってのに、遅刻しちゃ元も子もないな」
「うん、そうだね。あ、カズくん、おじさんとおばさんに挨拶は?」
「おっと、忘れてた。先に行っててくれ」
「いいよ、玄関で待ってるから」
そう言い残し、俺は奥の和室へと向かう。
ふすまを開けた途端、畳特有の香りが出迎える。
そこには2人の男女が仲睦まじく並んで写っている写真と、その両脇に挟むように置かれた2つの位牌が鎮座していた。
そう、この写真の2人が俺の両親。
2年半前のクリスマスイブ。結婚20周年だからと、俺と姉さんが送った旅行の飛行機が墜落し、命を落とした。
この写真も旅行先で撮ったものらしく、運よく回収できたスーツケースの中のカメラに残されていたものだ。
墜落は海の上だったこともあり、遺体はまだ見つかっていない。
むしろ遺留品があっただけでも俺達は幸せな方だろう。それほどに痛ましい事件だったのだから。
「じゃあ行ってくるよ、父さん、母さん」
遺影に手を合わせ、いつもと変わらず微笑む2人に、息子もいつもと変わりないことを報告する。
時々今日みたいに忘れてたり、急いでいてスルーしたりすることもあるけども、これが俺の日課の1つである。
うん、佳歩が教えてくれたおかげで少し落ち着けた。そうでなければモヤモヤした気分のまま今日を過ごしていたところだ。
幼馴染みに感謝しつつ、俺は和室を後にして玄関へと向かう。
「わりぃ、待たせたな」。
「いいって、いいって。じゃあ行きますか」
「おう」
と、靴を履き家から出ようとした時だった。
突然、俺は悪寒に襲われその場に凍りつく。
「どしたの、カズくん?」
佳歩が心配そうにこちらを見つめる。
あぁ、コイツは間違いない。この感覚は……
「佳歩、やっぱり先に行っててくれ」
「え、なんで? なんだか顔色も悪いし、大丈夫……?」
「ちょっと忘れ物を思い出した。すぐ追いつくと思うから」
いいから早く行け! もうアイツがすぐそこまで迫ってきてるんだぞ!
内心俺は焦りながら佳歩の背中を押し、少し追い出すような形で玄関の外へと押し出す。
「わかった、わかったから。じゃあ先に行ってるよ。ちゃんと遅刻せず来てよね」
「あぁ、無論だ。じゃ、後で」
言い終わるか終わらないかの内に扉を閉め、俺は後ろに向き直る。
さぁ、待たせたな。早速始めようじゃないか。
俺とお前、どっちが速いか……命を賭けた、勝負ってやつを――!
土足のまま廊下に駆け上がった俺は、一目散にある一点を目指す。
そこはこの家の中で最も好んで近づかない、言わば不浄の場所。
またの名をウォータークローゼット……つまりトイレである。
「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!」
何がいけなかったんだ。卵か? ハムか? 牛乳か? それとも萎れかけたレタスか?
というか、俺より食ったはずの佳歩はなんであんなにピンピンとしてるんだよ!?
洋式の便座に腰掛け、真っ白に燃え尽きたボクサーのような状態で、己の愚かさを恨む。
きっと幼馴染みをちょっとした罠にかけようとか思った、そんな浅ましさが一番いけなかったのだ。
それと今度から食材の賞味期限は守ろう。というか、牛乳なんて消費期限じゃないか。
賞味はおいしく食べられる期限。消費はそれまでに食べきらないといけない期限。こんな豆知識、今の時代小学生でも知っているというのに……
起こしにきてくれた佳歩の手前、学校に遅れる訳にはいかない。俺はトイレから出ると薬箱に入っていた整腸薬やら下痢止めの薬を飲むと、急いで彼女の背中を追いかけることにした。
※ ※ ※
結局どうにかこうにか学校には遅れずにすんだ。
途中で何度もヤツが真後ろまで迫ってきたが、滑り込みで補給ポイントに駆け込めたため、なんとかこの席に落ち着けているのが現状である。
「よぉ、一貴。聞いたか?」
と、俺の登校を確認して、髪を茶色に染めピアスをつけた、いわゆる健康優良不良少年が1人近寄ってくる。
「何をだ?」
「転校生だよ、てんこーせー。俺らのクラスに来るらしいぜ。それも女だって話だ」
「相変わらず賢治は、こういう話題だと耳が早いな」
「何言ってんの、お前が遅すぎるんだって。もう2年の間じゃこの話題で持ちきりだぜ」
このいかにも悪友Aといった印象の男は後藤賢治。通称ゴトケン。もっともあまりそう呼ぶ人はおらず、自称のあだ名だ。
