プロローグ 椿の君
「ふぅーっ」
冷たい朝の空気の中、私は一つ、白い息を吐いた。
手にした桶の水が、肌を刺すように冷たい。指先はとうにかじかんで、感覚が鈍くなっている。
それでも、私の心は不思議と晴れやかだった。
「あや、しっかり磨くんだよ。ここは殿のお通りになる廊下なんだからね」
少し先で同じように床を磨いていた松さんが、振り返って声をかけてくる。
松さんは、私のような下働きのまとめ役をしているベテランの侍女だ。少し口うるさいけれど、いつも気にかけてくれる優しい人。
「はい、松さん! ピカピカにします!」
私は元気よく返事をして、新しい雑巾を桶の水に浸した。
ぎゅっと固く絞ると、氷水のような冷たさが腕を伝ってくる。ぶるりと一度身震いしたけれど、すぐに気合を入れ直した。
今日から、私はここ、井伊谷城の本丸へと続くこの長い廊下の掃除を任されることになったのだ。
これまでは炊事場や裏庭の掃除ばかりだったから、これは大出世と言ってもいい。
(お父、お母、見てる? 私、頑張ってるよ)
故郷の村に残してきた両親の顔を思い浮かべ、胸の中でそっと語りかける。
貧しい農家の口減らしでここに奉公に来て、もう二年。辛いこともたくさんあったけれど、こうして少しずつ認められていくのが嬉しかった。
磨き上げられた檜の床板は、まるで鏡のようだ。
障子から差し込む朝の光が、床に反射してきらきらと揺れている。
なんて、静かで、綺麗な場所なんだろう。
私が今までいた、いつもせわしなく人が行き交う場所とはまるで違う。
この廊下の先には、この城の主、井伊家の当主である殿がおわす。
当主様は、お方様――つまり、女なのだと聞いている。
先代の当主が戦で討たれ、跡を継ぐ男子もいなかったため、その一人娘であった方が髪を下ろし、男の名を名乗って家督を継いだのだとか。
直虎様、という勇ましいお名前。
どんな方なのだろう。
会ったこともない殿の姿を想像しながら、私は無心に床を磨き続けた。
松さんの話では、とても厳しく、そして、息をのむほどお美しい方なのだという。
厳しいのは、この乱世で、女の身でありながら大名として家を守らねばならないからだろう。想像もつかないほどの重圧に、日々耐えておられるに違いない。
私がそんなことを考えていた、その時だった。
凛、と。
空気が、変わった。
今まで感じていた穏やかな朝の気配が、すっと張り詰めるような感覚。
顔を上げると、廊下の向こうから、一人の人影がこちらへ向かってくるのが見えた。
すっ、すっ、と畳を擦る衣擦れの音だけが、静寂に響く。
足音は、ほとんどしない。
その方は、紺色の地に白い椿の花が描かれた、簡素ながらも気品のある着物を身にまとっていた。
長く艶やかな黒髪は、後ろで一つに束ねられているだけ。
化粧もほとんどしておらず、その顔立ちはまるで雪を固めて作った人形のように、整いすぎていて現実感がない。
息が、止まった。
心臓が、喉までせり上がってくるかと思った。
美しい、人だった。
松さんの言っていた通りだ。いや、言葉で言い表せるような美しさではない。
ただ綺麗とか、そういうことではなくて……もっと、こう、魂が震えるような、神聖さすら感じるほどの美貌。
そして、その瞳には、凍てつく冬の湖のような、深い深い静けさが湛えられていた。
その方が、私の前でぴたりと足を止めた。
「……!」
ひっ、と喉が鳴る。
私は慌ててその場に平伏し、頭を床につけた。
「も、申し訳ございません! すぐにお下がりいたします!」
殿の御前で、掃除の邪魔になるなど、万死に値する。
血の気が引いて、全身から汗が噴き出した。
手打ちにされても文句は言えない。
私はただ、固く目を瞑り、来るべき衝撃に備えた。
しかし、いつまで経っても、厳しい叱責の声は降ってこなかった。
おそるおそる、ほんの少しだけ顔を上げると、その方は私を、ただ静かに見下ろしていた。
無表情。
何の感情も読み取れない。
けれど、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か寂しいような色がよぎったのを、私は見た気がした。
やがて、その方は何も言わずに、再び歩き出す。
衣擦れの音が遠ざかっていく。
完全に姿が見えなくなってから、ようやく私は、止めていた息を大きく吐き出した。
「はぁ……はぁ……っ」
どくん、どくん、と自分の胸の音がやけに大きく聞こえる。
まだ膝ががくがくと震えていた。
「……助かった……」
私はへなへなと、その場に座り込んでしまった。
全身の力が抜けて、もう雑巾を握る力も残っていない。
廊下の先に消えていく後ろ姿を、私はただ、見送ることしかできなかった。
あの、静かで、どこか寂しげな瞳。
紺色の着物に咲いていた、白い椿の花。
胸に焼き付いて、離れない。
「……殿……」
私の唇から、無意識に言葉がこぼれ落ちた。
今日、私は初めて、私の主に出会った。
そして、この日から、私の世界は少しずつ色を変え始めることになる。
この時の私はまだ、そんなこと知る由もなかった。