十年後のあなたへ
蝉時雨が容赦なく降り注ぐ、そんな言葉が陳腐に思えるほどの猛烈な夏の日だった。カイは、古びた神社の長く続く石段を、一歩一歩、祈るような気持ちで登っていた。十年。その歳月は、鮮烈な記憶を風化させるにはあまりにも短く、そして、この奇跡の日だけを待ち望んで耐え忍ぶには、あまりにも長すぎた。太陽はじりじりと肌を焼き、首筋を伝う汗は熱を帯びていた。この石段の先にあるのは、たった一夜の再会。そのために、自らの寿命を一年縮める。その選択に、カイは一片の迷いも抱いていなかった。むしろ、捧げるものが寿命で済むのなら、安いものだとすら思っていた。
十年前のあの日、ユイはあまりにも突然、カイの世界から姿を消した。それは、よく晴れた初夏の日。週末に二人で出かける計画を立てていた、そんな何気ない日常の延長線上に、悪夢は潜んでいた。バイク事故だった。青信号、いつもの交差点の横断歩道。ほんの数秒前まで、カイの少し前を歩き、振り返って「早く!」と子供のようにはしゃいでいたユイ。次の瞬間、大型トラックにはね飛ばされた彼女の体は、まるでスローモーションのように宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。砕け散ったヘルメットの破片、瞬く間に広がる鮮血の赤。その光景は、カイの網膜に焼き付き、十年経った今でも色褪せることなく、悪夢として夜ごと彼を苛んだ。
ユイのいない世界は、色も音も失ったモノクロームの映画のようだった。時間はただ無為に流れ、食事は砂を噛むように味気なく、眠りは浅く断片的で、ユイのいない現実へと引き戻される目覚めは苦痛でしかなかった。友人たちは心配し、代わる代わる声をかけてくれたが、彼らの言葉はカイの心の固い殻に弾かれ、虚しく響くだけだった。「時間が解決してくれる」そんなありきたりの慰めが、どれほど無力かを知った。一年が過ぎ、二年が過ぎても、悲しみは癒えるどころか、心の奥深くに澱のように沈殿し、カイの日常を重く支配し続けた。
仕事には行った。最低限の生活は送った。しかし、それは生きているというより、ただ呼吸をしているだけの日々だった。ユイとの思い出が詰まった部屋は、彼女がいた頃のまま時が止まっていた。クローゼットには彼女の服が並び、本棚には彼女が読みかけだった本が挟まれ、洗面所には彼女の歯ブラシが立てられたまま。それらを見るたびに、心臓を直接握り潰されるような痛みが走った。それでも、それらを片付けることはできなかった。まるで、ユイの存在そのものを消してしまうような気がして。
そんな絶望の淵で、カイはある言い伝えを耳にした。人里離れた山奥に、十年の一度だけ、死者を一夜だけ現世に呼び戻すことができるという神社がある。その蘇りには、巫女の特別な力と、そして何よりも、蘇りを願う者の強い想い、そして寿命一年分という代償が必要なのだと。初めは、迷信か、あるいは誰かの作り話だろうと本気にはしなかった。しかし、他に何を信じろというのか。ユイに会えるかもしれない、万に一つの可能性。それに賭ける以外、カイに生きる意味を見出すことはできなかった。
それからというもの、カイはその神社のことを憑かれたように調べた。古文書を漁り、郷土史家を訪ね、インターネットの僅かな手がかりを辿った。そして数年がかりで、ついにその神社の場所と、蘇りの儀式が行われる特定の日を突き止めたのだ。その日から、カイの心には微かな光が灯った。十年後。途方もなく長い時間に思えたが、明確な目標ができたことで、彼の心は死の淵から少しだけ引き上げられた。カレンダーに印をつけ、その日を指折り数えながら生きる日々。それは、希望と絶望が交互に押し寄せる、綱渡りのような精神状態だった。
そして今日、十年の歳月を経て、カイはその神社の石段の前に立っていた。蝉の声が一層大きく聞こえる。まるで、これから起こる奇跡を祝福するかのように、あるいは、その代償の重さを警告するかのように。