おそらく俺の知っている中では、天ノ原高等学校2年随一の情報通である。
賢治とは中学1年からたまたまクラスが同じで、中学3年の頃にそれに気づいて話すようになったという、長いような短いようなよくわからない付き合いだ。
「そういや、一貴の後ろの席空いてるし、そこに座るんじゃねぇか? こいつぅ、漫画の主人公ポジションじゃねぇか、このこのぉ」
そう言いながら肘で肩の辺りを小突く賢治。
ぶっちゃけ少し鬱陶しい。
「別に。たまたまだろ、こんなの」
「一貴ぃ……テメェってヤツは!」
今度は後ろに回りチョークスリーパー。
もう鬱陶しいを通り越して暑苦しいし邪魔だ。
「あぁ、もう! 離れろ、賢治! 男に抱きつかれたくない!」
「だったらこの席を俺に譲れ! 今だ! 今すぐにだ!」
「おーい、坂本、後藤。何を暴れてる。ホームルームはじめるぞ」
と、そんな時だ。救いの女帝……もとい女神、担任の都築教諭の声が耳に届く。
時計を見ればまだホームルームが始まるような時間ではない。
なるほど、どうやら賢治の情報は本当だったらしい。こんな時間に始めるということだから、何やら時間がかかりそうなこと……つまりは転校生の紹介があるのだろう。
その証拠に周りの教室からはまだざわめきのような声が聞こえていた。
「さぁて、みんなも噂で聞いたと思うが、今日から転校生が来るぞ。早速紹介したいところだが、ちょっと待ってろ」
と、都築教諭は教室の扉をガラッと開ける。
それから息を大きく吸い込み……
「テメェら! さっさと自分の教室に戻りやがれ! 成績落とすぞ、ゴラァ!」
とても教師どころか女性とも思えないドスの聞いた声で、転校生に群がっていたのであろう別クラスの生徒達を一喝した。
「こ、怖ぇ……」
しんと静まり返った室内で、賢治がぼそりと全員の気持ちを代弁する。
この都築春菜という教師は名前の可憐さとは打って変わり、昔はレディースの頭という異色の経歴の持ち主だ。
まぁ、何故彼女が教師になったかという3年B組金○先生的エピソードについてはまた機会がある時に語るとして、その都築教諭が蜘蛛の子を散らした後、1人の女子がその後ろについて教室内へと入ってくる。
それと同時に誰ともなく「おっ」と反応し、それが機転となってにわかにクラス内がざわつき始める。
まぁそれも無理もない。女子の転校生だとは聞いていたが、誰もここまでの逸材が来るとは思っていなかっただろう。
ポニーテールの要領でまとめた黒髪は腰の高さまで伸び、すらっとした長い手足と、不必要に細すぎない腰回り。
胸の辺りは少し寂しいが、全体のバランスを考えればむしろそれが正解と言わんばかりのモデル体型であった。
そして誰もがぱっと目を奪われたのはその容姿だろう。この学年でもおそらくはトップクラスの花咲佳歩とは対照的に、落ち着いた大人の女性を思わせるような雰囲気。
いや、見た目より幼く見られる佳歩と比較するまでもなく、同年代の女子と比べて遥かに大人びている。クールビューティーとの称号がこれほどしっくりくる高校生というのもそうそうはいないはずだ。
「おい、静かにしろ男子ー。それじゃ穂群川、自己紹介な」
「あ、はい」
都築教諭に促され、チョークを手に黒板へ自分の名前を書く転校生。
その姿を見て、彼女の立ち姿の綺麗さに驚かされる。
背筋がぴんと伸びて、まったくブレがない。着物を着せればかなり似合うだろうと思わずにはいられない。
ところで佳歩さんや、どうして何か頬張ったままこちらを見ているのでしょうか?
ははん、まさか都築教諭にバレないようにパンか何かでも食べてるんだな。朝にあれだけ食べたのに、まったく仕方のないヤツめ。
「……穂群川アリスです。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、控え目な挨拶をする転校生改め穂群川さん。
その声は小さく周りの喧騒に押されがちで、どこかこの異様な状況に緊張しているようでもあった。
「じゃあ穂群川の席は……おめでとう、坂本。お前の後ろだ」
あ、やっぱりですか。あぁ、なんだか周りからの視線が急に痛くなってきたのは気のせいでしょうか。
『うらやましいぜ……』
『くそっ、幼馴染みだけじゃ足りないってのかよ……』
『坂本爆発しろ……』
どうやら気のせいじゃないみたい。助けてドラ○もーん!
「さてと、まだ時間はあることだ。何か穂群川に質問あるヤツ」
「はい! はい! はーい!」
真っ先に手を挙げ主張したのは言うまでもなく賢治であった。
片手にはペン。もう片手にメモ帳と、一昔前の新聞記者を思わせるようなスタイルで、いつの間にやら最前列で待ち構えている。
「じゃあ後藤……」
「よしっ」
「以外のヤツいないかー?」
「ちょ、都築先生、それはないッスよー!」
どっと、クラス内が笑いに包まれる。
なるほど、今のは穂群川さんをリラックスさせるために都築教諭と賢治が仕組んだ即興のコントか。
その証拠に穂群川さんも笑って……
「あ、あれ?」
いなかった。
まったく、これっぽちも、クスリともしていなかった。
そりゃあ賢治が素っ頓狂な声をあげてしまうのも無理はないことだ。
これは中々の強敵だぞ。さぁ賢治、どう立ち向かう?
「あー、えー、そうだな。穂群川、何か趣味とかないか?」
そこに空気が凍りついたのを気にしてか、都築教諭が助け舟を出す。
「ありません」
だが即効シャットアウト。
こりゃあクールビューティーならぬ、アイスビューティーだったか。
「あ、じゃあ前の学校ではどこの部活だったの?」
今度は賢治が氷の美少女へと挑みかかる。
「部活動はやっていませんでした」
「じゃ、じゃあ好きなテレビ番組とかは?」
「ニュース番組以外見ません」
「そ、それじゃあ前の学校でのあだ名とか?」
「特にありません」
「家族構成とかどうよ?」
「答える必要はありますか?」
「す、スリーサイズは……」
「答えたくありません」
「えーと、えーと……」
賢治、もういい! お前の勇気と努力はわかった。だからもう帰って来い。見ているこっちが切なくなってくる……
「あの、もうよろしいですか?」
「あっ……はい……どうぞお席にお戻りください」
意気消沈し、思わず敬語になった賢治が肩を落としながら自分の席に帰ってくる。
可哀相に。おそらく今の時間は「魔の数分間」として彼の人生に、非常に大きなトラウマとなって永遠に残り続けるだろう。
って、他人事にしている場合じゃなかった!
この質問者殺しのアイスビューティーは俺の真後ろの席に座るんじゃないか!
丸っきり無視するって訳にもいかないし、かと言って無理して話しかければ賢治の二の舞だ。
何故だろう、さっきまで嫉妬と羨望で針のむしろにされていたはずなのに、今は同情と憐みしか感じないぞ。
『可哀相に……』
『大丈夫かな、坂本……』
『さっきは爆発しろとか、正直スマンかった』
うわあぁぁぁん! やっぱり助けてよ、ドラ○もーん!
そう考えている間にも穂群川アリスは一歩一歩近づいてくる。
さっきまでザワザワと続いていた喧騒はここに来て、ざわ…ざわ…と、まったく別の意味でざわつき始めていた。
くそっ……何が漫画の主人公だっ……!
これではまるで人身御供っ……! スケープゴートっ……!
だが何かあるはずだっ……!
彼女と上手く付き合える、唯一の正解ルートがっ……! いわば圧倒的僥倖っ……!
顎と鼻が鋭角的になりそうな程悩む俺。そんなことは知る由もない穂群川は、颯爽と机と机の間を抜け、その真横を通り過ぎようとしていた。
流石に俺も男の子だ。ふと意識してしまい、こっそりと彼女の方に視線を向ける。
もちろんバレないよう、チラリとほんの少しだけだ。ここで気付かれたりしたら、どんな第一印象を持たれるか分かったものじゃない。
うん、この近さで見てみると更に彼女の綺麗さに驚かされる。
この場合、可愛いという言葉は逆に失礼にあたるのではないだろうかと邪推するほどに肌も白く、目元や口元もまるで人形のように整っている。
その時、俺は自分でも気付かない内に彼女に見惚れていて、こっそりと見るつもりが完全に目で追ってしまっていた。
その視線に気付いたのだろう、穂群川も俺に視線を向け、完全に目が合ってしまう。
しまった! そう思って視線を外そうとするが、一瞬で思いとどまり、頭の中で何人もの小人が緊急会議のため招集される。
ここで目を逸らした方が印象悪くないか?
だからと言ってジロジロ見るのも失礼だ。
だったら愛想笑いでもしてみるか?
それよりも何か声をかけた方がいいのでは?