石段を登り切ると、そこはまるで異界だった。鬱蒼と茂る巨木が陽光を遮り、境内は昼なお暗く、ひんやりとした空気に満ちていた。時間の流れさえも、下界とは違うように感じられる。蝉の声だけが、この世ならぬ静寂を破っていた。本殿は小さく古びていたが、清浄な気配が漂い、厳粛な雰囲気を醸し出している。社の奥から、微かな鈴の音と共に、白装束に緋色の袴をまとった巫女が静かに姿を現した。年の頃はカイと同じくらいだろうか、長く艶やかな黒髪が印象的だった。その涼やかな目元には、全てを見透かすような、深く、そしてどこか憂いを帯びた光が宿っていた。
「お待ちしておりました、カイ様」
巫女の声は、夏の暑さを忘れさせるほどに澄みきっており、それでいて芯のある響きを持っていた。カイは驚きを隠せなかった。自分が今日ここに来ることを、どうして知っていたのか。そう問う前に、巫女は続けた。
「十年という長きにわたり、ユイ様への想いを一日たりとも忘れず、大切に繋いでこられたのですね。その一途で強い想いが、私をここに導き、そして、ユイ様の魂をこちらへ引き寄せるのです」
巫女はそう言うと、カイを静かに社の中へと促した。薄暗い堂内には、祭壇に置かれた一本の太く短い蝋燭だけが、頼りなげに揺らめく炎を灯していた。壁には古びた絵馬や、意味の分からない護符のようなものが貼られている。巫女は祭壇の前に静かに座し、目を閉じて深く息を吸い込むと、やがて低く、しかし朗々とした祝詞を唱え始めた。その声は、最初はささやくようだったが、次第に力を増し、堂内の空気をビリビリと震わせるのを感じる。カイは固唾を飲んで、その一部始終を見守った。どれほどの時間が経っただろうか。五分か、十分か、あるいはもっと長い時間だったかもしれない。ふと、目の前の空間が陽炎のように揺らぎ、淡い、しかし確かな光が立ち上った。光は次第に人の形を取り始め、やがて、そこにはカイが焦がれ続けたユイの姿があった。
「ユイ……」
声が震えた。十年前、最後に見た時と何も変わらない、優しい微笑みを浮かべたユイ。彼女はゆっくりと目を開き、焦点が合うと、驚いたように少し目を見開いた。そして、ふわりと、あの頃と変わらない笑顔を見せた。
「カイ……? 本当に、カイなの……?」
ユイの声は、記憶の中よりも少しだけ儚く、どこか遠くから聞こえてくるようだったが、紛れもなく彼女のものだった。カイは震える足でユイに歩み寄り、伸ばされた彼女の手に触れた。温かい。確かに、生きている。夢ではないのだ。次の瞬間、カイはユイの細い肩を強く、しかし壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「俺もだ、ユイ……ずっと、ずっと会いたかった……!」
言葉にならない想いが、嗚咽となってカイの口から溢れ出す。背中に回されたユイの手が、優しく彼を慰めるように上下する。その感触が、あまりにも懐かしくて、カイは子供のように泣きじゃくった。
「ありがとう、カイ。私を呼んでくれて。……すごく、すごく会いたかった」
ユイもまた、涙声だった。
限られた時間は、まるで砂時計の砂が落ちるように、刻一刻と過ぎていく。巫女は、「夜明けまでのお時間です」とだけ告げ、静かに社を退出していった。二人きりになった社殿は、蝋燭の炎が作り出す陰影が揺らめき、幻想的な雰囲気に包まれていた。
カイとユイは、手を繋ぎ、ゆっくりと神社の境内を歩いた。十年間の空白を埋めるように、カイはユイに語り続けた。ユイがいなくなってからの世界の色のなさ、彼女との思い出だけを支えにしてきたこと、この再会がいかに待ち遠しく、そしてどれほど奇跡的なことなのか。ユイは黙ってカイの話に耳を傾け、時折、優しい相槌を打ち、彼の言葉に涙ぐんだ。
「カイ、少し痩せた? ちゃんと食べてるの?」
月明かりの下、ユイが心配そうにカイの顔を覗き込む。昔から、ユイはカイの些細な変化にもすぐに気づいた。
「そうかな。ユイの作るご飯が食べられなくなってから、何を食べても美味しくなくて」
「ふふ、もう、カイは私がいないとダメなんだから」