ありがとう、見事に意見がバラバラだ。とても参考になったよ。
こんな時、彼女の方から話しかけてくれれば気まずくならないで済むのだが……
「よろしくね、坂本くん」
今、何が起こったんだ。
おそらく教室中が俺と同じ考えだ。
状況を整理すると、後藤賢治同級生や都築春菜教諭の質問を半ば拒否するように答えたこの氷の美少女は、坂本一貴というジロジロと嘗め回すようにガンをつけた男に、フレンドリーに微笑み返した。
時間としてはほんの2秒にも満たない時間のこと。だがそれは、このクラスにいる全員を驚かせ、そして評価を一転させるに十分な時間だった。
「うおおおぉぉぉぉぉ! ツンデレキターーーーーーー!」
「いや、違う。これはクーデレでござるよ!」
「駄目だ、2人共。全然駄目だ。今のは素直クール。つまり穂群川さんはちゃんと質問に答えていたつもりが、結果として冷たい印象になったに過ぎないんだ!」
「いいんだよ、こまけぇことは! それより坂本、お前いつフラグ立てやがった! あれか、遅刻しそうになってどっかの曲がり角で食パン加えた穂群川さんとぶつかったか! 何色だったんだ、コンチクショー!」
「そんなこと俺が訊きたい。言っておくが彼女とは初対面だ。もしかしたら通学路ですれ違った可能性は否定できないが、急いでたから誰とすれ違ったなんていちいち覚えていないっての」
あちこちから人が俺と穂群川さんを囲むように集まり、もうこれはちょっとしたお祭り騒ぎだ。というか何だこの変わり身の術は。全員忍者アカデミーでも通ったのか?
……まぁ、かく言う俺も他人のことを言えた義理ではないのだが。
「ちょっと、みんな静かにして! 隣のクラスに迷惑でしょ」
そんな中、佳歩は委員長としての責務を全うしようと奮闘するが、一度火がついた導火線は止まらない。
「あの、みなさん落ち着いて……」
終いには穂群川さんまでもが止めようとするが、それが逆に火に油を注ぐ。
「や、やべぇ……今みたいな声を、ウィスパーボイスって言うんだよな。もっかい言ってみて」
「だから、みなさん落ち着いてくださ……」
「くぅぅぅ……! 見た目だけじゃなくて声まで綺麗とは!」
「俺、このクラスになれてよかったよ。穂群川かわいいよ穂群川」
駄目だこりゃ。もうやだこのクラス。
しかし、そんなことは言っていられない。前を見れば元レディースの都築教諭が苦虫を噛み潰し、ついでに何人か殺っちゃったことのあるような目で禁煙パイポを咥えている。
これはそろそろ雷が落ちる頃だ。いや嵐が来るかもしれない。
とは言え、この騒動には俺にも責任の一端がある。穂群川さんは単に目が合った俺に律儀に挨拶をしてくれただけで、そもそも俺がスケベ心を出さなければこんなことにならずに済んだのだから。
そして俺は意を決し立ち上がり、穂群川さんの腕を握る。
「先生、穂群川さんの調子が悪いみたいなので、保健室に案内してきます」
「おー、わかった。頼むぞ坂本」
どうやら俺の意が通じたらしく、都築教諭は「早く行け」と言わんばかりに顎でくいっとサインを送る。
「何っ!? 坂本、その役目は俺が……」
と、この混乱に乗じて、取り巻きの内の1人が強引に穂群川さんの腕を掴もうと手を伸ばす。
――パシッ!
しかしその手をはたく乾いた音。
「あ、ごめん。斉藤くん。手、当たっちゃたみたい」
佳歩である。見ると右手はすべてを切り裂くエクスカリバーのごとく、指がピンと伸び手刀の構えを取っている。
ちなみにその一撃を喰らった斉藤は腕を押さえその場にうずくまっていた。
そして佳歩も「ここは私に任せて」と言わんばかりにアイコンタクトを送る。
了解だ。坂本一貴、これより状況を開始する。
「さ、行こう、穂群川さん」
「え、えぇと……」
流石に具合も悪くないのに保健室に行くことには抵抗があるのか、どこか困惑した様子で周りをキョロキョロと見る穂群川さん。
「いけない、心拍数が下がって体温も低い。これは急がないと」
「は、はい?」
「くっ、意識も朦朧としてきたみたいだ。これじゃ歩くのは無理そうだ」
「あ、あの……きゃっ!」
何か言いかけようとする穂群川さんを勢いだけの三文芝居で制し、お姫様抱っこの要領で抱きかかえる。
やっぱり思った以上に軽い。それに体の線も細くて強く抱くと折れてしまいそうだ。
あと髪の手入れにもかなり気を使っているのだろう。こんなに長い髪なのに痛んだ様子は見られず、それからいい匂いもする……
おっと役得に浸っている場合ではなかった。早くここから脱出し、この場を2人に収めてもらわねば。
「それじゃあ行くよ、穂群川さん。しっかり捕まってて」
「あ、はい……」
穂群川さんが俺の肩に手を回し、更に2人の距離が密着する。
あぁ、俺生きていられるかな……
「佳歩、今日は夕飯にステーキとパインサラダ作ってやるからな」
「それ死亡フラグだよー!」
そして怯えた目でこちらを見る穂群川さんを抱えて、俺は一目散に走り出した。
※ ※ ※
「はぁ……はぁ……ここまで来れば、とりあえず大丈夫だろう」
穂群川さんをお姫様抱っこした俺は、保健室には行かず渡り廊下の先の旧校舎へと向かった。
ここには机や椅子を保管してあるだけの使われていない教室がいくつかある。
その中の1つの部屋に入り穂群川さんを降ろすと、一息つくため椅子に腰掛けた。
「あの……保健室に行くのでは?」
と、どこか怯えた様子で穂群川さんがそう尋ねる。
それもそうだ。いきなり会って間もない男子に誰もいない部屋に連れ込まれるのだ。どう考えても怪しい状況である。
なるべく彼女の不信感を煽らないよう、俺はここに連れてきた理由を話すことにした。
「あぁ……こうでもしなきゃ、都築先生がブチ切れでもしないと収拾がつかなかったからな。そうなると確実に1限目は潰れちまう」
「は、はぁ……私、何か迷惑でしたか?」
「とんでもない。穂群川さんこそ、アイツらに詰め寄られて迷惑だったろ?」
「……?」
なんだかよく分からないとでも言った感じで、穂群川さんは首を傾げる。
もしかして……いや、もしかしなくてもこの人って……相当抜けてる?
思わずそんな失礼な考えが頭をよぎるが、ここは気にしないことにしよう。
「むしろ私の方こそ、みなさんに迷惑をかけていたのかと」
「ないない。アイツらが勝手に騒いでただけなんだから、穂群川さんが気に病む必要なんてどこにもないって」
「そう……ですか」
どこかまだ納得いかない様子で頷く穂群川さん。
というか、あの状況を自分の所為と思えるなんて、どれだけいい人なんだ。むしろ被害者は彼女の方だったと言うのに。
「まぁ、みんなも悪ノリしちまっただけで悪気はないんだと思う。あんまり嫌わないでやってくれ」
「そんな……嫌うも何も、私の方こそもっと気が利けば……やっぱりあんな感じじゃ印象最悪……ですよね……?」
そう言って「はぁ……」と一つ、ため息を漏らす。
おそらく自己紹介の時とその後の質問のことを気に病んでいるのだろうか。
だとすれば、それはとんでもない勘違いだ。
「いや、むしろ逆に働いたと思うな」
「……? どういうことですか?」
「んー……なんて説明すればいいかな……」
そのままを言えば「ギャップ萌え」で落ち着くのだが、もう少しうまく説明できる言葉が浮ばず少し頭を捻る。
「なんていうか、イメージと違ったって感じかな」
「イメージ……ですか?」
「あぁ。最初はもっと近寄りがたい感じだったけど、意外と素直で話しかけやすいんじゃないかってね」
「あ……ありがとうございます」
「い、いえ、どういたしまして」
何故かお礼を言われ、俺も思わず頭を下げてしまう。
どうやら少しは彼女の警戒心も薄れてきたみたいだ。それに1限目の鐘が鳴りそうだ。
「じゃ、そろそろ教室に戻ろうか。さっきよりは落ち着いてると思うし」
「あ、あの……!」
「ん?」
と、扉に手をかけ外に出ようとする俺を呼び止める穂群川さんの声。
足を止めそちらに向き直ると、穂群川さんが何かを言いたげな表情でこちらを見ていた。
かと思えば、何かを躊躇して俯き、もう一度こちらに向き直る。
「その……よければですけど、お友達に……なりませんか?」
「へっ……?」
意外過ぎる展開に俺は思わずそう訊き返す。
だっていつフラグ立てたんだ!? さっきまで警戒されてたって言うのに……
「あの……やっぱり駄目……ですか?」
「い、いや、全然! むしろこっちからお願いしたいくらいだよ!」
「そ、そうなんだ……」
少し熱が入ってしまっただろうか。穂群川さんが一歩後ずさり、距離が空いてしまう。
「もちろん! あ、そうだ。ケータイ番号交換しない?」
だがこの浮かれきったイカレポンチはそんなことお構いなく、その一歩を詰めて行く。
「あ、ごめんなさい。携帯電話、持ってなくて……」
「あ……そうなんだ……」
ほら見ろ、あからさまに拒否されたじゃないか。
馬鹿、俺の馬鹿! せっかくのチャンスなのに焦って何というヘマを……
「でも、差し支えなかったら教えてください。その内購入するかも……」