悪戯っぽく笑うユイの表情は、大学時代、初めて二人でデートした時のそれと少しも変わっていなかった。それがカイにはたまらなく嬉しく、そして同時に、胸を締め付けるような切なさを感じさせた。この時間が永遠に続けばいいのに。しかし、東の空はまだ暗いが、確実に夜明けに向かって時は進んでいる。
「ねえ、カイ。初めて二人で星を見に行った時のこと、覚えてる?」
池のほとりに並んで腰を下ろし、水面に映る月を眺めながら、ユイが不意に言った。
「ああ、覚えてるよ。確か、俺が運転免許取りたての頃でさ。道に迷って、とんでもない山奥に着いちゃったんだよな」
「そうそう! でも、そこから見た星空、すごく綺麗だったよね。流れ星も見えたし」
「ユイは、流れ星に何をお願いしたんだっけ?」
「えーっとね、『カイともっともっと一緒にいられますように』って」
ユイは少し照れたように笑った。その笑顔は、カイの記憶の中の最高の宝物だった。
「俺は……『ユイがずっと笑顔でいられますように』って願ったよ」
「そうだったんだ……。ありがとう、カイ」
ユイの瞳が潤んでいるように見えた。
「カイ、私ね、こっちに来てからずっと、カイのことを見ていたんだよ」
しばらくの沈黙の後、ユイが静かに切り出した。
「え……?」
「うん。だから、カイがどれだけ苦しんでいたか、どれだけ私のことを想ってくれていたか、全部知ってる。私のせいで、カイに辛い思いをさせて、本当にごめんね」
「そんなことない! ユイは何も悪くない。俺が……俺があの時、もっとしっかりしていれば……ユイを一人で先に行かせなければ……」
あの時、ユイの手を強く握っていれば。あの時、違う道を選んでいれば。後悔の念が、十年経った今もなお、黒い影のようにカイの心にまとわりついている。ユイはそっとカイの手に自分の手を重ねた。その手は、少しだけひんやりとしていた。
「ううん。あれは誰のせいでもない。きっと、そういう運命だったの。避けようとしても避けられない、そんなものだったのかもしれない。でもね、カイ。私は後悔していないよ。カイと出会えて、恋をして、一緒に過ごせた時間は、短かったかもしれないけど、私の人生で一番輝いていて、幸せな時間だったから。それは、こっちに来てからもずっと、私の心を温めてくれている宝物なの」
ユイの澄んだ瞳が、月明かりを受けてきらめきながら、まっすぐにカイを見つめる。
「だから、カイには、前を向いて生きてほしいの。私のことを忘れる必要なんて全くない。時々思い出して、笑ってくれたら嬉しい。でも、私のいた過去に縛られて、カイの時間を止めてしまわないで。カイには、カイの未来があるんだから」
「未来なんて……ユイのいない未来に、何の意味があるっていうんだ……」
カイの声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「意味なら、たくさんあるよ。カイが生きていること、それ自体に大きな意味があるの。私が愛したカイは、不器用だけど優しくて、ちょっと泣き虫だけど本当は強くて、そして、どんなことにも真剣に向き合う、諦めの悪い人だった。だから、お願い。私のために、なんて重荷を背負わせるつもりはない。カイ自身のために、カイの人生を、歩みを止めないで生きて」
ユイの言葉の一つ一つが、カイの胸の奥深くに、温かい雫のように染み込んでいく。そうだ、ユイはいつもそうだった。カイが就職活動で落ち込んでいた時も、大事なプレゼンで失敗して自暴自棄になりかけた時も、いつも力強い言葉と、太陽のような笑顔で背中を押してくれた。
「見て、カイ。夜が、明けようとしている」
ユイが指さす東の空が、深い藍色から徐々に白み始め、やがて地平線に沿って淡い茜色が滲み始めていた。森の木々の間から、一番鶏の鳴き声が遠く聞こえてくる。新しい一日が始まろうとしていた。それは、ユイとの、二度目の別れの時間がすぐそこまで迫っていることを、非情にも告げていた。
「ユイ……」
カイはユイを強く、しかしもう消えてしまいそうな彼女を壊さないように、優しく抱きしめた。もう二度と離したくない。このまま時が止まってしまえばいいのに。しかし、ユイの体は、朝の光が近づくにつれて、足元から少しずつ透き通り始めていた。その事実に、カイは息を飲んだ。