しかしまだ望みが潰えた訳ではないようだ。
「え、うん。わかった。ちょっとメモするから待ってて」
一瞬彼女の反応に戸惑いはしたものの、向こうから言い出してくれたのを断る理由もない。俺は学生手帳からページを切り取り、ケータイの番号をそこに書き写そうとする。
が、よく考えれば筆記用具は教室だ。これじゃつくづく格好がつかない。
「あ、そうですよね。これどうぞ」
どこまで出来た娘だろうか。穂群川さんがどこからともなくボールペンを取り出す。
「そういえばまだお名前、聞いてませんよね?」
「そうだっけ。じゃあ……これでよし」
ケータイ番号と一緒に自分の名前も書き記し、その紙を手渡す。
「俺、坂本一貴。コンゴトモヨロシク……」
「はい、こちらこそ。お願いします」
某悪魔合体風挨拶をスルーし、普通に応対する穂群川さん。どうやら今のネタはスベったらしい。通じたら通じたで少し困るが……
まぁそれはともかく、これで晴れて俺は彼女のご友人となれた訳だ。
これはクラスメイトの男子共にバレたらなんと言われることやら。
「では、教室に戻りましょう」
「そうしよう。不必要に遅くなって、またアイツらに騒がれたらたまったもんじゃない」
そしてチャイムが鳴りきる前に教室へと戻り、各々の席に着く。
そこではまるでお通夜のような静けさが俺達を待ち受けていた。
もう何も訊くまい。
こうして大きな波乱も起きないまま一日が過ぎ、この日の授業はすべて終わるまでは、比較的穏やかな天ノ原高校2年1組であった。
※ ※ ※
「とまぁ、大体こんな感じだった訳さ」
「なるほどねー。2人が妙に仲良くなったと思ったら、そんな理由があったんだ」
学校帰りの住宅街。約束のドーナッツショップに寄った後、俺と佳歩の話題は言うまでもなく転校生、穂群川アリスのことが中心であった。
ただどちらかと言えば、俺と穂群川さんが空き教室に逃げ込んでいる間、佳歩達がいかにして追いかけようとする男子達を止めつつ、事態を収拾させようとしていたかを延々と愚痴られていたような気もするが。
その流れで「一方その頃の2人は……」という感じで話を振られたという次第である。
ちなみに抑止力の効果は放課後までだったようで、5限の授業が終わると同時にクラス内はおろか、別のクラスからも野次馬達がぞろぞろとやってくる始末。
本当は穂群川さんも連れて親交を深めるため3人で行きたかったのだが、残念ながら本人は延々と続くであろう質問責めの真っ只中である。
さっきから賢治からの実況メールがひっきりなしに着信されているのが何よりの証拠だ。
よかったな賢治。トラウマが1日も経たずに解消できて。
「そういえば、カズくん達がいない間にケンちゃんと話してたんだけど」
「賢治とか? アイツ本当すぐに立ち直ったんだな」
「それはわたしもびっくり。それでね、どうしてこんな時期に転校してきたんだろ、って話になったの」
確かに言われてみれば今は5月の半ば。新学期から1ヶ月以上も過ぎている。
新学期の訪れと一緒に転校してこなかったということは、何らかの事情があったのだということくらい想像に難くない。
だがそれは、俺達が立ち入っていい事情なのだろうか。
興味本位であれこれ話しているクラスメイトの姿を想像すると、少し不快感を覚えてしまう。
「あっ、別にそんな悪い意味でじゃなくて、ちょっとだけ不思議に思っただけで……その……」
そんな俺の表情を読み取ったのか、佳歩はしどろもどろになりながら弁明をしようとする。
それを見て、自分の方が少し敏感になり過ぎていたと反省し、俺は素直に頭を下げた。
「こっちこそ悪い。そういや自己紹介の時もその辺りの話は一切なかったもんな」
こういう勝手な噂話をするとなんだか陰口を叩いているようでいい気はしないが、俺自身も彼女が転校してきた理由については興味がない訳でもない。
なのでこの話は打ち切らず、そのまま続けることにした。
「うん。それで思ったんだけど、もしかして穂群川さん、前の学校で嫌なことがあったんじゃないかって……」
「嫌なこと……?」
そう訊き返すと、佳歩は少し躊躇ってから、呟く様に小さな声で答える。
「例えば……クラスでいじめにあってたとか……」
「まさか……」
と、口では否定したものの、佳歩の推論にはどこか説得力があった。
朝のホームルームでのことを思い返してみれば、まず彼女を「冷たい女」と誰もが思い、かと思えばその素直さとのギャップから一躍男子のアイドルへと登りつめた。
もしこれと同じ状況が前の学校でも起こっていたとしたら……
いや、もしくは誤解されたままだとしたら……
それは少なくとも一部の人間から格好の的として認識されるはずだ。
しかも本人は口下手で、あの高校生離れした美貌である。クラスから浮いていたであろうことは容易に想像できる。
「それにね、女子の一部なんだけど、穂群川さんをあまり快く思ってない人もいるみたいなの……」
「それマジかよ……はぁ……」
ため息を一つ吐き出し、俺は額に手を当てる。
高校生にもなってそんなことを思ってる奴を考えると、もはや怒りを通り越して呆れさえ感じてしまう。
いや、思春期の真っ只中にある高校生だからこそ、男子達にちやほやされる花に嫉妬してしまうのだろう。
もしかしたら将来社会に出ても、こんなことがどこにでもあるのが当たり前なのかもしれない。そう思うと少し憂鬱だ。
「だからわたしの方でも注意してみるけど、カズくんも何かあったら穂群川さんを守ってあげてね」
「言われなくてもそうするさ。それが友達って奴だろ」
そして改めて、佳歩の面倒見の良さというものを思い知った。
両親が死んだあの時も、腐りそうになっていた俺を励まし、一緒に泣いてくれたっけ。
最初は余計なおせっかいだと思っていたが、その支えがあったからこそ今の俺がここにいることだけは疑いようもない。
だからもし、穂群川さんが辛い目に遭うことがあるのなら、彼女の力になってあげるのが無二の友人から教わった、本当の友情と言うものなのだ。
「あー、お腹減ったなー。今日の晩ご飯はステーキとパインサラダだっけ?」
そんな俺の言葉を聞いて安心したのか、佳歩が真面目な表情から一転、いつものハラペコモードに戻っていた。
「お前なぁ……さっき散々ドーナッツ食っただろうが。というか、よく朝のそんな妄言覚えてたな」
「甘いものとご飯は別腹。これ女の子の常識だよ?」
「だとしても佳歩の食欲は常軌を逸してるよ。まったく……パインサラダは作り方知らないから普通のサラダでもいいか?」
「うん!」
「よし、じゃあスーパーにでも寄ってくか」
それに今日の所は佳歩には色々世話になった気がする。さっきの会話のことだって、話題にされなければ気にしてもいなかった。
たまには夕飯をご馳走するくらいのことでもしないと、彼女の借りっ放しのモノがいつまで経っても返せそうもない。そう思いながら、今日の献立をあれこれ考えていた。
そして他に何か食べたいものはないか、それを訊こうと隣を見た時、俺はやっと隣に佳歩がいないことに気付いた。
どうせまたおいしそうな店でも見つけて立ち止まっているのだろう、そう軽い気持ちで後ろを振り返り、声をかける。
「おーい、また何かみつけ……」
そこに佳歩はいた。
だがいつもの彼女とは大きく『何か』が異なっている。
それは余りにも難度の低い間違い探しだ。だがそれにも関わらず、俺がその『間違い』に気付くのは数秒か十数秒か数分か、とにかく体感的に長い時間を要した。
いや違うな。単に俺はその『間違い』を信じられないのだ。とっくにその『間違い』は認識している。ただ認めたくないだけなのだ。
あぁ……どうして……どうしてそんなモノが、佳歩の体から突き出ているんだ!
ソレはどう見たってヒトを殺す為に作られたモノじゃないか!
金持ちの家に飾ってある刃のないソレとは違う、本物の刃を持った凶器。
刀、日本刀、打刀、太刀……呼び方は何でもいい。なんでそんなモノが、佳歩の体を貫いているんだよおおおぉぉぉぉぉ!?
「カズ、くん……はや……く……」
虚ろな瞳をした佳歩がこちらに手を伸ばす。
あぁ、わかってるさ。早く助けてやる!
くそっ、それだってのにどうしてさっきから体が震えて動こうとしないんだ!
その間にも佳歩の細い体から、信じられない量の赤い液体がドクドクと流れ出している。
口元からも同じ赤い液体を漏らしながら、何かを伝えようと口をパクパクと動かすが、その声は今にも消えそうな程にか細い。
その赤い液体が何なのか、もはや確認するまでもない。生物にとって最も重要な液体……血液だ。
それがあんなに流れてしまったら、どうなってしまうのか。
もちろん分かっているさ。だから、動け! 動くんだ!
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ……!」
俺は絶叫をあげた。この動こうとしない体に渇を入れ、恐怖を少しでも追い払おうと。
震えは止まった。体も動く。よし、いけるぞ。
もうこれ以上、大切な人を奪われてたまるものか……!