「カイ、ありがとう。本当に、最高の時間だった。カイの寿命を一年、もらっちゃったこと、本当にごめんね。でも、後悔はしないでね」
「謝るなよ、ユイ。俺が望んだことなんだ。一年なんて安いもんだ。ユイにこうして会えるなら、俺は、何度だって……」
「ううん、もういいの。一度だけで十分すぎるくらい、幸せだったから。カイには、これから先の長い時間を、大切に生きてほしい。私の分まで、なんて重苦しいことは言わない。カイ自身の人生を、カイらしく、思いっきり楽しんでほしいの」
ユイの姿が、朝陽の柔らかな光に溶け込むように、急速に薄れていく。彼女の微笑みは変わらないのに、その輪郭はどんどん曖昧になっていく。
「忘れないで、カイ。私はずっと、どんな時も、カイのことを見守っているから。いつもカイの味方だから。そして……心の底から、愛してる」
それが、ユイの最後の言葉だった。優しい微笑みをカイに向けたまま、彼女の姿は完全に光の中に溶け込み、消え去った。そこにはもう、ユイの温もりも、甘い香りも、何も残っていなかった。ただ、夏の朝の、力強いけれどどこか切ない光が、静かに降り注ぐだけだった。
カイは、その場に立ち尽くした。涙は、もう出なかった。心の中にぽっかりと空いた穴は、決して埋まることはないだろう。しかし、不思議と、十年前のような、全てを投げ出してしまいたいほどの絶望感はなかった。ユイの最後の言葉、彼女の笑顔、そして「歩みを止めてはならない」というメッセージが、温かい光となってカイの心を満たし、支えていたからだ。
社の戸口に、いつの間にか巫女が静かに立っていた。彼女は何も言わず、ただカイの顔をじっと見つめている。
「ユイ様は、カイ様の心に、確かな光を灯して旅立たれたのですね」
しばらくして、巫女が静かに言った。
「はい……。俺は、もう大丈夫です」
カイは巫女に向かって、しっかりと頷いた。その声には、もう迷いはなかった。
「寿命を一年縮めること、そしてこの一夜の奇跡を経験したこと、後悔はありませんか?」
巫女の問いかけは、厳かでありながらも、どこかカイを試すような響きを持っていた。
「ありません。全く。むしろ、心から感謝しています。ユイと話せて、彼女の想いに触れて、俺は……ようやく、本当に前に進む勇気をもらいましたから」
巫女は静かに微笑み、深く頷いた。その表情は、どこか安堵したようにも見えた。
「そのお気持ちがあれば、ユイ様も心安らかに、あなたの未来を見守ることができるでしょう。さあ、お帰りなさい。そして、力強く生きてください。それが、ユイ様への何よりの供養となり、そしてあなた自身の人生を輝かせることでしょう」
カイは巫女に深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べると、朝日が差し込み始めた神社を後にした。長く続いた石段を一段一段下りながら、カイは決意を新たにしていた。ユイのいない世界は、これからも寂しいに違いない。時折、どうしようもない悲しみに襲われ、彼女の温もりを求めてしまうこともあるだろう。それでも、決して歩みを止めてはいけない。ユイが最後に残してくれた、愛に満ちた言葉を胸に刻み、自分の人生を精一杯生きよう。それが、彼女への愛の証であり、彼女が生きていた証なのだから。
蝉の声は、神社の境内よりも一層大きく、力強く地上に降り注いでいた。しかし、その音はもう、以前のようにカイの心を苛むことはなかった。それはまるで、彼を励まし、未来へと送り出す盛大なエールのように聞こえた。昇り始めた太陽の光が、木々の葉を透かしてキラキラと輝き、カイの進むべき新しい道を明るく照らし出している。カイは、一度大きく深呼吸をすると、昨日までとは違う、確かな足取りで未来へと歩き出した。ユイとの再会は一夜限りの儚い奇跡だったかもしれない。しかし、彼女が灯してくれた希望の光は、カイの心の中で永遠に、力強く輝き続けるだろう。そして、いつかまた、どこかで会えるその日まで、彼は決して歩みを止めることはない。