俺は走る。佳歩へ向けて一直線に。
その命の灯を絶やさないために……
そして――
佳歩を貫いていた刀が、炎に包まれる。
その時になって俺はようやく事態を理解した。
「カズくん……! はやく……逃げて……!」
炎の刃が横に薙がれ、佳歩がその場に倒れ伏した。
そう、彼女は助けを求めていたんじゃない。俺に逃げろと言い続けていたんだ。
佳歩の腹部からはおびただしい量の血液が流れ出しアスファルトを赤黒く染め、更に切断面からは人体に収まっているべき内臓が剥き出しになっている。
目を背けたくなるような状況。だがこれが現実であった。
「おい、佳歩! しっかりしろ!」
倒れている佳歩に近寄り、その体を抱き寄せた。
こんなにも人の体温というのは冷たかったのか。そう思える程、佳歩の体からは急速に体温が失われ、顔も青ざめている。
「カズ……ん……にげ……」
しかし朦朧としているが意識はある。すぐに病院へ連れて行けば助かるかもしれない。
「待ってろ、すぐに救急車を……」
などと、目の前で起きた惨劇に気が動転していた俺は彼女を助けること以外何も考えていなかった。
だから、その存在のことを今の今まで完全に失念していた。
佳歩の瞳が俺ではなく、別の誰かを見ていることに気付くまでは……
「……!」
嫌な予感がして、俺はとっさに佳歩から手を離して後ろへ飛びのいた。
その刹那、首の辺りにかすかな違和感と痛みを覚え、赤い雫が佳歩に飛び散る。
そして首筋に焼けるような痛みと……
「ありゃ、気付かれちゃったか」
刃が向けられた方から聞き覚えのない女の声がした。
どうして俺は今まで、こんな当たり前のことを気付かなかったのだろうか。
佳歩が刀で斬られたのなら、それを行った第三者がいるのは当たり前のことだ。
目の前で幼馴染みが血を出して倒れたショックに気が動転していたとはいえ、余りにも間抜け過ぎる。
「せっかく苦しまないよう一撃で殺してあげようと思ってたのに、その傷じゃしばらく苦しむよ、キミ」
呼びかけられ、俺は恐る恐るその方向に視線を向けた。
その女は俺達と同じ天ノ原高校の制服に身を包み、その上からパーカーのような物を着て顔を隠している。
声からすると年の頃は俺達と同じか、少し低いくらい。女というよりは少女と言った方がしっくりくるだろう。
ただそのパーカーの裾から黒い髪がなびき、相当長い髪だということだけは判別できる。
そしてもう1つ。日本刀に炎の異常能力者という符合……
すまない佳歩。さっきの忠告はどうやら聞けそうもない。
「お前がニュースでやってた殺人魔か」
「あったりー。だったら、ほら。早く逃げないと殺されちゃうよー?」
「へっ、誰が逃げるかよ……」
毒づきながら俺は立ち上がる。
こいつが異常能力者というならば、なおさら俺は逃げる訳にはいかない。
それにどうせ逃げたところで、ただの高校生である俺ではコイツから逃げることすらままならない。
それなら俺にやるべきことは1つしか残されていない。
俺は決意を固めた拳を握って、それをフード女へと向ける。
「へー、やる気なんだ?」
「どうせ逃げたって能力者とただの人間じゃ結果は見えてる。だったらアンタを倒すのに全力を出した方が勝ち目はあるからな」
「倒す? ハハハハハハッ! 何、主人公でも気取ってるつもり?」
「あぁ、そうさ。俺自身の物語は、いつでも俺が主人公だからな」
「フーン、だったら教えてあげるよ。能力者とパンピーの差ってものを!」
そう言って少女は指についた血をぺロリと一舐めする。
と、次の瞬間、俺の眼前から忽然とその姿は消えていた。
いや、消えるという表現は適切ではないだろう。
ただ俺の目では動きについていけないだけなのだ
これが異常能力者と、そうでない者の差。
身体能力、動体視力、戦闘力、どれ1つ取っても絶望的な差でしかない。
だが、それでも俺は逃げ出す訳にはいかなかった。
ここで逃げれば少なくとも佳歩は助からない。
それに見殺しにした俺自身を許すこともできない。
両親の時のように誰かを失って後悔するのはもうたくさんだ。
だから足掻いてやる。精一杯足掻いてやる。たとえ勝てない相手であろうと、たとえ俺自身が殺されようと……!
「でもキミの物語はここでお終い。じゃあね」
少女の放った一閃が……俺の命を奪う一太刀が、眼前に迫って来ていた――
to be continued
この作品は電子書籍「ももこと。」で連載中の小説です。
バックナンバーのみの公開となりますので、続きはももこと。vol.3が配信された後となります。
早く続きが読みたいという方はももこと。公式サイトよりvol.2をダウンロードしてみてください。